カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

PTAが無くなれば防げる問題だろうか

2017-05-03 | 時事

 千葉のベトナム人の女の子の死体遺棄(そしておそらく殺人)の容疑者が、女の子の通う小学校のPTA会長であったというニュースは、確かに衝撃的だった。僕は子供の通っていた学校の、小・中・高と、順にPTA会長をやっていた。まあ、いろいろあるが、皆が面倒だったので、僕にお鉢が回ってきたということに過ぎない訳だし、事件と何の関連も無いことなんでどうでもいいことに過ぎないけど、なんとなくだが、僕のような人で肩身の狭くなるような思いというか、複雑な心境になっている人がいるんではないかとは推察いたします。
 また、この機会に、もともとPTA活動に鬱憤のあった人々の、PTA組織に対するバッシングが強まったりするのも目にすると、これも関係ないことなのにな、という思いはする。ただし、子供の見守り行動などを、反動で強めるというのは、考え直した方がいいと思うが。まあ、結局は現在の当事者たちが決めることなんで、特にどうでもいいともいえるし。嫌がっている人もいるだろうけど、当事者たちが好きにしたらいいのである。
 PTA不要論というのは、PTAが存在する限り無くならないだろう。この組織については不合理なことが多いのは確かだ。事実上強制しているし、任意というのは建前だ。でもやらない(やれない)人がちゃんといるのも事実だろう。そういう現実はあろうが、PTAが無くなったとしても、親の活動が無くなるのかというのはあり得なくて、結局何らかの形でやるべきだという意見というのが、特に先生サイドの方にあるのは間違いない(もちろん親の側にだって当然あるだろうけど)。僕は教師ではないけれど、もしも教師が職業であるとするならば、親のかかわりのない学校教育というものが、そのまま成り立っていいと思うわけが無い。そんなことは猫が考えても分かる理屈だろう。さらに社会としても、学校が教育者だけでやっていいルールというのは生まれえないと思われる。要するにPTAの存在が否定されるようなものの考え方が、不健全であろう。それはいくら議論を尽くしても、あきらかそうである。もし無くした後に生まれてくる会が、結局はPTAと違うモノになるとは思えない。
 PTAがあるからこのような事件が起こったのか、ということも、まったくスジが違う問の立て方であるに過ぎない。ただし、事件を起こした男は、推察するに、自分の趣味とPTAが都合が良かった可能性はあるだろう。それは確かに好ましいことでは無いにせよ、子供に興味のある人がそのような立場になりたいと思うというのは、むしろ自然である。そういうものをどのような方法で防御するのかというのは、多少は考える必要はあるかもしれない。しかしそうであるのならば、防ぐ手立ては、ほとんどないと言えそうだけれど。悲しいかなそれが今回の問題であって、組織論とはやはりまったく関係のない話であろう。


追記:本文の趣旨とは違うが、このような推論を進めると、もっと明らかそうに思えるのは、子供が好きで教師になるという合理的な考えの元、教師になった可能性の人の確率の方が、親にならなければPTAに参加できない人より多いだろうと考えられることだ。いわゆる性的な嗜好性というのは複雑で、それが必ずしも異常とまでいえないまでも、そういう趣向性で職業や、集団に属するという人の割合は、多くなるのである。男性中心的な集団には、男性が好きな人が混じっている可能性が高まるし、同じくそのように都合のいい場合があるのであれば、目的とは正反対な趣味の人が混ざる場合があろう。要するにPTA会長そのものを問題視する視点は、その前に他の集団の危険性を同時に考えなければならない問題と思われる。既に多くの人は気付いていると思うのだが…。





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