カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

漢字が思い出せない

2020-12-16 | ことば

 僕は自他ともに認めるメモ魔だろうと思う。鞄の中には常時複数のメモ帳が入っているし、手帳と文庫大のメモ帳には毎日のことが書いてあるし、胸ポケットには小さいメモ帳も常備している。そうしてその時々に読んでいる本にも書きこむし、会議の資料には落書きも含めてとにかく書き込むことが日常だ。手のひらやズボンの上にも書くし、封筒や付箋紙にも書き込んだりする。
 そういう日常であるけれど、しかし一番書くのは何と言ってもパソコンやスマホである。スマホはめんどくさいのでできるだけパソコンに打ち込むが、とにかくそうやって文字を打っていると、勝手に文字は漢字に変換される。だからだと思うが、たくさん書いているメモの文字で、正確な漢字が少なくなってしまうのである。要するに漢字を思い出すことができないのである。この間は「共生」という文字が思い出せなくて「協」、とか「強」とか、結局キョウとカタカナでメモしてあった。難しい文字だから思い出せないというより、ちょうど当てはまるはずのものが、どこかに引っかかって出てこない感覚なのである。だから間違っていることは知っているし、間違っているのだから結局カタカナになっているのだろう。
 それでも日本人は、ひらがなもあるしカタカナもあるし漢字も使っている。何かメモをしようと考えていると、それらを何とか形にして残すことができる。
 何を言っているか分からない人がいるかもしれないが、ある種の失語症のような人は、日本人より外国の人の方が比率が多いのだという話を聞いたことがあるからだ。事故などで脳に障害を負う人で、文字が書けなくなる現象がある。例えば欧米ならば、すっぽりとアルファベットが分からなくなる。だから文字が書けなくなるのだが、日本人にはこれが、漢字だけ書けなくなったり、ひらがなだけ書けなくなったり、つまりそういう脳の使い分けをしているらしいことが分かっている。文字を認識するのに余分に脳を使っているのかもしれないが、そのために様々な代用が利いて完全な失語を防いでいるのかもしれない。数字だって「一」「1」「いち」「イチ」も書くことができる。数式を書くのは厄介かもしれないが、つまりはそういうことである。
 ということは、僕の中の漢字だけを思い出す機能が、何らかの不全を起こしている可能性があるのだが、確かにもともと僕の脳には怪しいところがあるような感じもするので、それだけにとどまっていると考えることもできる。読み間違うと恥ずかしいので、声に出しては読まないようにしよう。
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最も美しいセオリー   現代によみがえるダーウィン

2020-12-15 | 読書

現代によみがえるダーウィン/長谷川真理子、三中信宏、矢原徹一著(文一総合出版)

 20年くらい前に出ていた本。ダーウィンはすでに200年くらい前の人なのだが(進化論は160年ほど前に出版されていると思う)、もちろんそのダーウィンの書いた進化論は、現代においても、まだ新しい発見の詰まったセオリーなのだということを教えてくれる。科学の本でありながら、歴史でないと検証のできない問題を扱っていて、偶然を含んだ歴史的な流れが進化論であることで、再現するのが不可能でありながら、その正しさは際立っているということなのだ。僕はこの本を読んでみて、正直に言って改めて多くの点で進化論をちゃんと理解していなかったことを理解できた。それほど進化論というのは誤解されやすい論理であり、人間の感覚的には理解しづらいものなのである。
 ところがダーウィンは、200年近く昔の偏見だらけの世の中にありながら、猛烈な窮境的な圧力がありながら、地道にコツコツと並々ならぬ執念をもって、その証拠を積み上げて進化論をくみ上げていった。あまりにも周到に理論を積み上げて行ったせいで、多くの人々はこの進化論を読んでいる途中でくたびれて、読み間違えてしまったのかもしれない。
 でもまあ本当に頭のいい人たちはちゃんといて、ダーウィンの言っていることを正確に読み取ることが出来た訳だ。その人たちの代表がこの三人で、その三人がそれぞれ話をしたものが前半にあり、そうして分担してダーウィンを論じた三章が書き加えてある。ダーウィンの進化論なんて誰でも知っていると思っていると、ひどく火傷をするというのは、これを読んでいるとよく分かる。まさにダーウィンを読んだはずの歴史的に頭の良い人々が、ことごとく間違っていることが、改めて分かるようになっている。さらにダーウィンの時代の限界もあることだが、現在に至っても、ダーウィンが提示した新しい問題を研究できる材料が、ゴロゴロ転がっている。もちろん、ダーウィンだって怪しくあやふやな部分だってあったわけで、それはその時代に仕方がなかった常識であったわけで、そういうこともしっかりと読み込んで考えている。まったく感心の嵐で、僕が読みながら赤線を引いた箇所が膨大になって、読み返すだけでも大変である。それほど何度でも楽しめそうなテキストで、知らなかったとはいえ、また改めて進化論に憑りつかれる思いがする。とにかく面白いのだ。
 それにしてもダーウィンは、物事を考えるにはその根拠を見つけるよりないということを、地道に実践した偉人だということが言える。多く人が理解できなかったり、誤解したり、研究の道を外れてしまうのは、彼ほど素直でないからではないか。そうしてせっかく正しい道筋を示しているのに、読んでいてそれを間違って理解してしまうのだ。それはちょっとした皮肉ではあるが、だからこそこの問題は、しっかりと読み込んでいくより無いのである。
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才能のある男の生涯   ジョン・デロリアン

