カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

昼飯の問題だけではない(アイディア量産法)

2022-07-16 | Science & nature

 「ランチをどこにしようか?」という時に「マックに行こう!」と提案する。すると多くの人は行きたくないので、対案として様々な意見がでて、その場のディスカッションが活性化する。そのようにしてアイディアを出しやすくする仕掛けを「マクドナルド理論」という。要するに、いいアイディアを産むためには、最初は「実現可能な最低の提案」出すことは、案外悪くない、ということらしい。
 もちろんこれはジョークも含んでいて、これ自体が面白いので皆が納得しやすいということも含んでいるが、マックという巨大な企業をあえて皮肉っていることと、実際にはマックのランチを望んでいる人はいることと思うが、お前はそんな人間でいいのか? というようなニュアンスも含んでいる。マックのランチでいい、なんていうことが妥協点なのか、それともそういう趣向性の人間に、いいアイディアを産む能力が育ちにくいとするような、いわば偏見と言いがかりをつけている。もちろん、ジョークだけど、そもそもそんなところに行きたくなんか無いだろうという予測をいち早く立てられる能力があること自体が、クリエイティビティに満ちている証拠かもしれない。まあ、マックという偉大なアイディアを作った人の方が凄いかもしれないけど。
 しかしながら、よほどのことが無い限り、マックでランチを済ませたくない気持ちというのは、年を取ると実感することかもしれない。そういう人がいいアイディアを持っている可能性が高いとは思えないが、そもそもそういう場所にはいかないし、自分は馴染めそうにない。しかしそう提案されたならば、特に若い人が提案したならば、それに従うのも流儀ではないか。はい、そこでアイディアはつぶれる。要するに、この提案の前提条件の集団の特性も考慮する必要があるかもしれない。しかし対案が蕎麦だとかラーメンだとかもつまらない気がする。そもそもそんなに複数の選択肢が、環境に揃っているものだろうか。
 結局人は、何かを否定するのは得意なのだ。その前の提案の方がはるかに難しい。しかしながら、その第一歩を踏み出しやすくするには、工夫がいる。要するにマクドナルド理論を広く理解している人が揃えば、気兼ねなくマクドナルド理論を提案しやすい。お、そう来たか、と反応しやすくなる。しょうもない提案をした人を卑下することなく、さらに傷つくことなくしょうもないことを言える勇気の必要が無い場が必要だ。それは特に日本人には必要なことかもしれない。
 さらにこの理論の一番のキーになる考え方は、最初の一歩のハードルを下げることにあるらしいことだ。いかにもいわゆるアメリカ的なセンスがありそうな考え方だけど、それはそもそものアメリカ的な自由さと偏狭さを兼ね備えているからだ。こういう面白さを含んでいるそのものが、前に進む原動力になっている。そうして失敗を恐れずに第一歩を踏み出すフロンティア精神さえありそうだ。そういう第一歩が踏み出せたら、その次に続く二歩目は、優れていても簡単に生み出せるかもしれない。アイディアは、やれるかどうかの前提より、まずは出すか出さないか。まあ、他のことも似たようなものなのだろう。
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朝は余裕を持って運転を   アオラレ

2022-07-15 | 映画

アオラレ/デリック・ボルテ監督

 原題はUnhinged 。蝶番が外れた、とか精神的に不安定なことを言うらしい。日本だとあおり運転が問題になっていることもあって、この邦題にしたのだろうと思われる。遅刻しそうでイライラしている朝に、前の車が信号が青になっても動かない、クラクション鳴らして抜き去ると、追っかけてきてさっきは悪かったがお互いに礼を尽くそうじゃないかという事を言われるが、頭に来てるので拒否すると、男は狂暴化するのだった。
 男の暴走で多く人が巻き込まれて、おそらく死んでいく。女は逃げまどうが、給油しているときに携帯を奪われ、自分と関係する人も巻き込まれていく。クラクション鳴らしただけなのにこれほど執拗に追いまとわれるには、確かにさすがに軌道を逸している。それに不条理すぎる。しかし男は精神的に異常なのである。どれだけ手を尽くしても、女が心から謝罪をしないのであれば、殺してでもいうことを聞かせたいと考えているようだ。
 だいぶ前の映画だが、スピルバーグ監督の名作「激突」という作品でも、大型トレーラーが執拗に追いかけてくるホラーがあったが、おそらくはそれもモチーフになっているはずだと思われる。行き過ぎていて恐ろしいのだが、ほんのちょっとだけこちらが先に敵意をむいたのがきっかけで、大きな代償を払わされることになる。これは何かの教訓なのだろうか。それにしても行き過ぎていて、その不条理な状況がさらに恐怖心をあおられるのである。
 もともと主人公は寝坊の常習で、時間にもルーズなところがあるようだ。その上に最悪の朝を迎えてしまって、イライラは大膨張している状況だ。要するに彼女には改めるべきところがある。相手はさすがに行きすぎではあるものの、彼女の性格に落ち度があるように見えるのである。最終的にはアメリカ的にやり返さなければ気が済まない様だが、そんなんでは済まないような代償の大きすぎる後味の悪さになるだろう。かつての英雄的な男の中の男ラッセル・クロウが、ぶくぶく太った狂人を演じているからこそ復讐してもよいようなことになっているが、やっぱり少しは反省すべきではないでしょうか。
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納豆のある毎日

