杏月ちゃんが死んで一年以上になるのに、いわゆるペットロス状態は続いていると思う。僕は子供のころから犬を飼う家に育ったから、犬と暮らすという感覚は、いわば日常的なものだった。すでに名前を思い出せないほど(20匹以上になるだろう)の数になるが、犬が死ぬたびにひどくショックは受けていた。毎回泣いているかもしれない。しかし、これまでペットロスの経験はほぼ無かった。考えてみると、犬以外にも飼っていた動物は居たようだし(ヤギとかインコとか、ましてやほかの犬とか)、そんなに間を置かず、また犬を飼ったりもしていた。そういうこととも関係があるのかもしれない。
しかしながら今回は、なんだか他の犬を飼う気にさえなれないのである。失ったのはあづちゃんで、その最後の苦し気な姿が、どうしても思い出されるのである。犬を飼うと、僕よりたぶん先に死んでしまうことになり、そうしてまたあの苦しそうな日々を迎えることになる。そこまで順を追って考えている訳ではないのだが、直感的にそのような思いに捉われてしまう。今の可愛い犬という姿は、必ず失われるものなのだ。
それは人間でも同じことだし、おそらくほかの動物だってそうである。しかし犬の特殊性というものがあり、犬でなければこのような感情は生まれ得ないのではないか、とさえ思う。
あづちゃんの母親はトイプーとシュナウザーの混血で真っ黒だった。父親はマルチーズで真っ白だ。あづちゃんは黒っぽい基調があるにせよ、なんとなく茶色くみえるところもあり、足やおなかには白い毛もあった。全体に毛は薄いのだが、特に顔周りの毛は伸びた。目に涙や目やにが溜まるようになるので、毛は定期的にカットしていた。そうしてその毛が伸びる段階で、シュナウザーっぽさが出る場合もあるし、トイプーのような感じにもなるのだった。黒っぽいせいか、マルチーズの雰囲気は、あまり感じられないのだった。
道を歩いていると犬の散歩をされている人ともすれ違う。日本ではトイプー・ブームというのが席巻しているようで、散歩の犬の半数近くがトイプーである。そうすると、毛の色は違うものの、あづちゃんっぽい感じの毛並みのワンちゃんが居ないわけではない。犬というのはただでさえ可愛い存在だが、あづちゃんに似ている犬は、特にかわいい。思わず抱き上げたくなるような感情が湧くが、よそ様の犬をむやみにそうする訳にもいかない。ワンちゃんも、そのようなまなざしで見る後期中年男性を、良い気分で迎える準備が無い。でもなあ、とも思うのである。似ているけど、やっぱり杏月ちゃんでは絶対に違う。よく見ないまでも、その違いは歴然だ。唯一の杏月ちゃんは、やはり何物にも代えがたいのである。
結局そんな感じでペットロスが続いている。しかし以前のように、いつの間にか泣いている、ということは少なくなってしまった。時間が悲しみを癒してくれるというのはよく分かる感覚であるが、そのようにして杏月ちゃんの思い出までも薄れていくことに、さらに深い悲しみを覚えるのだった。あづちゃんは、どうして僕より先に死んでしまったのだろうか。子供のようなまま死んでしまう犬というのは、罪深いのではないか。子が先に死ぬことが一番の親不孝だという。おそらくそういう意味は、ペットロスの本質的なことであろう。