2020-12-14 | 映画

ジョン・デロリアン/ニック・ハム監督

 麻薬密売の運び屋をやっているパイロットのホフマンは、FBIに捕まり、罪を問われない代償として、アンダーカバーとして麻薬のおとり捜査に協力させられることになる。最初は大物密売人を挙げるために動いていたのだが、お隣に住む伝説的なエンジニアとして著名なデロリアンと出会い、彼が資金難に陥っていたために、麻薬捜査に絡めてFBIに捕まるように画策をするのだった。
 人を騙して罪に陥れていいというおとり捜査というのが、どうも日本人の僕にはよく分からないところがあるものの(倫理観としてあちらの文化には、何か欠陥があるように思える)、相手はマフィアに、隣人とはいえ最初は尊敬もしていたこともある、ちょっといけ好かない友人を、自分の利益のためだけに陥れていく葛藤とスリルを描いている。デロリアンというのは実在の人物で、この話も実話をもとにしている訳だが、さすがにアメリカだなあ、と思わせられるような、絵にかいたような漫画的な人物である。カッコつけているが、実際にかっこいい。しかし実情は、無謀な計画を押し通して破滅に陥る愚か者だ。まあ、だからと言って陥れていいとはとても思えないし、密売の運び屋であるこのホフマンという男こそ、実際には刑に処されるべき愚か者である。しかし警察側に寝返ったという卑怯者であったからこそ、国家権力によって逃げ延びる道が開かれているのである。まったく馬鹿げた社会がアメリカだということなのだろう。
 ということで、物語は結構面白い。愚かな男なりに面白みがあって、結局は奥さんや子供たちに愛されてもいる。デロリアンという本当はまっとうに生きていれば人生の成功者だったはずの男が、目の前でズルズルと虚栄心のために身を滅ぼしていく。そうしてついに自分に頼られるようにさえなるのである。そこのあたりの複雑な心理のようなものが、なかなかにうまく描けている。人間ってそういうところがあるよなあ、ということである。バック・トゥ・ザ・フューチャーのファンにも、この意外な物語は、きっと気に入ってもらえることだろう。
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おでんを食べる

2020-12-13 | 

 寒くなってくると、おでんを食べたくなるのは当然だ。今は夏でもおでんを出すような店もあるし、特に季節と関係なく食べられるようになっているとはいえ、やはり本格シーズン到来という気分はあるのではないか。
 風情の面から言うと、屋台でおでんをつつきながら熱燗というのが絵になるわけだが、マイホームタウンに屋台のおでん屋なんてものは無い。多少の都会になると、屋台がゴロゴロ曳かれて出てくるところなんてものがあるのかもしれないが、そういうところも何かの規制のようなものがあるのか、ずいぶん減ってしまった。その分僕らは衛生的な生活を送れるようになっているのかもしれないが、食べ物屋のスタートアップの手段としては、それなりに一つの分野が無くなりつつあるのかもしれない。
 さて、しかし、だからと言っておでんの姿を見かけなくなったのかというとそんなことは無くて、何と言ってもコンビニでおでんが手軽に買えるようになってから、買い物でおでんというのは、実によく見るようになった。ちょっとしたベンチに座っておでんを食べているような若者も時には見るし、車の中でおやつとして食べている人なんかもいそうである。家でも食べるけど、おでんは日常のちょっとしたスナックとしてポピュラーな地位を獲得しているのではないだろうか。
 僕はもっぱらおでんは家で食べている。買ってきたおでんを食べるのではなくて、つれあいが作ったおでんを食べるわけである。一応取り分けてもらって分量の目安があるにせよ、また、当然おでん以外にも様々なおかずが並んでいる食卓を囲んでいるにもかかわらず、やはりおでんになるとちょいちょいお皿に新しい具材を乗せて食べてしまう。要するに食べ過ぎるわけで、おでんがメニューに上がった週は、体重が平均的に高止まりになる。そんなことは分かっているが制限の難しいのがおでんであって、分量は考えて作られていると思われるものの、いつの間にか食べてしまうのである。
 そういうことで、こんなことを書いてしまってすでに矛盾しているが、基本的にはあまりおでんを欲しないようにしている。おでんの置いてある飲食店などにも極力入らない。まずはおでんをつまんでから別に何を食うか、などと考えるに違いなくて、ようにするに食べ過ぎるのである。おでんはメインの食事としての貫禄もありながら、しかしその他の食材のボリュームを上げてしまう存在でもある。とにかく恐ろしいので、手軽になると危険なのであった。
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愚かさこそ生きている証(過ちでもある)   アメリカン・アニマルズ

