カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

死も恐ろしくないし、幸福も手に入る本   「死ぬのが怖い」とはどういうことか

2017-05-16 | 読書

「死ぬのが怖い」とはどういうことか/前野隆司著(講談社)

 題名の通りのことを考えてみるとどうなるか。感情的に自明のようである。しかし、それが何故かということや、死そのものの感覚というものを知ろうとするのは困難だ。だから科学的な思考法をもって考えを進めていっても、死というものは考えても意味が無いということに到達する。何故なら死という現象自体は、客観的にならいくらでも分析できるけれど、自分の感覚としての死は、体験したら終わりなので、どこまで分析したとしても分かりようがないからだ。それでもその分かりようのない死を、もっとつきつめて論理的に考えていくと、分かり得ないだけでなく幻想のようなものだということが分かってくる。そうしてそのような死というものを考えている自分自身の意識というものさえ、やはり捉えどころのない幻想だと解釈するより無い、という結論が正しそうだと分かっていく。実際に科学者の多くは、そのように推論しているらしいことも分かる。それはまだ実証的に解明されている訳では無いが、無いものを研究したとしても、だからそれは既に意味のないことになるかもしれない。自分で分かっていると思っているものを相手が同じように分かっているということでさえ、証明するのは極めて困難だ。感覚的には、自分が思っているので、相手も思っていると勝手に解釈しているということにはなるんだろうが。
 なんだか哲学めいているようだが、しかし科学は哲学より少なくとも先を考えて、既に多くのことを証明したり考え抜いたりもしている。そのような科学的な思考法自体を学ぶこともできる。そうしてコンピュータのプログラムを突き詰めて作って行ったとしても、それはつまるところ人間の持っている幻想的な意識というものには到達しない。それはまだ機械自体が幻想を持つに至る段階にないからかもしれない。しかしそれでも人間は、基本的には機械(コンピュータ)と同じようなプログラムに従っているということも分かっている。その上で、そもそも自由に考えているはずの自分自身の意思自体が、脳が作り出している幻想に過ぎないと推論できていく。そこのあたりはこの本でそれなりに丁寧に説明されているので読んだらいいと思うが、人によってはとても受け入れがたい感覚かもしれない。しかし、死のことを考えたり、自分の幸福のことを考えていく上でそのように推論した事実らしいことを受け入れることで、今度は仏教の悟りに似た境地を得られる道筋が見えてくる。そうしてそれは仏教徒が修行を積んで会得する悟りのようなものを、うまく説明できるだけでなく、簡単に自分自身の考えの中に取り込むことを可能にしていく。
 これは科学的な推論を理解しながら、合理的に幸福に至る考えを受け入れるために書かれた本だと言える。理解できる人がどれほどいるのかは分からないが、考え方としては有りである。多少言いたいことも無いではないが、論理的に考えて死を恐れなくなるばかりか、自分がしあわせになれるということが理解できるならもうけものである。それは宗教的なものを信じているとか、考え方を無理やりに受け入れているということでは無くて、合理的に判断して、実際的な問題として、そうなるということなのだ。簡単に言ってしまうと、ちょっとのんびり風呂にでも浸かってみようかなと真面目に考えるようになると思う(これが答えです)。死が恐ろしくて仕方のない人は、合理的にこの本を読んでみるべきであろう。
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簡単に性行為が出来ることについて