2022-07-14 | 

 朝から納豆を食べている。これまでも食べていたことはあるが、これがもうそれなりに長い間続いているのは初めてのことかもしれない。
 実はつれあいはまったく納豆を食べない。少なくとも僕は食べているところを見たことが無い。納豆が嫌いなのかどうかも確かめようがないくらい、食べようともしない。たぶん嫌いなのだろう。そういうこともあってか、結婚してからしばらくの間は、朝食に納豆が出ることは皆無だった。僕は出張もそれなりに多いので、そういう時の朝の楽しみの一つが納豆だったかもしれない。朝食に限らず、ビジネスホテルの夜のつまみに納豆を買うこともあった。酔っぱらってべとべとになるのは、なんだか気持ちの悪いものはあるが、ワンカップとか赤ワインには、あんがい納豆は合うのである。
 なんで納豆が出るようになったのかな、と考えるが、僕の整腸のために出ているのではないかとは推察される。僕は頻繁にお腹を壊していて、ほぼそれが常態化しているわけだが、多くの可能性は遺伝性であろうとは考えられるものの、腸内細菌のバランスが悪いとも考えられなくもない。ヤクルトも飲んでいたしヨーグルトも食べている。野菜も結構食べていると思う。少なくとも嫌いではない。僕は人並みに好き嫌いは多いが、食べない食品はほぼ無い。しかし腸の調子が悪いのは、たぶん酒を飲むためだろう。休肝日をもうけているが、休肝日明けの翌日が、特に腸の調子が悪くなる。日を置いて酒を飲むので、ふつうに壊れるのだろう。壊れた状態に慣れるまで数日かかり、そうして休肝日でちょっとだけ正常化するものの、結局壊れる。人生とは波乱に満ちている。
 ところがである。納豆を一定期間欠かさず朝食べ続けていると、腸の壊れ加減が軽減されているような感じがある。以前のそれは大変に激しいもので、通勤に支障が出ていた。危険サイン(いわゆる便意)がでて5分の猶予があるか無いか。大変な戦いを強いられていた。そういう状態にありながら、朝の時間を何とかしのぎながら生活を続けていた。そういうものが僕という人間の生活スタイルだったと言っていい。そうであったのだが、今のそれは、猶予の時間が15分くらいに伸びたのである。素晴らしい自由だ。そういう予兆のあるなしも、それなりに感じ取ることができる。そうすると、30分くらいの未来は、ある程度予想可能になる。行動制限が、ほぼなくなっているようなものだ。
 もちろんそれでも、おそらくだが一般の人と比べると、少しくらいは腸が壊れている状況ではあろうかとは考えられる。しかし、正常とは何だろう。そういう高みを望んで生活を営んでも、叶えられない希望に生きていくことに何の意味があるというのか。
 要するに納豆は凄いということか。さらに毎日食べているにもかかわらず、そんなに飽きない。正直に言うと、人生においてこんなに毎日納豆を食べ続けていた時期なんてものは経験が無いのだから、これからのことなども予想だにできないことなのだが、なんだかそれでも素晴らしいのである。口元がべたべたして、いちいちティッシュペーパーで拭いながら、他のおかずやみそ汁などを食べなければならない煩わしさがあるものの、僕は少し壊れただけの腸の細菌状態を保ちつつある。茨城県民というは、こういうのが当たり前なのだろうか。
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痛みは生きている証   蛇にピアス

2022-07-13 | 映画

蛇にピアス/蜷川幸雄監督

 原作は金原ひとみの小説。当時かなり話題になっていたが、内容は知らなかった。こんな話だったんだ。驚きました。
 舌の先を切って蛇のようにし、全身に入れ墨を入れピアスをあちこちにしている謎の男アマと知り合い、肉体改造やその時の痛みに傾倒していく19歳のルイだったが、アマとの関係で知り合い、刺青の彫り師のシバとの相性もサドとマゾとしてはいいのだった。自分に対して純粋に愛を注いでくれるものの、時に軌道を逸して狂暴化するアマへの愛おしい思いは強いものの、アマはルイに絡んできた暴力団のチンピラの男に異常に暴力をし返して、結果的に殺してしまうのだった。
 水商売でしか生きていきようのないような女だが、男にモテないわけではないし、若いし適当で十分楽しいはずだったが、痛みを伴う肉体改造の世界の何とも言えない耽美さに惹かれ、自分のマゾ的な本能的な目覚めを自覚していく。しかしながら同時にそれは、現状とは折り合いのつかない苦しさとも隣り合わせだった。この特殊な世界を理解できる人間も限られていて、その見た目の迫力に誰も文句は言ってはこないものの、それは少し脆くも危うい、自分の強さだけが頼りの世界ともいえるのだった。
 少し前の映画だが、主演の吉高由里子を筆頭に、高良健吾や井浦新(このときはARATAを名乗っていたようだ)も堂々と脱いでいて熱演である。ピアスや入れ墨は本物ではないのだろうけれど、これもこの若いきれいな肉体に映えて見事というしかない。こんな人たちが近くに寄ってくると、怖くて委縮してしまう事だろう。
 お話は、特殊性はありながら、単なる見世物的な興味本位のものでもない。一定の緊張感を保ちながら、サスペンス的な謎解きとどんでん返し的な筋書きの面白さもある。はっきり言って痛みに弱い僕にはかなりつらい場面も多かったが、究極の愛というような表現方法も実に見事という感じがした。いや、見事であります。その後彼女や彼らはそれなりに清純な役柄も演じていくことを思うと、若い時に凄いパワーをちゃんと発揮できた作品を経ていたことに敬意を抱きたくなった。逆のパターンなら痛いことになりかねないが、今考えると、もうこういう作品を同じキャストで撮ることは、不可能に近いのではあるまいか。
 それでも気持ちの悪さと共感のしにくさもあるのは確かだろうから、人を選んでしまう作品かもしれない。こんな世界があるんだな、という事に、僕としては心を打たれてしまった。こういう女の人の考え方って、やっぱり凄いです。
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勘違いの対象にならないように