2020-12-12 | 映画

アメリカン・アニマルズ/バート・レイトン監督

 先入観無しにこれを観ると、少し戸惑う。実演している俳優はいるが、時折実在の人物のインタビューが入るのだ。厳密な意味でドキュメンタリーではないのだが、実際の事件を再現した物語らしい。
 主人公の大学生たちは、いわゆるアメリカ的には普通の若者である。首謀者とみられる男だけは、妙に自意識過剰で扇動的なのだが(だからこそこの計画は実行されるのだろうけど)、一人一人を考えてみると、普通ならこんな事件を起こすような人々ではない。
 通っている大学の図書館には、特別に貴重な本を所蔵しており、ガラスケースのなかに展示してあるオーデュポンの画集は、10億円を超すとみられる価値があるという。警備がなされていない訳ではないが、図書館の特別室の中におばさんの司書が一人いるだけである。もっとも監視カメラも警報器もあるだろうことは予想されることから、大胆にも日中に見学者を装ってそれらを盗み出そうと画策するのだった。
 お金を欲しいのは分からないではないが、しかしそもそもそれほどお金に困っている訳ではない大学生である。平凡なままで過ごしている現状を何とか打破したい思いと、何か特別なスリルと大きなことを成し遂げたいという漠然とした思いが、この大胆な犯罪を行うという動機になっている。さらに友情などがあって、一度進みだした計画は止まらなくなってしまう。いや、彼らだって内心は、こういう犯罪を行うことへの躊躇心はもっている。しかし、妙な人間関係のバランスが、これらのハードルを越えてしまうのである。
 映像はスタイリッシュで、物語の中でも出てくる数々の犯罪映画へのオマージュのような作りにもなっている。そうして実際に犯行に至る自分たちの姿はどうなるか? ということも、ぜひ観て欲しい。不思議な高揚感とともに、人間としての悲しさも味わうことになるだろう。一般的な映画という訳ではないかもしれないが、娯楽作であるばかりか、なかなかに考えさせられる作品なのではなかろうか。
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選択されるのを怖がる人々

2020-12-11 | culture

 夫婦別姓問題って、まだ議論やってるんですね。選択的夫婦別姓に何の問題があるのか、僕にはよく分からないんだけど、家族の一体感が大切だとか、いう議論があるらしい。ますますよく分からない話なのである。どこにそのことと関係があるのだろう?
 文化的な慣習というのは、厳密な意味での理屈ではない。という意味なのかもしれないが、一応法律なので、これに縛られるということにはなる。そこに問題があるということなのだが、これがなかなかの問題を作っているのも事実だ。不都合な人には、どうにもならないくらい不都合なのだろう。でもまあ夫婦というものの客観的な事実の認定に厄介さがあるという危惧もあるのかもしれないが、それだけ夫婦的な見せかけも、同姓の中にはありそうで、それを崩すのだって現状厄介になっているはずで、それも実際は問題になっている可能性もある。事実婚もあるし、別姓で子供の手当てなどの問題もあるかもしれない。まあ、どうやってもそういうことをする人はするのだろうけど。
 選択的と言っても、ほとんどの人には関係のないことであるのが、この問題の根っこにあるはずだ。もっとも、そうであるのなら、改めて別にしたいという人も、実際にはそれなりにいることだろう。別姓にすることで、子供の苗字でもめにもめるケースだってあろう。これが生きていくうえで、さらに障害になるような場合だってあるにはあるだろう。そういう混乱を見たくないという、不安や心理が邪魔をするのかもしれない。
 しかしまあ、やっぱり関係ないと思っている人の中に、気づいてもいないだろうことは、やはり母や妻には、仕方ないからそうしているだけだったという葛藤や苦悩についての忘却があろう。そうすることでしあわせだと言ったとしても、それを本当に信じてよかったのだろうか。まあ、変えたかった人もいないではなかろうが、そうやって旧姓である元の家族との別れのような寂しさのようなものが、ふつうはあっただろうと考えるのが妥当なところではないか。そうして家という制度に組み込まれる性がある、という視点もあるのだろう。
 逆にこれを機に、よその家から来た嫁だけを、差別する家というのも生まれるかもしれない。実際中国は夫婦別姓だが、そのように考えている田舎の家はあるのだという。そもそもそういう考えだから別姓なのだという話も聞く。日本や韓国は儒教的な考えはそれなりに残っているから、これに抵触して悪用する家や人々は、必ずしも少なくなさそうだ。
 当たり前だと思考停止しているだけの反対だけでなく、そのような恐怖に制度で守られているだけかもしれない自分の立場を、もう一度考えてもいいのかもしれない。
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日本だと、非行に走る事例   リンドグレーン