2017-05-15 | net & 社会

 村上春樹批判の中に、主人公が簡単に性行為を行う、というものがある。そういう小説だと言ってしまえばそれまでだが、確かにセックスに至るまでが非常に簡単という気はする。僕は男だからかもしれないが、女の人がそんなに簡単にセックスをさせてしまうことに疑問を感じるのは確かだ。現実的にはそんなことは無いだろうから、世の中には童貞がいるのではないか。
 いや、簡単にできる人とできない人に違いがあって当然だ、という意見もあろう。俺はこれが普通に思う、という人もいるのかもしれない。米国のロック・アイドルは、頻繁に複数のグル―ビーと寝ているのは本当のことらしい。実際にプレイボーイというのは居て、それは一種の病気の疑いがあるものの、何人もの女性と性行をしたという記録はごまんと残されている。しかしながら、やはり一定の興味を引くというか、実はあまり普通のことで無いからこそ、それらは好奇の目で見られる事象と考えていいのではないか。村上作品の主人公たちは、ある意味でそのようなプレイボーイという人達ではなさそうで、しかし簡単にできてしまう。それでいて非常にさっぱりしているというか、どろどろとした後味が残らない。そんなことはありえないのではないか。
 しかしながら村上作品の多くは、もともと荒唐無稽な出来事が起こる訳で、ことセックス関係だけを取り上げて異常視するのはおかしいのではないか、という意見もあるそうだ。それはそうだが、それで納得する男たちがいるとも思えない。たとえSF小説といえども、難しいものは難しいと考えるべきではないか。
 結局村上作品は純文学的なポルノだ、という批判もある。しかしながら多くの文学作品が性の問題を取り上げているのはごく普通のことで、ポルノだから悪いという批判というのは、ちょっと違うという気がする。性に対する葛藤という前に、まずはいろいろな行為がなされていることに違和感を覚えているのだから、むしろその扱いについて、文学的な掘り下げがあってしかるべきだということかもしれない。しかし村上作品は簡単に性行をしても、性に対する掘り下げをまったくしていない訳でもなさそうだ。むしろ向き合っているということもいえる。簡単にする問題は、表に出してそのようなことを考えたいということかもしれない。
 要するに羨ましい、というのがあるのは確かそうだ。そうすると単なる妬みととらえられるかもしれないが、まあ、こういう話はあまり女性の側から聞かれるものでは無いから(遠慮して言わないというのはあるかもしれないが)、単に男というのは「考え方が小さい」問題かもしれない(しかし大きな悩みどころだからこまるのだけど)。
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勇気は前もって鍛えられる   「勇気」の科学

2017-05-14 | 読書

「勇気」の科学/ロバート・ビスワス=ディーナー著(大和書房)

 勇気というのは、捉え方によっては文化によってかなり違う。成人の通過儀礼にバンジー・ジャンプというのがあるが、要するにそのような怖いものでも逃げずに経験したから大人として認められる。日本の場合は大人がジャンプできなくても、誰も咎めたりはしないので、本当に助かるが。しかしながら単なる文化の違いで、似たような不合理な通過儀礼は存在する。学生時代に一気飲みがあったり、集団で歌を歌ったり、教条を暗唱させられたりする。野球部のケツバットのようなものというのも(懲罰なんかの意味もあるにせよ)、何らかの勇気を試すような文化の一部ではなかろうか。従わないのは仲間では無い。できなければ退場させられるわけだ。
 勇気のある人間になりたいという欲求もあろう。著者はアメリカ人だが、アメリカでは同調圧力に屈せず、自分の主張が出来るようになることを理想としているようだ。人前で堂々とスピーチするとか、いざというときに行動を起こせるなど、価値が高く重んじられていることのようだ。そういうときに物おじせずに勇気を奮うことができることが、望ましいと思われているらしい。基本的には、それは日本においても同じような感じもあるが。言葉遣いは「勇気」ということで論じられているが、要するにいかにポジティブに考え行動できるか、ということをつきつめて考えている。さらにそのような「勇気」というのは、訓練を積むことで誰でも発揮できるようになる、ということのようだ。「勇気」というものは、その人が本来持っている資質ということでは無くて、後発的に取得するような技能的な面が結構あるということのようだ。
 もちろんそのような生き方ができることが、自分自身にとって望ましいからといって、見栄を張る為であるとか、誰かのための犠牲であるとかばかりではない。そのような勇気ある人が、世の中のためになるという考えもあるが、そういう人に自らなれることは、自らもしあわせを呼び込めることに繋がるという考えらしい。自分がなりたい自分になれて、さらに尊敬も集め、最終的に幸福も掴めるということになる。理想の生き方をするために、最も必要なのは「勇気」であるという考え方なのであろう。
 著者は、勇気の研究をするために、アフリカのマサイ族の火の棒を胸に押し付ける儀式を体験する。彼らと打ち解けるために、彼らが考える勇気の証明とする通過儀礼を、自ら体験した方がいいと考えたのだ。まさに勇気を振り絞って、オレンジ色に熱せられた火の棒を胸に押し付けられた。そうして何とか激しい痛みに耐え抜き、火の棒は胸から離された。苦痛からやっと解放されてホッとすると、通訳は彼を励ました「ロバート、凄いぞ!今と同じことを、あと八回やればいいだけだ!」
 「勇気」という言葉だけを考えると、なんとなく胡散臭い感じもちょっとだけするのだが、ある意味では、いかにもアメリカ的な超前向き思想という気もする。もっとも勇気が持てなかったがために、自己嫌悪で苦しむとか、日陰の生活を余儀なくされるとか、そういう脅しの論理ということでは無いらしい。いや、そういうことがある人生より、勇気のおかげで結果的には後悔をしたくないということは言えるかもしれないが。そのような恐怖心があること自体が、勇気を持ちたいという根本的な欲求かもしれないけれど。
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動物園に展示されていない人間を、動物の姿に認めるべきである

