カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

納豆のある毎日

2022-07-14 | 

 朝から納豆を食べている。これまでも食べていたことはあるが、これがもうそれなりに長い間続いているのは初めてのことかもしれない。
 実はつれあいはまったく納豆を食べない。少なくとも僕は食べているところを見たことが無い。納豆が嫌いなのかどうかも確かめようがないくらい、食べようともしない。たぶん嫌いなのだろう。そういうこともあってか、結婚してからしばらくの間は、朝食に納豆が出ることは皆無だった。僕は出張もそれなりに多いので、そういう時の朝の楽しみの一つが納豆だったかもしれない。朝食に限らず、ビジネスホテルの夜のつまみに納豆を買うこともあった。酔っぱらってべとべとになるのは、なんだか気持ちの悪いものはあるが、ワンカップとか赤ワインには、あんがい納豆は合うのである。
 なんで納豆が出るようになったのかな、と考えるが、僕の整腸のために出ているのではないかとは推察される。僕は頻繁にお腹を壊していて、ほぼそれが常態化しているわけだが、多くの可能性は遺伝性であろうとは考えられるものの、腸内細菌のバランスが悪いとも考えられなくもない。ヤクルトも飲んでいたしヨーグルトも食べている。野菜も結構食べていると思う。少なくとも嫌いではない。僕は人並みに好き嫌いは多いが、食べない食品はほぼ無い。しかし腸の調子が悪いのは、たぶん酒を飲むためだろう。休肝日をもうけているが、休肝日明けの翌日が、特に腸の調子が悪くなる。日を置いて酒を飲むので、ふつうに壊れるのだろう。壊れた状態に慣れるまで数日かかり、そうして休肝日でちょっとだけ正常化するものの、結局壊れる。人生とは波乱に満ちている。
 ところがである。納豆を一定期間欠かさず朝食べ続けていると、腸の壊れ加減が軽減されているような感じがある。以前のそれは大変に激しいもので、通勤に支障が出ていた。危険サイン(いわゆる便意)がでて5分の猶予があるか無いか。大変な戦いを強いられていた。そういう状態にありながら、朝の時間を何とかしのぎながら生活を続けていた。そういうものが僕という人間の生活スタイルだったと言っていい。そうであったのだが、今のそれは、猶予の時間が15分くらいに伸びたのである。素晴らしい自由だ。そういう予兆のあるなしも、それなりに感じ取ることができる。そうすると、30分くらいの未来は、ある程度予想可能になる。行動制限が、ほぼなくなっているようなものだ。
 もちろんそれでも、おそらくだが一般の人と比べると、少しくらいは腸が壊れている状況ではあろうかとは考えられる。しかし、正常とは何だろう。そういう高みを望んで生活を営んでも、叶えられない希望に生きていくことに何の意味があるというのか。
 要するに納豆は凄いということか。さらに毎日食べているにもかかわらず、そんなに飽きない。正直に言うと、人生においてこんなに毎日納豆を食べ続けていた時期なんてものは経験が無いのだから、これからのことなども予想だにできないことなのだが、なんだかそれでも素晴らしいのである。口元がべたべたして、いちいちティッシュペーパーで拭いながら、他のおかずやみそ汁などを食べなければならない煩わしさがあるものの、僕は少し壊れただけの腸の細菌状態を保ちつつある。茨城県民というは、こういうのが当たり前なのだろうか。
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