2022-07-12 | 時事

 安倍さんを殺した山上徹也の動機が明らかにされつつある。母が入信し、信者として多額の寄付をして破産したとされることで、その宗教団体である統一教会を恨み、その復讐として安倍さんを撃ったと供述している。安倍さんは統一教会の信者ではないし、この団体との関係もない。団体から呼ばれて挨拶をしたビデオがあるようだが、そりゃあ政治家としては、呼ばれたら何か言うだろう。要するに勝手な勘違いと妄想をしているようで、何らかの精神の問題もありそうである。そのような理由が本当だとしたら、何ら政治的な意図はなく、言論を封じるテロではないということになる。まったく脱力感のある話だが、無関係な人間を勝手に殺したということであれば、安倍さんは残念なことに無駄死である。
 間違って殺されたのだから迷惑な話である以上に、このような妄想に巻き込まれた何らかの社会的な背景による、妄想を助長するものがあったとも考えられる。安倍さんは政治的に数々の業績を残した歴史に残るだろう政治家だが、その為なのか、数々のマスコミの妄想による誹謗中傷の絶えない人だった。辛抱強く耐え忍んで、何の関連もない事象を否定し続けたにもかかわらず、そのような印象を残した人たちが一定以上居そうである。山上の個人的な妄想だったということであるにせよ、このような妄想に安易に結びつくような素地を作った一定の世論操作に、問題が無かったとは言えないだろう。ゆがんだ個人攻撃を長年にわたって執拗に繰り広げてきた一部のマスコミについては、検証が必要であろう。
 それにしても実際に人を殺してしまうほどの強い殺意を作り出した理由が、勘違いというのはひどい話だ。母親の破産は、山上個人としては大きな問題だろうとは思うが、その恨みの攻撃対象に、何故素直に復讐しなかったのだろうか。実際には統一教会の一定以上の責任者と接触が難しかった所為だろうと考えられるが、そのために比較的接触が簡単そうに見える著名な政治家を関連付けして、復讐を遂げようとしたという安易さに逃げたのかもしれない。しかしながらそうであるならば、これは政治家に限らず、一定の著名な人であれば、一般の人との接触の容易な状態を作りやすい環境に置かれることは、非常にリスクが高い行為と隣り合わせであるということにもなりかねない。今は政治活動で一定の警戒リスクを検証することになりそうだが、実態としては、芸能人などを含めた著名な人間の警備体制まで含めた、リスクを考えるべきであろう。
 今のところ山上との関連のある団体や個人が連動して行動を起こすとは考えづらいが、山上のような一匹狼で、何か個人的な恨みをゆがんだ形で表明したい模倣犯のような人間が、何らかの刺激を受けて動きを見せる可能性が無いとは言えない。コロナ禍で長期的にそのような機会が閉じていた反動が、選挙という開かれた動きを、さらに妄想につなげた可能性は無いのだろうか。ちょっと恐ろし気な妄想に終わって欲しいが、しばらくはイベント警備など、注意や警戒を強める必要があるように思える。
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思春期って、本当のことは言わない   宇宙でいちばんあかるい屋根

2022-07-11 | 映画

宇宙でいちばんあかるい屋根/藤井道人監督

 原作小説があるらしい(未読)。書道教室の屋上は、つばめのひみつの憩いの場だったが、ある日そこにみすぼらしいおばあちゃんが先客でいて、このばあちゃんが空を飛べるのを目撃して驚いてしまう。見た目はホームレスだが、ちょっと不思議な感じのばあちゃんのおかげで、つばめは自主性の無い中学生から、少しずつ自分の意思を出せる人間になっていくのだった。
 つばめは隣に住む年上の亨君に密かに恋心を抱いているが、亨のうちのお姉さんは働かない彼氏に騙されて付き合っている様子だ。つばめの家では二番目のお母さんが妊娠している。つばめは幼いころに自分を捨てて家出した母親のことが気になっている。彼女はどうも水彩画家として名を馳せている様子なのだが……。
 群像劇とまではいかないが、それぞれが心になんとなくのわだかまりを抱えている。中学生の人間関係の狭さもあるが、お互いのことを知っているようで、ちゃんと向き合うことがそれぞれ苦手にしている感じだ。しかしながら物語は非常にスローに鈍く展開し、普段会話はそれなりに汚い言葉遣いを連発するが、向き合う場面では言っていることがはっきりしない。そういう話だということなのかもしれないが、ちょっと消化不良かもしれない。
 いわゆるファンタジーなのかもしれないが、そういう説明はあまりなく、結果として不思議なことを成し遂げるおばあちゃんがいる、ということなのだろうか。えんじ色の屋根の家におばあちゃんの探している孫が住んでいるということが分かるが、それが何故わかっているのかは、あくまで謎だ。そうして事故で足に怪我をした亨君とその家を探す。設定として面白そうな雰囲気はあるものの、何か詰めが甘いような、そういう印象も受ける。おばあちゃんとの会話も、含蓄がありそうで、しかし本当に意味のあることなんだろうか。
 ある意味でお話の展開は分かるけれど、それが本当にどうなったかまでは、実のところよく分からない。それでいいという話であろうけど、やはり消化不良になるのはそのためだろう。いろんなものを抱えて苦しんでいる十代の考えというのは、そういう世界観の中にあるということなのだろうか。
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愚かだと自覚できればの話だが……