2017-05-13 | culture

 動物園が大好きである。子供が大きくなったのにもかかわらず、時々動物園に行きたい。もっとも子供が小さいころに、頻繁に連れて行った訳でもないのだけれど。要するに子供に見せたいための動物園でなく、僕自身が行きたい動物園という意味である。最近は観光においても、動物園が入っていたりして、個人的にはとても楽しい。
 だからこれは矛盾する考えなのだけど、動物園に行くと、動物の為にはこれは、本当にいい施設なのだろうか? とも思う訳だ。僕は自己中心的な性格だから、僕の為には良いと言えるのは間違いが無い。しかしながら動物園に捕獲監禁されている動物たちにとっては、これはやはり災難の場所なのではないか。
 いや別にメランコリックにセンチメンタルにそんなことを思っているのではない。人間がこれまでに考えられるもっとも現実的な範囲内において一番罪深い動物であることと、支配者ぶって自己中心的であるのは知っている(さらに無自覚)。だから許されることであるという理屈では無くて、しかしそれでもやはり自分で分からずにつれてこられてそこにおられるだろう動物たちのことを考えると、どうしようもない不条理に心が痛むわけである。傷むが動物園が好きなんて矛盾している自分がここにいて、すいません、と思う訳だ。
 中には保護されている動物もいるという。ここに居なければ絶滅の危険のある動物がいるという。しかしそれは、やはり動物園が存在できる理由として正当か? いや、人間の理屈としては正当なのは分かる。何せこれは一つの文化で、一部の人間があるとき目覚めて、それがダメだと言ったとしても、現実問題としてそこにあるものを全否定するのは単なる単細胞だ。そういうことでは無くて、残酷だけどその残酷さに無自覚なまま、動物園を素晴らしいと思わなければならないような仕組みのような、そんなような現実が時々どうなのか、と思う。いつも思っていたら疲れるので、時々思う。
 で、やはり考える一つの言い訳がある。それはやはり動物の保護のことだ。動物園が保護しているという意味の保護ではなく、動物園に保護されていない動物を人間から守るという意味だ。
 要するに、野生の動物のことなんてほとんどの人間は、これっぽっちも考えちゃいない。人間が住んでいる範囲において野生として暮らしていける動物は少数派だし、近い動物はむしろ人間にとってはほとんど厄介者だ。駆除したりただ殺したりして遊んでいるだけだ。時には人間の方が襲われることもあるかもしれないが、基本的には人間の方が危害を加えている立場だろう。でも人間は時々野生まで出かけて行って、そこにいる動物を見たりする。そういう野生の動物の姿に、少なからぬ感動を覚える人もいることだろう。また、そのような動物たちと共に、地球という星に僕らが生きていることは、間違いのないことだ。しかしながらそういうことは、テレビでそういう番組を見るとか本を読んだりすることでしか、とても僕らには知りえないことだ。もちろんネットやテレビや映画などのメディアでもって、そういうことをガンガン伝えていくことも大切だろうけれど、やはり人間の教育施設として、動物園のようなところで、他の希少な生き物たちを見ることで、むやみやたらに何か虐殺めいたことを正当化する人間を、戒めることが可能なのではないか。そういう説得力が、動物園の動物たちそのものに、あるのではないか。
 まあ、そうであるならば、要するに動物園の動物たちは、生贄みたいなものかもしれない。そういう動物たちがいなければ、もっと人間は多くの動物を無差別に殺してしまう危険があろうということだ。究極的には、だから動物たちの為には、人間が滅んだ方がいいのだが、人間が同胞を殺すことは(戦争などを別にすれば)、人間の側の倫理観が赦しそうにない。確かに殺されるべき人間の中には、僕の子供や大切な人たちが含まれている。この矛盾の中に生きていて、動物たちを観て楽しめるほどの才能が、少なくとも僕にはあるようだ。そういう人間を考える場でもあるという意味での動物園は、人間自身も映している鏡のような存在なのだろう。
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若妻はかわいそうである   ゼロの焦点

