映画を見終わって、エンドロールを最後まで見るのか問題、というのがある。キャストとかスタッフの名前を最後まで見るのは時間がもったいない、ということだろうか。映画の本体は終了しているので、残っている人が馬鹿に見える、という意見もある。日本人にこれが多いという話もある。終わったらさっさと席を立って帰るのは当たり前だ、ということか。確かに海外のことは良く知らないが、中国で映画を見ていると、終わりの文字が出るか出ないかで立ち上がる人は多かった。誰かが立つので立たなければならないような圧力はあった。そういう感情は、僕の日本人的な部分かもしれない。でもまあ、それでも座り続けると、迷惑にはなりそうだったけど。さらに中国では、演劇や音楽なんかでも、終わればさっさと席を立つようだった。クラシック関係だけは、機会がなく結局知らない。
エンドロールが長くなりすぎているということもある。これは聞いた話だが、米国の映画組合が、ちゃんとかかわった人間のクレジットを入れるように、圧力をかけたせいだともいわれている。契約にそのようなものがあるらしく(報酬の代わりにクレジットを入れるとか、協力者も明らかにするとか)、訴訟になると厄介だから、下請けの仕事をした人間まで含めて記載するようになったという。子供のころの映画のエンドロールはあっさりしたものだったが、スターウォーズあたりからやたらに長くなっていったように感じる。あれは特撮のスタッフがたくさんいて、ちゃんと関係者を洗い出したら膨大になってしまって、仕方ないので文字も大げさにして曲を長くして格好を整えたのではないか。後の映画もそれをまねたのではないか。
日本人が席を立たないのは、映画を作った人々に対しての礼儀があるためではないか、とか、映画はエンドロールも含めて作品と考えているせいではないかとか、憶測がある。単に席を立つのは変わり者のような気分を楽しみたい人のような気がして、気後れしてしまうせいでもあるんじゃなかろうか。そういうのをかまわず席を立ってしまうような人は、何か格好つけすぎというか、トイレが近い人のような気もする。まあ、勝手にやってくれればいいけど。また、誰がスタッフなのか、協力が何なのか確認したい場合だってあろう。さらに映画の余韻のようなものを、しばらく座って浸りたいというのもあろう。エンドロールの音楽を楽しみたい人だっているだろう。
僕自身はエンドロール終わるまで派であるが、これにはちゃんと理由がある。本当に本編が終わったか、不安があるから座っているのだ。エンドロールの最後になって、おまけのような映像が入る作品というのは結構あるんである。ほとんど身内ネタというか、意味も分からないものもあるにせよ、これを見逃すのは何とも惜しい。さらに以前のジャッキー・チェンの映画などは、エンドロールにNG集が一緒に流れた。これがそれなりに面白いわけで、他の映画でもそういう仕掛けがあるかもしれないではないか。結局何もなかったとしても、そういうのを確認しないことには落ち着かない。先に立ってしまってそういうことを知らないで映画を観たなんて自慢するような人ということになり、何ともトンマではないか。
しかしながら、要するになんとなくセコイだけのことであるかもしれない。