2022-07-10 | 時事

 梅雨も明け、暑い夏がまさにやってきたわけだが、そういう中で節電要請がなされている。こうなるだろうことは事前にわかっており、政府が対策を怠ったのは明確である。怠った理由は世論が怖かったからで、要するに日本国民の多くがこの危機を招いた原因だと思われる。多少電気代が上がっても、国民は我慢すべきだという議論は散々なされていたわけで、それが現実のものとなり、迷惑極まりない。
 一番現実的で、かつ一番安全なのは、原発の再稼働であるが、一番簡単であるがゆえに、政治判断が難しいものなのかもしれない。多くの国民の命が脅かされてもなお、反原発アレルギーは治まらないからである。
 では老朽化した火力発電を再稼働させるかだが、実際そういう処置はとられているものの、危険度も高く綱渡り状態だ。新たな火力発電所を作るよりない、とも言われているが、国際情勢もある中で、長期的にはいい筋の打ち手ではない。それに今の状況には、すでに間に合いもしない。
 円安になると日本に製造業が戻ってくるともいわれていたが、電力供給がおぼつかない国に工場を移しても仕方がない。なおかつ電力もまだまだ値上がりする。日本の工場の自家発電機能も進んでいるとされているが、あくまで一時的に止められないバックアップであり、常に供給を賄うものではない。医療現場なども同じだろう。止められない現場は一時的なコストをかけても守るという事であるに過ぎない。
 夏場の停電で最も困るのは、冷凍設備だろう。ある程度の電力対応を進めているといわれるコンビニ業界などでも、冷凍冷蔵ストックを完全に守ることはできそうにないといわれている。そのほかにもスーパーや食料品等を、事実上大量に市場にストックしているのが我々の生活である。長期の停電は、そのような社会インフラを直撃するだろう。すぐに多くの人が餓死するとは考えられないが、さらなる値上げにもつながることは間違いなく、この影響がどこまで広がるかは未知数だ。せっかくコロナ禍を乗り切って(まあ、今なお精神的にのりきってない人も多いけれど)消費が回復基調にある中、水を差されている状態だ。
 当然だが、熱中症対策という事も叫ばれている。節電しようにも、止めるに停められない事情のあるエアコンはたくさんあることだろう。日の陰る夕方から夜にかけて、毎日電力が逼迫する状態が続くのかもしれない。ほとんど運まかせである。
 もちろんこのような危機は、世論を動かす可能性もある。冬場はさらに電力が足りないことも、すでに明白にわかっている。危機感の中で物事を備えるというのは、人間として賢い生き方ではないとはっきり言えることだが、なに、日本人は賢い生き物としては、そもそも該当しない。愚かな国民性は、愚かなりに考えて今を歩んでいくよりないのである。

※このブログの記事は、だいたい何日も前に書かれたものを自動で掲載するスタイルをとっております。今回もおそらく一週間以上前に書いたものをあげています。今の状況に完全に合わないものはボツにすることはあるのですが、今回はそれはそれで、という事であげました。選挙との流れも無いとは言えませんが、それはたまたまだという事ですし、私のブログを読んでいる方の多くはなんとなくわかっているとは思うのですが、そういう訳でそのまま掲載することに致しました。
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親切な人が助けるまち   ニューヨーク 親切なロシア料理店