2017-05-12 | 映画

ゼロの焦点/犬童一心監督

 原作は松本清張。結婚後すぐに夫は仕事の引継ぎのために出張するが、そのまま失踪してしまう。夫の行方を追って金沢に行くが、夫の過去が明かされていくとともに、そこにいる人々との不可解な関係性を伴って連続殺人事件が起こるのだった。
 重層的な人間関係のなか人が死んでゆくが、そのような事件の展開そのものは面白いにせよ、結果的にその理由とされることに、現代的な視点から、やや動機が軽いようにも感じられる。そんなようなことで、ひとは死んだり殺したりするもんだろうか。時代と言えばそうかもしれないけれど、もうそんな過去にこだわらずとも、現代をハッピーに生きたらどうだろう。まあ、そんなことを言いだすと、この物語自体は生まれなかった訳だけれど。
 映画的には、ぐんぐん引き込む力があって面白いとは思う。謎が気になって、これはどうなるんだ? という感じ。なんでこの人がこのタイミングで嘘のようなことをつくのだろう、とか、言葉に引っかかっているその原因とか、いくつもの謎解きの必要なパズルのピースが出てくる。まあ、最終的には収斂されてはいくものの、だからその最大の理由のところで、その程度のことで、こんな大それたことをしてしまったのか! と思うのかもしれない。まあ、ズルズルそうなってしまったのかもしれないけれど。金沢の人たちは、ちょっと物事を大げさに考えすぎているのではなかろうか。
 僕らの生きている現代は、確かに戦後の延長だが、しかしやはり戦後ではないのだと思う。戦後の人々はまだ生きておられるけれど、その戦後を引きずって、精神的に不幸になっている人は、一部になっていると感じる。それではだめだという議論のありようもあるかもしれないが、とにかく大局的には、それで何の問題も無い。ただしかし、このような映画で当時の気分をある程度納得して考える上では、もうかなり難しいものになっているのも確かだろう。物事に囚われる生き方自体が、人々の幸福を奪う。本人にとっては重要なこだわりかもしれないが、そのことを他人に押し付けないでもらいたいものである。
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経験と蕎麦の記憶

2017-05-11 | 

 なんとなく蕎麦の思い出が多いような気がする。蕎麦はもちろん好きではあるのだが、僕は九州人というのがあるのか、うどんか蕎麦かでどちらをたくさん食べてきたかという問いがあるとしたら、量的には間違いなくうどんの方に軍配が上がるはずである。そうでありながらそばの記憶というのは、それなりに古く根強いような気もする。子供の頃には特にうどんを好んで食べていて、それは今とは違うやわらかいものだったように思うが、ある時を境に、大人に近づいたころに、蕎麦を意識的に食べ始めたのではないか。それは感覚的なものだが、恐らく間違いなかろう。何しろ蕎麦をおいしいと思うような感覚は、多少の修練というか、経験が必要にも思う。もちろん最初から信州のような場所で生まれたような人とは違うのだろうけれど、子供や病人というのは、最初はうどんという相場がある気がする。だから大人になりかけた頃に、おもむろに蕎麦でも食べさせてもいいだろうというような大人の配慮があって、蕎麦も食べるようになったのではないか。ラーメンのように分かりやすいものでは無く、しかし、まあ旨いと思うようになる前に、それなりに変遷を重ねる必要があるのである。
 さらになんとなくさまざまな記憶と蕎麦があるのは、旅行などによる外出先で、あんがい蕎麦を選択する機会が多かったということもあるようだ。それは最初は父だったり、そうして先輩である年配の人たちが、蕎麦を好んで食べていた所為では無いか。別にラーメンやうどんでもそれは良かったはずだが、結局蕎麦屋にしようかという、一連の流れがあったのではないか。そうしてそういう人達と蕎麦を食べると、なんとなく蕎麦を習うような感覚が、僕自身にあったのかもしれない。少し苦みのある香りの高い味が、背伸びをしたような気分とも合っていたのかもしれない。
 そうして移動などの時の蕎麦というのは、食事だから空腹を満たして仕合せだということと、やはりその立ち寄り加減によって、一種の旅情と混ざって、情緒的なところがあるように思う。味については当然当たりはずれがあって、また個人の趣向や、土地柄の現れた味付けというのが、合う合わないということもある。しかし蕎麦が不味かったという記憶は、実はそんなに不快でもないような感じがある。まずい蕎麦を食ったという記憶は、ちょっと愉快に済ませられるような、そんな感じがある。たいして気安くそういっている訳では無くて、まあ、まずくても旅の記憶としては、それでいいのだというような、気分にさせられるということだ。そうしてあの不味かった蕎麦であっても、また食べてみてもいいように思ったりする。
 しかし人の好みや味覚というのは、実はそんなに当てにならない。僕は一人で初めて二十代の中盤に東京出張に行った折に、浜松町で蕎麦を食べた。その時の黒い汁の蕎麦は決して旨いものでは無かったのだけれど、何故かその後も数回はその近辺でやはり黒い蕎麦を食べている。味がそんなに違う訳でもないと思うが、今ではその時ほどまずいと思ってない気がする。要するに醤油味の汁に馴れただけのことだろうけど、あれはあれでいけるうちに入るような気もするのである。旨いと唸らせられる訳では無いが、積極的ではないにせよ小さい気持ちでは、旨かったな、などと思っているかもしれない。
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スキャンダルの重みは文化で違う   スポットライト 世紀のスクープ