2020-12-10 | 映画

リンドグレーン/ペアニレ・フィシャー・クリステンセン監督

 農家の16歳のおてんば娘のアストリッドは、お手伝いがてら地元の小さな新聞社で仕事をするようになる。自分と同世代の娘のいる編集長は、離婚騒動などで気持ちがふさいでいた。そういう時にふとアストリッドに癒しを求めて、そのまま関係を結んでしまう。おそらく何度もセックスを重ねるうちに、アストリッドは妊娠する。厳格なキリスト教徒であるアストリッド家では、未婚の母になることはどうしても隠さなければならない問題だった(ま、世間体ってやつですでね)。最初は首都のストックホルムの女子寮に入り、秘書の勉強をしながらその地でひそかに出産する予定だったが、ある人からの伝手があり、お隣デンマークで、出産と、その後の赤ん坊の保護もしてくれるところがあると聞く。編集長のブロムベルイの離婚訴訟は長引き、なおかつアストリッドと密会している噂が立ち(そんなのあたりまえだ)、姦通罪で刑務所に入るかもしれないと聞かされる。そういう事情を汲んで、アストリッドはデンマークで出産後、母子が離れて暮らさざるを得なくなるのだった。
 リンドグレーンというのは、どこかで聞き覚えがあると思っていたが、「長くつ下のピッピ」などの児童文学で有名な人であった。僕はこのテレビシリーズを、子供のころ熱心に見て育った世代だ(今考えてみると、母親が特に熱心に見るので、感化されていたのかもしれない)。そういう彼女の少女から大人時代に入る数年間の伝記的なドラマで、なおかつこういう内容で、ちょっとびっくりしてみてしまった。奔放ではねっかえりながら、純粋さと行動力を持つ魅力的な女性を見事に描いている。というかこの女優さんが、幼さと女性性を力強く演じていて素晴らしいのかもしれない。下手をするとこういう生き方は、ちょっと批判にさらされかねない自業自得な感じもある。実際そうではあるのだが、時代もあることだろうし、いきなり母親にはなれない若い女性の葛藤と、しかしがむしゃらに生きていこうとするか細い生命という意味では、罪深くも力強いのである。さらに暗くならず清々しさも残る。こういう女性だからこそ、愉快で奔放な児童文学が書けたのだということが、深く理解できるような物語なのではなかろうか。

追伸:主演のアルバ・アウグストという女優さんは、なんとなく木村カエラに似ている気がする。幼さの残る十代の姿から母親としてまで、みごとな演技なので、それだけでも見る価値があると思う。脱ぎっぷりも堂々としております。
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50代前半とはどのように見えるのか