2022-07-09 | 映画

ニューヨーク 親切なロシア料理店/ロネ・シェルフィグ監督

 警察官の夫の家庭内暴力から逃げて、夫の父親の住むニューヨーク・マンハッタンへ。子供には観光と偽っての逃避行である。しかし義父からは拒絶され、金はない。夫は警察官なので、きっかけを作ると探し出されてしまう危険がある。その為に公共の保護施設を頼れないと、母親は勝手に思っている節がある。おそらく移民で、そういうことに頭が回らない感じである。しかしながら実態は車上生活で、公共の図書館などで子供たちには時間をつぶさせ、自分はブランド物などを万引きし、パーティやホテルに忍び込みオードブルなどの食べ物をくすねながら食いつないでいく。しかしながら車はレッカーか何かで取られ、カードも現金もない状態で、たいへんに苦しい生活だ。ホームレス支援の、おそらく教会の組織などに転がり込んだりしている。そういう中で、割合経営がいい加減なロシヤ料理店に忍び込んで、寝泊まりするようになるのだったが……。
 夫の暴力から子供を守るために逃げるよりない、という設定だが、最初からそういう考え方自体が破綻している。誰かから助けられない限り、このまま生き延びることも不可能だろう。警察が怖いのに泥棒ばかりしているので、捕まればそれで終わりだろうし、子供も死の恐怖に近づかされているのと同じことである。それだけ夫は狂暴な家庭内暴力をふるうという設定なので、公共施設なら必ず保護することだろう。実際にそういうことにならないままで、子供は死と向き合うことにもなってしまう訳だが……。
 そういう訳で、なんとなく見ていてイライラさせられる頭の悪さが散見された。もう少し論理的にお話を考えられないものだろうか。つまるところ美人のお母さんだから、最終的には幸福になる、という話にしか見えない。本当にそれでいいのだろうか。美人でないお母さんなら、死んでも当然ということなのだろうか。ちょっとそれはないのではないか。
 しかしまあ、いろいろと問題を抱えているニューヨークの人々も同時に描かれていて、都市生活者は、そうして現代人は大変なんだ、という話なのかもしれない。しかしながら考え方というか、他人を助けるような心持を持っている人たちで、世の中は明るくなる、という話と捉える方が、趣旨としては正解なのだろう。それを素直に受け止めることができない見方をしてしまう僕のような人間には、とても楽しめない映画なのであった。
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日本のテロのゆくえ

2022-07-08 | 時事

 現時点ではわからない(わかりえない)ことが多すぎるのだが、衝撃の大きさも今後の展開も含めていくつかメモ的に考えてみることも必要かもしれない。もちろん保険的に外れることも期待していることも含んでいることも、恐れずに考えてみるべきだろう。
 まず、選挙戦の最終追い込みがどのようになるかだが、投票日そのものの注目度は上がる可能性が高い。そもそも与党勢力は圧勝の形だが、さらに積みあがるのではないか。テロリストは政治犯の可能性が薄そうだけれど、結果的に政治犯として歴史に残りそうだ。
 拳銃による犯罪だが、あれは何という拳銃に属するのだろうか。報道も錯綜していたが、映像で見ても、あれが一体何なのか、結局よくわからない。もう捜査上は分かっているはずなのだが、一応まだ言わない。何か言わないことになり難しそうだとされているが、製造に関しては、簡単な方法があるのかもしれない。これは新しい専門家が登場しそうな感じもする。
 山上徹也という容疑者は、すでにかなりクレイジーだが、元海自だという事ばかり報道されているが、ずいぶん昔の話だし、だからという関連性は怪しい。元海自だからそんなことをするという根拠があるとは考えづらい。であるとすると、いったい何が? となるが、ひょっとするとこのクレイジーさで逃げ切る算段が、最初から本人にありそうだ。これは司法を考えてのことだろう。捕まるときの冷静さを考えると、計算済みだろう。
 では組織だったものでは本当にないのか。今のところそういう可能性は薄そうだけれど、それは、分かりえない。いったん政治活動をやめたところも多かったようだけれど、それはそれでどう扱うかという問題に変わっていくだろう。短期中期で、そのあたりが騒がしくなるに違いない。デマも飛び交うだろう。
 一応の方向性としては、民主主義との挑戦ととらえるような言論の方向性は見て取れるが、そういうものではおそらく違うものだろう。そういう分かりやすい論点のほうが怒りを表明しやすいという事であるだけで、安易である。しかしながらその分かりにくさの解説こそが大切なのであって、そのことに慎重に向き合うべきだろう。分かりにくいからわからないだけならば、それは人間性の放棄である。我々はそういうものに向き合う必要があるのである。
 残念ながら、このテロによる影響力は小さくはないだろう。選挙明けの憲法改正問題も進むだろうし、戦争が行われている現実を前に、防衛費などの議論も進むだろう。それはいい事でもあるにせよ、さて、いずれぶり返しもあろう。圧勝しすぎる政局の行方は、強すぎるゆえの不安定さを抱えていくだろう。それは日本なりの変な精神性だとは思うものの、強いは弱いのである。安倍さんのご冥福はお祈りするものの、さらにこの衝撃を受けての倦怠感のようなものついて自分なりに説明のつかないものは感じているものの、この事件の不条理な衝撃の強さによっての社会の変わりようのようなものに、さらに不安がつのることを避けることはできない。大衆というものの姿を、僕らはもう少し冷静に見る必要があるのではなかろうか。
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遅れたアメリカ社会を糾弾する前に

