クラゲが水族館で人気になったのはいつからのことだろう。少なくとも、僕が子供のころには、こんなにクラゲは注目されていなかった。そのころの人々は、あまりクラゲに注意が向いていなかった。今の人々をクラゲがひきつけるようになったのには、やはり今の人々の世情が関係あるのだろうと思う。
見た目のクラゲが、ある種の人々を引き付けるのは間違いなかろう。海の中(あるいはほかの場所)をゆらゆらと漂う。生きているものに、その生きている意味を問うのは野暮なことだが、とみにクラゲのこの漂うだけの生態に、何か人間は妙な感慨を抱いてしまうのではないか。一見クラゲは何も考えていないで、ただ漂っているように見える。
実際のところ、クラゲは何も考えていない可能性は高い。何しろクラゲは脳を持っていない。脳がモノを考えていると考えている人間にとっては、脳無しのクラゲは、モノを考えていないことになる。考えていないだけでなく、考えるという概念すら持っていないだろう。
しかしクラゲは刺胞という長い尻尾のようなものをもっていて、これで獲物を捕らえ、時には毒を刺してマヒさせ、食べてしまう。そうすると、漂っているのは、獲物を捕らえるためなのかもしれない。栄養がたくさんつくと、どんどん大きくなる(もちろん種類にもよるが)。栄養が足りなくなると、小さくもなる。雌雄があって、生殖活動もする。しかしその姿のまま子供を残すことは無く、ポリプという形に姿を変え、フジツボのようなものに取り付いてから、子供を産む。いや、厳密には子供のようなものを放出する。それはクラゲの子供のコピーのようなもので、増殖するようなものかもしれない。そうしてその幼体から変形を経て小さなクラゲになり、その後大きくなったりするわけだ。我々がクラゲと認識しているのは、その生体として、プランクトンとして海を漂っている時期のことである。
クラゲは生態的にも魅力的な生物であるが、いわゆる癒しとして人気があるのは、水族館のオブジェとしてではないか。泳いでいるときのクラゲは、刺すので厄介者だし、漁師の網にかかるクラゲは、漁の邪魔をするごみのようなものである。我々の多くは、クラゲのほんの一面しか見ていない。そうして癒されているわけだ。
クラゲは何も考えていないかもしれないが、我々も何も考えていないのかもしれない。そういう思考の循環を促す存在として、我々に問いかけているのかもしれないが。