2020-12-09 | つぶやき

 「娚の一生」という漫画は、映画化もされているらしい。それで主人公の相手役である男性が豊川悦司なのである。トヨエツは二枚目だし、関西弁も難が無いのでいいのかもしれないが、設定は50~53歳くらいのはずである。これにはちょっと微妙な気分になる。何故なら僕はちょうどその世代なのだが、トヨエツはだいぶお兄さんだ。少なくともそういう印象があって、無理だわ~、と思うのかもしれない。いや、恋はしていいとは思うのだが、やっぱり原作の設定とは……、とまた言いたくなる。でも、漫画の絵柄からすると、五十代前半のくせに妙に老けた人なのであるが……。
 逆にヒロインは榮倉奈々なので、これも設定より微妙に若い筈だ。しかしまあ、女優さんなら多少は仕方ない気もする。榮倉は32だそうだし、それなら可能かもしれない。
 原作者の西炯子がこの作品を書いていた時期がおおよそ40歳前半のようで、その年齢から50代前半の男を見ると、このように老けていたのだろうか。
 さらに哲学の教授という設定だが、まあ、絶対に居ないわけではなさそうだが、だいぶ若くから業績を認められた人であるはずだ。著作が売れているようだからお金持ちだが、秘書が出張にまでついてくるようなお金もあるというのが、また漫画的なのかもしれない。しかしまあ、僕は寛容だから、そういう世界の話だと理解はしている(寛容なら、そもそもこんな疑問を文章にはしないわけだが)。
 で、予告編を見たら、ヒロインは元気だし(活発という意味もある)、トヨエツは、それなりに原作っぽいのかもしれない。まあ、原作通りに作る必要は必ずしも作品として無いのかもしれないが、なるほど感はある。考えてみると、二十を超えた俳優が制服着て高校生の役をやったりもするわけで、俳優さんたちの年齢で実年齢の役をする必要もないわけだ。
 当たり前の事をぐちゃぐちゃ考えてはなりません。単に自分の年齢に違和感があっただけのお話なのだろう。
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器用すぎるのは不器用な証拠   娚の一生

2020-12-08 | 読書

娚の一生/西 炯子著(小学館)

 娚はオトコと読ませている。著者の名前は炯子(けいこ)である。こういうところから、少し面倒な雰囲気は漂ってくる。内容もこじれていて、一筋縄ではいかない漫画である。
 全四巻だが、本編は3巻で終わっている体裁のようだ。一つが別巻スピンオフという捉え方だが、そういう煩わしいことを言わずとも、ちゃんとお話は連動してつながっている。単に4巻目は結婚後だからということなんだろう。ゴールインしてからの人生の方が、多くカップルにとっては歴史が長いし、さらにもっと事件があるに決まっているのに、一応結婚をゴールと考える向きは多い。結婚は、少し派手目の通過点ではあるのだろうけど(今となって考えてみるとだが)。
 祖母の葬儀に親戚一同田舎に集まっている(九州らしい)。実はつぐみだけは、事前に東京の会社を長期休暇して遊びに来ており、その最中に祖母が亡くなったらしい。だからカギを預かっており、葬儀後もそのまま住もうと漠然と考えていた。親戚は驚くが、通夜の席で、そのまま土地も買い取っていいとまで言い出す。事情があって婚期が遅れている三十半ばの娘だが、もともと優秀で、会社でも仕事はできるらしい。何かあることは匂わせてあるが、そのまま在宅勤務で住み着くことにはなる。しかしそこにはさらなる問題があって、母屋の離れには、大学教授の五十過ぎ(僕の目から考えると十分に若いが)の老人めいた男が、これもまた祖母のカギを預かっていたという名目で、そのまま住み着いてしまうのである。図々しいが、追い払うこともできず、ずるずると同棲生活のようなことを送る羽目になってしまう。
 設定は面白いとは思うが、正直に言うと大学教授の関西弁の男は、僕にはとても好きになれない。こういう男を一定の女が好むというのは分からないではないが、だから男である僕には苦手なのだろう。こんな男に惚れてしまう女がいるから、多くの一般的にまじめな男は、婚期を逃すのであろう。
 お話の筋としてはそれはどうでもいいのだが、過去の恋愛の(不倫)の傷を引きずって、新たに田舎暮らしをするつもりだったのに、またしてもものすごく問題のありそうな、かなり年上の男との付き合いを始めなければならない。惹かれている自分は分かるが、裏切られている傷が、どうしても相手の信用を阻んでしまう。また、聞かなければ説明の足りない行動ばかりしているわがままな男ときている。時折ものすごく優しいが、しかし利己的すぎる。いったいつぐみはどういう結論に至るのだろうか。
 ということで、楽しんでください。つぐみは女性として間違いなく第一級にモテモテだったはずで、ちょっと出来すぎでもある。だからこそ悩んでもいるわけだが、そういうあたりは女性にはどのように思うのだろうか。逆に不器用な女だというのだろうか。なかなかに難しいテーゼが敷いてあり、考えながら面白がって読むべし、なのである。
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本来記憶とは、もう少し曖昧なものだ   マザーレス・ブルックリン