2022-07-08 | 時事

 米国連邦最高裁が、妊娠中絶に関する判例を49年ぶりに覆した、としてニュースになっていた。南部ミシシッピ州法で原則妊娠15週以降の中絶を禁止しているものが違憲とはならない、という判断のようだ。詳しくはネットなどのニュースで確認して欲しいが、これを受けて女性の権利が奪われたとする側の主張が全米のみならず、それなりに広い世界で騒がれることになった。日本の新聞の報道でも、僕が読んだ限りの印象としては、米国にはいまだにこのような誤った判断をするような保守層の力が働いており、社会を分断させ、混乱をまねいている、という解説もあった。トランプ前大統領を支持するような、誤った保守層が、前近代的な思想で、女性の権利を縛っている、とされるものである。
 詳しく読んでもよくわからない点は、南部ミシシッピ州で開業している堕胎専門医院は州外に移転することになるだろうという事(一つだけあるらしい)と、この流れで、他州が追従することになるのかまで書いていない。中絶を希望する女性は、他州に移動しなければならないリスクを背負うことになり、母体にも少なからぬ影響があるようなことも書いてあった。という事は、やはり他州であれば中絶はこれまで通り22週くらいまでは可能であるらしい、とは読み取れる。
 日本でも22週以降には中絶はできない、とされている。主な理由としては母体に大きな影響がある、という事であるらしい。うろ覚えだが、胎児がどれくらい成長すると、いわゆる人間として認めるべきなのか、という議論もあったような気がする。それがはっきりしなければ、堕胎というのは殺人ではないか、という議論ともかみ合わなくなる。中絶行為は殺人とはならないことを考えると、その週までの成長段階までは、まだ人間として認められていない、という事になるのだろう。そう考えると、南部ミシシッピ州では、15週以降の胎児の人間性、という事も問うているようにも感じられる。これは宗教的文化的な背景も、おそらくあるのだろう。
 人間の性交の厄介なことは、妊娠を望まないものでも性交が日常的に行われていることだろう。ボノボも性的な行為をコミュニケーションの手段として行うという事は知られているが、交尾まですると、それはまた別の話になるようだ。生まれたのちに子殺しをする動物は複数あるが、それは子育てをしなくなったメスが、また発情をするようになるからである。オスが生まれてきた目的は、おそらくメスに射精する(遺伝子を残そうなどと考えているはずがないのだから、本能的なものである)という強烈なプログラムがあるのだろうと考えられるので、そうすることが合理的なのである。人間もそうなのかは知らないが、成熟した女性に強く惹かれる大きな理由ではあるだろう(様々なフェチはいるものの)。
 という事で、妊娠を望まない性行為という事は、人間の持っている新しい発明のようなものなのかもしれない。これによる問題も起こる可能性は高いが、強い絆を含め、コミュニケーション手段として、非常に強い作用を働かせることになろう。
 そういうことを考えると、女性の側のみ妊娠の可能性がある以上、女性の自由な性交の権利というものについて、一定の縛りが強くなるという考え方もできるのだろう。これはパートナーである男性も複雑には含んでいるような気もしないではないが、そういう議論はまた、ややこしくなることにはなるかもしれない。
 また所得などの理由による望まれない妊娠出産や若年齢による出産においては、子育てにおいて様々な問題を引き起こすともされている。特に日本のように赤ちゃんポストが熊本に一つしかないような社会では、個人の問題として救済される機会が少ない。そうして、先日も若い母親の子殺しがあったばかりでもある。生まれた後子育てが難しい環境にある場合、容易に里子に出せるような制度のほうを整えるべきであるのは明確である。米国やヨーロッパでは、そうした制度もある程度日本よりは整っているものと聞いているが(正確には知らない)、そういう社会であっても堕胎ができる判断の時間が短くなることに、危機感を感じている人が一定以上いるという事なのかもしれない。
 奇しくも今話題になっている是枝監督の韓国映画は、捨てられた子供を子供の欲しい人に売るという、ブローカーを描いた作品だという。ある意味で、こうした問題を直視していない社会に対して、問題提起している可能性も高い。アメリカ社会の保守的な考え方を非難するだけでなく、もう少し広く深く議論を広げるべき問題なのではなかろうか。
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困った家庭に育った子供   星の子

2022-07-07 | 映画

星の子/大森立嗣監督

 原作小説があるらしい。内容がどの程度忠実なのかはよく知らない。子供である自分が病弱だったために、親が不思議な水の宗教の信者のようなことになってしまい、そういう環境で育った子供が成長する物語。
 親が困った宗教にハマっていることは、子供としても分かっている。その為に生活が困窮しており(宗教団体の水やグッズを買ったり、寄付したりするんだろうか?)、年長の姉はそんな両親に愛想をつかして出ていった。親戚も心配しているし、友人関係というか、周りとも一線を画している。しかし、両親に愛されて育てられた事実もあるし、実際に深い愛も感じており、年頃もありながら、親から離れる気にもなれない。そんな中若い男性の先生に恋心を抱き、その姿を熱心にノートに描くことに熱中しているのだったが……。
 説明がそれほど多くないのだが、状況としては、いい環境ではない。明らかに親は軌道を逸してクレイジーだし、そのために自分の置かれている状況も狂いだしている。必死に隠すようなことはしていないまでも、それを積極的に皆に開示しているわけではない。年ごろの女の子なので、その頃の恋心で年上で若い魅力的な男性教師に憧れるのも自然である。ただし、男性教員であっても、若くて未熟な男であることに変わりないのが、この物語の一つのカギになっている。
 残酷な物語だともいえるが、デフォルメした親子関係だとも考えられる。多かれ少なかれ親というのは、子供にとっては得体のしれない存在である。バランスが悪いが、子供の力で親を変えることなどできない。そうして、最終的には自分にとって大きな事件が起こるが、これも自分もそれなりに狂っている結果である。自業自得とまではいかない可哀そうなことだが、僕としてはこの子も十分に悪い資質を持っている気がしてならなかった。いい子かもしれないが、それを正当化できるほどにはいい子ではないのではないか。まあ、自立してない頃の子供だから、仕方が無いのかもしれないが……。親に素直に反抗できない女の子というのは、こういう感じになってしまうということなのだろうか。
 淡々として、宗教としては恐ろしい話だが、これでいいのかどうかもよく分からない。こういう感じの不幸やしあわせがあるということなのかもしれないが、僕は断然年長の姉のような人間の方が、人間らしいと思う。多かれ少なかれ、この家族は崩壊する運命なのではなかろうか。柔軟性のない考え方に捉われた人間というのは、本当に恐ろしいです。
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事実上の宇宙情報戦であるらしい

