カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

礼儀を重んじるのはいい習慣ではない

2022-07-22 | culture

 外国人の持つ日本人の印象の中に、礼儀正しさというのがあるらしいのだが、それは極めて卑近な誤解に基づくものだと僕は思うが(日本人は外国人に比べて礼儀正しくなんかは無いから)、いきなり脱線するのでそれはいいとして、何かをしてもらったら、お礼を言うというような礼儀正しさは、どこの国の人であろうと、すべきことには違いはない。だからこそ、外国人であったとしても、日本人の儀礼に対して、習慣に違いがあろうとも、その敬意について、気づくことができるというだけのことだろう。
 しかしながら、車に関するマナーにおいては、そういう謝意などをあらわす方法がなかなかに難しい場合がある。皆急いでいるとは限らないまでも、車の量が多すぎるところや時間帯などでは、車の動きについて、憤りを覚える人もいることだろう。譲ったのに礼もしなかったとか、運転しながら怒っている人を何人も見たことがある。なかには相手に聞こえないからなのか、あからさまに罵倒する人もいる。意味が無い行動という意味では、これこそ日本人らしいと僕なんかは思うが(罵倒するなら相手にちゃんと意思を伝えるべきだ)、さて、外国人はそういうのは見ていないのだろうか。
 車種などにもよるだろうが、クラクションを鳴らすというのは対面などで道を譲られる場合などは、ある程度効果的だとは思うが、実際のところその相手の身ではなく周辺の人にも、これが聞こえるということを考えると、近所迷惑である可能性もある。クラクションの音を変えてボワーンと凄い音を出すヤンキーの人もいるが、これは「ああそういう人ね」という感じで格好が悪い。でかいトラックのパプーッというのも迫力がありすぎて困るが、まああれは仕事柄仕方が無いのかもしれない。そうではあるが、僕は一人で運転しているときは音楽のボリュームが大きいので、相手がクラクションを鳴らしているかどうかなんてほとんどわからない。だから僕に対しては、ほぼ意味のない行動である。
 すれ違いざまにちょっと手をあげて謝意を表すおじさんも多いが、やはりこれは、ご婦人にはハードルが高い動作であるようにも感じられる。それというのもちょっと敬礼っぽいものがあることと、実際にやっている人もあまり見ないためだ。なんとなく頭を下げているような動作の人が多いようで、フロントガラスの光の反射具合で、確認の難しい場合がある。苦慮している人もいるのではないか。
 さて横道から流れてきた車を前に譲らせる、いわゆる割込みを許す場合に、近年はサンキューハザードをする行為が、それなりに定着している。これはだいぶ昔にドリカムが愛しているのサインでブレーキを踏むとか訳の分からないことを歌っていて、ヤンキー文化というのはまったくしょうがないと思って嫌だったのだが、愛しているのサインではなく、ありがとうのサインとして理解している人が増え、実行しているものと思われる(まあブレーキランプとハザード・サインはちょっと違うけど)。もともとはヤンキーの人とかトラック運転手の習慣だったみたいだけど、一般の人にも広く定着し、よっぽどの高齢者でない限り、やっているという感じがする。多少うざいという人もいるが(強引に割り込んでハザードは点けるというのがいるし)、まあ、これは分かりやすいかもしれない。テレビで見たのだが、これを日本の美徳の習慣として感動している外国人がいたので、面食らってしまった。外国でもこれはやるらしいのだが、要するにまちまちのことで、誰もが習慣としてやられるものではないという。単に一律に右へ倣いをする日本人であるに過ぎなくて、いつまでもマスクをしているようなものと変わらない精神構造に過ぎなくて、僕ら日本人にとっては醜悪ではあるが仕方名の無い結果なのだけれど、感動されるのであれば、勝手にしてもらってよい。
 しかしながら、そもそも車で謝意を表明するなんて必要が本当にあるのだろうか。譲ってやってお礼を言われるのが当然だと何故考えるのだろうか。
 実をいうと僕の場合は、そういう礼を言われる筋合いはない、という感覚がある。ある程度スピードが緩んだり、ちょうど車間が開いていたというような場合に、どうぞお入りくださいとやる方が当然なのであって(全体的な車の流れがスムーズになり社会秩序が保たれるから)、別段お礼をされたくもない問題である。譲ってもらう側としたらお礼したい気持ちになるのは分かるが、出来れば相手のドライバーの顔を確認でき、僕は男なのでちょっと右手を上げるくらいのことで済ませたい。ハンドル操作をしながら今度は左手てハザードボタンをちょっとだけの時間押すというのは、やっぱりちょっと恥ずかしい。それは僕がヤンキー由来の人間ではないことと、やはり世間に流されている日本人を意識するからだろう。さらに僕の本心としては、譲る側の人間としては謝意の表明の必要を感じていない人間である。当然のことをしたのにお礼なんてされたくないのだ。
 そういう葛藤とのバランスの悪いサンキューハザードだが、これは今後も無くならないだろう。いずれ世界の共通語になり、しない人間を非礼として糾弾する人々を生むかもしれない。非寛容な世の中に対して、僕は憂いているのである。
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