2020-12-07 | 映画

マザーレス・ブルックリン/エドワード・ノートン監督

 勝手に言葉がついて出るチックの症状(トゥレット症候群だろうと思う)をもっている探偵のライオネルは、上司であり育ての親のような存在のフランクが殺された理由を探っている。そういう中都市計画の反対運動をしている黒人女性と知り合うようになり、その周辺のジャズの店に関わる人間から殴られるなど複雑な問題に首を突っ込むようになっていく。
 エドワード・ノートンが監督主演脚本までこなしていて、主要なキャストも、実力者俳優陣をずらりとそろえた大作めいた作品になっている。雰囲気は怪しげで、1950年代のニューヨークの街並みの再現も見事だ。当時の話題も織り交ぜながら、非常に複雑なプロットが織りなされる。正直にいって盛り込みすぎて何が何だか分からないわけだが、まあ、いい感じにはなっているのでさすがかもしれない。
 昔の映画にありがちだが、主人公らは、殴られるとよく気を失う。気を失うほど殴られるというのはよっぽどのことだと思うが、ほとんど一撃でぐらっと来て時間がしばらく経過している。殴られるだけじゃなく、何か麻薬を吸っても記憶を失っている。状況が変わって、新しくお話が展開する。要するに都合がいいのでそうしているということかもしれない。まあ、そういう映画なのである。
 今の事件の真相を追っていると、思った以上に過去のことをさかのぼって考えなければならなくなる。そうして自分の出自まで明らかになったりする。結構根が深いのである。最初は何をしているか主人公たちも何をしようとしているか、詳しく聞かされてもいない。観ている側には、そのあたりから推理を始めなければならない。登場人物も何故かを悩んでいるのに、二重構造であれこれ考える。結果的に多くの謎は明かされるのだが、そのスジ道を追っている途中で、順番自体があっているのかどうか、分からなくなる。後で整理して考える。そういう必要があるかもしれない。
 欲張って長くなってしまったきらいがあって、もう少し短くできたようにも感じる。僕は結局分けてみたのだが、このDVDには、珍しくチャプターがついてなかった。ちょっと不親切ではないか、とも思った。まあ、ふつうは一気に観る人ばかりだということなのだろうか。他の短い映画ならともかく、この作品には付けるべきではなかろうか。
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人魚を食う人々   人魚の森

2020-12-06 | 読書

人魚の森/高橋留美子著(小学館)

 人魚シリーズ1、となっている漫画。人魚の肉を食うと不老不死になるという伝説にまつわる話が、三本ばかり入っている。くしくも不老不死のテーマである火の鳥を読んでいる最中に手に取ってしまった。テーマが同じなので、少しばかり似たようなところはあるが、何しろ作家がまるで別なもので、それなりに違う印象を受けるのではなかろうか。
 一つ目のお話を例にとると、謎の男が、どうも人魚に会いたいという理由で、婆さんを中心として女ばかりがたくさん住んでいる海沿いの集落にやって来る。彼女らは殺気立っており、男は一時は殺される。殺されるのだが不死身のようで、生き返る。つまり過去に人魚の肉を食った人間だったのだ。しかし,足を拘束され大事に育てられた若い女がいて、これがこの村の何なのかはよく分からない。男はこの女を連れて逃避行をするのだったが、激しく追われ、なりそこないの人魚にも襲われるのだった。
 少年漫画らしいアクションの連続で血の気が多いのだが、主人公たちは不死身のようで、それほどホラー的に残酷に感じられない。むしろなりそこないになって醜い姿になった人魚たちの方が、考えてみると哀れで可哀そうである。それは人間から見た視点ということではあるにせよ、長生きしたいわゆる怪物が、そうやっていきていくこと事態につらいものが感じられる。ところが不死身の男がやってきて、騒動を起こして、これまで独特の秩序でもって暮らしてきた集落の暮らしを破壊するのである。それなりの正義は最後の方で見られはするが、だとしても不条理なものを内包しているようにも思われたのだった。まあ、見た目がずっと若者なので、ハッピーということなんでしょうね。それ以外のことも一応考えるが、重い話の割に、妙なユーモラスがあって、娯楽として楽しめる作品なのである。
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戦争と、詐欺と、親子の再生   天国でまた会おう