2022-07-06 | ドキュメンタリ

 ロシヤのウクライナへの侵攻は既に4カ月を過ぎた。当初から考えると、ほぼだれも予想しえなかった現実といえるだろう。しかし情勢は厳しいものがあるとされる中にあって、これだけもともとの軍事力の差がありながらウクライナが「戦えている」最大の理由とは何だろう。いや、いろいろな要素が絡み合っての結果なので、一つだけの要因ではもちろん違う。しかしその大きな要素と考えられているのは、衛星情報であるとするドキュメンタリーを見た。
 御存じのように地球の周りには数千という人工衛星が回っている。総数は1万を超えるとされ(ちゃんと動いているというか、機能しているものの数は知らない。すでに役目を終えたものもけっこうあるようだ)、そのうえで毎年1000以上増え続けている。国が飛ばしているものが主だろうが(お金がかかるので)、近年では民間のものが増えている。大企業や富豪がこぞって宇宙ビジネスに投資している。そうしてこのような人工衛星から送られてくる情報は、あらゆる分野で活かされ、高値で取引もされている。また、自由に使えるものも増えている(スポンサーがいるという事か)。
 ウクライナのゼレンスキー大統領は、西側各国に武器の供与を強く呼びかけるほか、実は衛星の情報も供与してもらうように、それらを運営する会社にも要請をしていた。そのことを受けて、多くの宇宙ビジネスを展開する企業が、ウクライナへ宇宙からの情報を、実際には流しているとされている。ウクライナ軍の作戦の多くが成功しているのは、それらの情報をもとにロシヤ軍の動きを把握しており、それらに備えたり反撃を与えたりしていることが大きいのだという。実際放送インフラや配電線、発電所などが次々と破壊されたわけだが、衛星通信の受信機などの供与が続いていて、通信インフラは現在も保たれている状況は大きい様だ。
 通常衛星からの映像は、太陽から光をもとに撮影されるものが主たるものだったが、現在はマイクロ波を地上に照射して、その跳ね返りを受けて地上のものを確認することが出来るようになっている。また熱や微細な光を感知できるものもある。そのことにより、日中の天気の良い日だけの撮影に限らず、雲が出ていようと、夜間であっても、地上の様子がくまなく見て取れるようになっている。ロシヤ軍の作戦は、夜間に移動して形態を整えることがほとんどだったといわれ、その動きはつぶさに読み取られていたことも明らかにされている。ウクライナ軍の関係者のインタビューもあったが、詳細は語れないものの、近い将来ウクライナが「勝利した」後に、このことは明かされることになると言っていた。それだけの自信につながる優位性を、宇宙情報が後押しをしているという事らしい。
 情報というのは、立場によっても見方が良い場合と悪い場合がある。衛星情報はロシヤであっても、ある程度は得ていることだろう。また我々は既に大きくウクライナに気持ちが肩入れされている。
 しかしながらそういうものを勘案しながらであっても、ウクライナが戦えている事実は、目に前に実際に起こっていることである。この戦争の報道そのものは、情報としてはずいぶん取り扱いが減ってきているとは思うが、戦争の戦略上の情報がウクライナに利するという事が事実なら、やはりこれは短期的にも長期的にも今後を左右し続ける重要な要素であり続けるだろう。ロシヤが何らかの諦めに至るとするならば、それに越したことは無いのだが……。
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たくさんの物語が続いていく   深夜食堂

2022-07-05 | 映画

深夜食堂/松岡錠司監督

 もともとはテレビドラマ。その上に原作漫画もある。映画も一応全体的なスジのようなものはあるが、基本的には深夜の食堂「めしや」で繰り広げられるオムニバスのような感じである。骨壺を忘れていった客がいるが、誰かは分からないミステリや、食い逃げしたことをきっかけに店で働くようになる女性の話。さらに震災ボランティアに恋をして上京してくる中年男性の話などがある。そのようなドラマと食堂で出される料理が、なんとなく絡まっているという感じになっている。これが映画のためのまったくのオリジナルなのかは僕にはわからない。テレビシリーズも長く続いており、以前はテレビの物語を焼き増ししたようなものがあったはずだが、これらの話には記憶が無い。要するにテレビシリーズも途中で観なくなってしまって、いつの間にかずいぶん時間が経過しているのだろうと思う。
 一応人情ドラマということは言えるのだが、深夜食堂に現れる人間というのは、夜の街の中で事情を抱えている人が大半だということだ。それは昼の表舞台ではない、ちょっとした裏社会の事情ということとも絡んでいる感じだ。店のマスターも脛に瑕があるかどうかまでは分からないが、要するに堅気の人間ではない雰囲気を持っている。しかしうるさいことは言わないし、ここで食事をする常連は、そういう店の雰囲気を気に入っているのだろうと思われる。もちろん見ているものについても、そういう常連客のような視点をもって物語を追っているのではあるまいか。
 多少古くさい昭和的な人間模様が描かれていて、それほどアッと驚く仕掛けがあるわけでもないし、分かりにくい夜のまちの事情も多少はあるんだけれど、考え方はそんなもんだろうね、という感じだ。僕にはちょっと違うのではないかという深みの無さが感じられはするのだが、それはお話を分かりやすくするための工夫のようなものだろう。もともと短編というか、短い話がいくつもあるドラマが元なのだろうから、デフォルメされているスタイルがあるのである。せっかくの映画だから、それらを絡めてはいるものの、店の雰囲気というものがそれらをつないでいるとはいえ、そもそも映画向きではないのかもしれない。
 ところで出てくる料理も、オーソドックスな家庭料理という感じである。それらはいつ食べても飽きの来ないものであり、どこか懐かしく、そうしてこれからも食べ続けられるものだろう。なんとなく止められなくなるような魅力が、この物語の設定にあるのかもしれない。
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猟奇殺人鬼の家に生まれて   QJKJQ