2020-12-05 | 映画

天国でまた会おう/アルベール・デュポンテル監督

 第一次大戦の休戦前の士気の上がらない塹壕の中、ブラデル中尉は無理に戦い続けるために二名の視察を送り、その兵士を背後から撃ち、ドイツ軍が攻めたとして強引に部隊を突撃させる。突撃兵の一人であるアルベールはそのことに気づきブラデル中尉に殺されそうになるが、爆風に飛ばされ地中に生き埋めになる。それを助けてくれたのがエドゥアールだったが、直後に撃たれ顔の半分を失ってしまう。エドゥアールは、父と折り合いが悪かったこともあり実家には帰りたくないということで、死んだ人との記録を書き換えて亡くなったことにする。それで、恩義を感じているアルベールは、貧しいながらも彼の面倒見ながら生活のやりくりをする。しかしながらそういう暮らしはそうとう苦しいことになって、嫌々ながらだったがエドゥアールのアイディアで、詐欺事件を画策して一儲けするのだったが……。
 原作はベストセラー作家のピエール・ルメートルで、脚本も共同で手掛けている。主演のアルベール役の男が、この映画の監督さんである。
 映像はスタイリッシュで、流れるように場面が変わる。口から下を失った男は、ちゃんと発音ができないはずだが、謎の近所の少女がいて、その子が言っていることを訳してくれる。敵役の悪い男はとことん悪事を働くし、金持ちの父親との関係などもあって、実は非常に卑近な関係性の中に、いろいろな伏線が仕掛けられている。物語が進んでいくにつれ、それらの絡みは、微妙な力関係の変化をもたらしていく。
 面白い映画に違いないが、小説もこんな感じなんだろうか。なんでも原作作品はゴンクール賞を取ったとされている。しかしながら文学的な作品というより、やはり映画的なエンタティメント作品になっている。フランス映画なので、ハリウッド的なド派手でないというだけで、何か賑やかで寓話的だ。
 そういう作品ではあるが、結局は親子の確執と、家族問題のドラマかもしれない。大きなお話のように見えて、実際仕掛けはそれなりに大掛かりなのだが、結局はこじんまりした印象が残るのは、そういうことであろう。前評判が良すぎたせいで、期待も大きすぎたということなのかもしれない。期待が低ければ、掘り出し物的に楽しめたのだろうか。
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今度はクローン問題   火の鳥:生命篇

2020-12-04 | 読書

火の鳥:生命篇/手塚治虫著(角川書店)

 テレビの高視聴率を稼ぎだすために、クローン人間を狩るという残酷番組を思いつく若きディレクターが、様々な生命のクローンを作り出すことができるというアンデスにあるクローン研究所を訪ねる。最初は断られるが、そこで働いている研究員の男の案内があって、この技術をもたらしている黒幕である鳥族に会わせてもらう。そこで苦行を受けて何とか生き残り、結果的にたくさんの自分自身のクローンが作られてしまう。テレビ側はこの自分のクローンを使って、予定通り人間狩りの番組を始めて大盛況になる。男は自分が狩られる側になり逃げまどい、行きがかり上一人の少女を連れて深い森の中で潜伏生活を続けていくことになるのだった。
 クローン問題の倫理面について考えた作品。クローン技術というものは、すでに現代でも行われることが可能になったものである。おそらく家畜の世界で、事実上クローンは作られていることだろう。食糧危機などの問題解決になるのかどうかまでは分からないが、一定の個体を選別してクローンするなど効率化の問題として扱われているものかもしれない。もちろん人間もクローンは可能で、しかし漫画のように大人の人間を同じようにコピーして増やすというのはナンセンスだろう。多くのクローンの赤ん坊を作って、段々と育てるという方法をとるより無いのではないか。
 ともあれ、技術的なものはどうあれ、このようなクローン社会が来ないとも限らない。倫理問題としてどうするというのはあるが、それにすでにそれなりに規制がある中にあって、例えば買っていた犬などのペットは、商売としてクローンが存在する。そのようなクローン犬を代々飼っているお宅がある以上、似たようなことをやりかねないのが人間である。漫画とは違う展開にはなるが、代々自分のクローンを使って家を継がせるというようなことを考えている人は、絶対に居ると思う。今でも子供に継がせているのはそれほど問題にならないのだから、一定の配慮をしながら計画している人が、広い世界のどこかに存在するはずだと、僕は考えているのである。
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聞いたことあるのかさえ分からない流行語