2022-07-04 | 読書

QJKJQ/佐藤究著(講談社文庫)

 女子高生・亜李亜の家はちょっと変わっていて、家族がそれぞれ殺人鬼である。父親は血を抜いて殺し、母親は鉄柱を使って撲殺する。兄は首にかみついて殺す。亜李亜はナイフを使う。そういうやり方はあるにせよ、殺すときには安全のために、亜李亜以外は自宅で殺す。おそらく死体の処理の問題などがあるせいだろう。亜李亜はナンパされるままに車に乗って、相手が行為に及ぼうとするところを刺し殺す。証拠を残さないために歩いて帰らなければならないが……。
 ある日家に帰ってくると父は既に帰宅していたが、兄の部屋で兄が惨殺されている。切り口からパン切りナイフが用いられていたのではないかと推察するが、父親を呼んで再度部屋に戻ると、兄の死体は血も含めきれいに無くなっている。母も帰ってこなくなり、亜李亜は父親を疑うようになるのだったが……。
 何かとても尋常でないことが次々に起こり、この世界に憑りつかれる頃に、さらに大きな謎にぶち当たってしまう。まったく別の展開に世界は様変わりして、そうしてまた反転する。これは倫理や哲学なのか? よくわからないが、説教を受けているわけではない。現実のことにも何か疑問のようなものが浮かぶような、妙な錯覚に読者はいざなわれるのではないか。いったいこれは何を読んでいるのだろう。かなり混乱させられるが、もちろん一定の謎解きは進んでいる。現実問題ともちゃんとつながっている話だったのだ。
 確かに妙なものを読んでしまった。読みにくいわけではないが、混乱はさせられる。そうしてネタバレになるので、詳しく書けないではないか。困ったものだ。
 そういう内容自体、読書体験自体を楽しむ作品になっている。妙なものに憑りつかれたものだ、とあきらめるよりない。しかしながら面白いので、多くの人は一気に読み進めてしまうだろうが、読み終わっても変だったなあ、という心情に変わりないだろう。僕がそうであるように。
 もちろん直木賞がきっかけで買ったのだろう思う。誰かが面白いと書いていたような気もする。確かにこれは尋常ではない。面白さのために何かに挑んでいる。作者のそういう意気込みのようなものを感じる。おそらくそれはこれからも続く。同時代に生まれてよかったというしかないではないか。
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苦しい人は受診しましょう   生きてるだけで、愛

2022-07-03 | 映画

生きてるだけで、愛/関根光才監督

 原作小説があるらしいが、未読。精神病で苦しんでいる女性と、同棲しているが出版社の事情で苦しんでいる青年の恋物語。病気だから仕方がないとは思うが、同棲相手の部屋で引きこもりが続いており、家族は心配している。また電話で非難されたりもしている。なんとか働こうとしてもおり、面接を受けたりするが、どうしても朝時間通り起きることができない。でもまあそういう事情をくみ取ってくれる店が現れて、働くことになるのだった。
 一方同棲相手の男の方は、零細ゴシップ出版社で、ぼーっとしているようには見えるが、まあこれも必死に働いている。労働時間は長いし、実際は書きたくもない記事を、仕方なく面白くもなく書きつらねているストレスが溜まりまくっている。病気の同棲相手を上手く気遣う余裕さえなくなっているのかもしれない。
 二人のそういう状態を描いていく中で、良くなったり壊れたりする様子を描いた作品のようだ。最終的にどうなるの? ということでもあるんだが、これでよかったのだろうか。
 いわゆる映画なので客観性はあるわけだが、おそらく主人公の視点で嫌な奴がたくさん出てきて自分を苦しめていく。行動範囲というのもあるんだろうけれど、なかなかに逃げ場がない。病気だから病院に行くべきだと思うのだが、病気だからだろうか、そういう方面には気が回らないものらしい。苦しんでいるが、朝起きるのはどうしても苦手である。仕事も失敗ばかりしている。が、なんとなくはやれるようにはなっている。相方も苦しんでいるが、ちゃんと支える余裕のようなものが無くて、これでは共倒れである。
 こういう具合に苦しんでいる都市生活者という人々が、たくさんいるのかもしれない。そういうところを描き出した作品なのだろう。楽しいものではないが、病気の理解にはなるかもしれない。ともかく、同情できるかどうかもありそうだけど、当事者は大変なんだろうな、ということなのであった。
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