2020-12-03 | ことば

 新聞を読んでいると、今年の流行語大賞というのが発表されている。大賞が「三密」ということなんだが、あーそうですか、って感じである。話題づくり戦略として大成功した企画だけれど、相変わらずセンスがない結果だ。エントリーされている語をみても、本元の「新型コロナ」そのものの語自体が無い。それでいて関連語満載なんだから、ちょっと訳が分からないかもしれない。そのノミネート語の30語を見てみると、当然知らないのが多い。これは僕自身に問題がある可能性はあるが、何故流行っているのに耳にしたことが無かったのだろうか。
 「ウーバーイーツ」は聞いたことがあるけど、実物は見たことが無い。日本にもあるんですか? って感じもするが、実際はあるらしい。まあ、僕の住んでいるところは田舎なんで、誰もそんなことしないだけの話だろうけど。
 「愛の不時着」ググったけど分からなかった。いや、韓国ドラマだということは分かったが、そういう痕跡を誰かから聞いたことなど、たぶん一度もない。雑誌などでも見た覚えがない。こういうのがなんだか不思議なのである。
 「あつ森」は聞いたことがあるし、息子たちが昔遊んでいたことは知ってたから、その延長だろうと思っていた。しかし、アメリカ大統領選だとか、相撲協会なんかも利用したなんて知らなかった。そういうゲームなんですね。まあ、しないだろうけど。
 「恩返し/顔芸」はググったけど、分からない。知らないものは仕方ない。
 「香水」もググるが意味不明。歌が流れるが、これのこと?
 「フワちゃん」はググって、見たことある、と思った。
 「まぁねぇ~」はググったら太った女子が出て来た。これは見たことがある。
 「時を戻そう」は見たことがあるのかどうか、忘れた。それに動画をみても、いつこの言葉を言ったのかさえ分からなかった
 「総合的、俯瞰的」は、ああ、そのことか、とは思ったが、流行っているというのかね、そもそも。何かの批判精神のようなものなのだろうか。
 「ソロキャンプ」は意味は分かるが、昔からあるだろ。それに普通のことだ。
 ちょっと驚いたのは「カゴパク」かもしれない。実は、僕はカゴを持って歩いているおばさんを目撃したことがあります。ああ、あの事か、と思ったのだが、以前どこのスーパーだったか忘れたけど、自分のカゴを買い取って買い物する制度のある店があったように思う。あれは廃止されたのだろうか。また、マイバッグの万引きは増えるだろうと誰でも思っていたはずで、袋をサービスしたほうが被害額は差し引いて減るのではないかと思われる。まあ、それ以上にそもそも盗んだことに気づかない人が多いのだろうことが、驚きなのかもしれない。それにしてもカゴパクっていうにしても、流行ってるのかね、言葉自体が。
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手塚は鼻の男に冷たい   火の鳥:宇宙篇

2020-12-02 | 読書

火の鳥:宇宙篇/手塚治虫著(角川書店)

 遥か彼方の惑星から地球へ向かって移動していた宇宙船が、何かのトラブルにあい人工冬眠していた乗組員が起き出してくる。一年交代で起きていた男は、手足を縛って死んでいた。宇宙ノイローゼにあって自殺でもしたのだろうか? 宇宙船の損傷はことのほか大きく。各人はシェルターに別れて宇宙空間をさまよい、救助を待つより無いことが分かる。乗組員の中にはマドンナ的な女性がおり、亡くなった男は、女性が心を寄せていたように思われていた人だった。横恋慕して対立していた男もいるし、黙っていたが、ずっと心の中で愛していた男もいた。そうした複雑な人間関係の中にあって、やがて脱落もあるものの、謎の星に不時着することができる。そこには鳥の格好をした女がいて、宇宙船で亡くなっていた男の過去が明かされていくのだった。
 永遠の時間と、人間のぬぐえない罪の問題とを合わせて語られている物語である。まさに火の鳥のテーマである永遠の命が、様々な問題を引き起こし人間の運命的な物語が重層的につながっていく。人間と宇宙人との愛と裏切り。そうして暴力的な人間性の発露。罪を背負い続けての命の繰り返し。そうして新しく巻き込まれてしまった人間の運命などが絡み合う。
 たとえ命が続いて長い時間を得たとしても、宇宙をさまようなど孤独な時間がたくさん流れるだけだとすると、それは人間として果たして楽しいものなのだろうか。また人間であり続ける人はいつかは命が途切れるが、そうでない人が混ざるというのは、何代も年を取り続けられないということになる。それはそれで楽しいことはあるかもしれないが、いろいろな悲しみが蓄積するような人生になってしまうのかもしれない。そうしてそれが、罪人としての人間になってしまうのではなかろうか。でも結局、なかでも猿田は特に可哀そうだな、と思いました。
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