2017-05-10 | 映画

スポットライト 世紀のスクープ/トム・マッカシー監督

 ボストンのカトリック教会内における神父たちの子供への性的虐待を暴いていく新聞の報道チームの顛末を描いた、ドキュメンタリータッチの映画。実際にそういう事件があったものを映画化したということらしい。結婚が出来ない(上に恐らく自慰行為に罪の意識のある宗教的な立場の人)神父さんが、一定の割合で子供に対して性的な虐待を行ってしまう実態があるらしい。さらにやはりキリスト教国の社会的なコミュニティにあって、このような基本的な信頼の揺らぐ事件を暴く困難さがあるらしいことも見て取れる。そういうことなので、キリスト教国で無い日本人の目からすると、その困難さや重大さが今一つ伝わりにくい映画という気がする。問題は問題として何故隠されなければならないのか、というのが、どうにもまどろっこしく分かりにくい。さっさと片付けられるべき犯罪であるのは明確なのに、法を扱う人間たちそのものが、頑なにそれを拒んでいる様子が延々と続く。犠牲になった人々まで、過去に追った傷をある意味で仕方のなかったこととして、自分の中だけに抱え込んでいたりする。既に日本だったら、とてもあり得ない後進的な精神性という感じかもしれない。まさにアメリカ社会がそんな感じだなんて、ちょっと信じがたい思いかもしれない。
 ということで、文化の違いでその重みがまったく違うので、アメリカという地方において意味のある衝撃的な映画だということを割り引いて考えるべきだろう。撮り方が悪い訳では無いのだろうけれど、普通に割り引くとそんなに優れたというところが分かりにくい。実際他にもドキュメンタリータッチでいい映画はたくさんあるように思うし、これが特殊な訳では無かろう。話題の映画がなぜそうなるのか、文化や背景によってその価値がまったく違ったものになるという、当たり前だがそんな映画かもしれない。逆説的にいって、日本のドキュメンタリーを海外の人が観たとして、あまり評価があがらない原因というのもありそうな気がする。人々のタブーや関心というのは、きわめて局所的な人間の営みが元になっているということなのであろう。
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見えないゴミの驚異~マイクロ・プラスチック~

2017-05-09 | Science & nature

 海はええなあ、海は。などと海を眺めていて心洗われる思いがしたことのある人は多いだろう。寄せては返す波は何故だか見飽きない。しかしながら残念なのはゴミである。よく見ると、ゴミのない海岸というのはほとんどないし、海上にもゴミが浮いている場合も多々ある。木の枝などは自然にそうなったという場合もあるかもしれないが、特に問題なのはプラスチックである。まったく分解されない訳では無いが、そのためには長い時間がかかる。海岸や海上だけでなく、海底にも相当量が堆積されているという。海底のゴミは微生物が少ない為か分解も遅くなる。深い海の底は、ゴミの貯蔵庫のようなことになっているという。海水にも流れがあって、そのようなゴミが舞い上がるようなことも稀ではない。人間のスケールでは地球や海は巨大だが、無限という訳ではもちろん違う。人間の活動に比例して、そのようなゴミが減ることは無い。特に日本の海においては、日本の国が出す排出量は減っているにもかかわらず、海の中に紛れているプラスチックのごみは、年々増加しているという調査結果がある。海はつながっている訳で、アジアの国々の経済発展が、日本の近海の海にも影響を与えているということだ。
 特に問題になっているのは小さなプラスチックだ。一般にマイクロ・プラスチックと言われているが、海にあるプラスチックごみのほとんどは5㎜以下と言われている。人間の視覚で捉えられるゴミの方が、実は少数なのである。そのことは、海の水をすくうだけで、その中にゴミが紛れているということを指している。その海の中で暮らす生物に、この影響が無いと考える人は居ないだろう。
 さらに近年特に問題視されているのは、もともと小さなプラスチックが、さまざま製品に使われて、我々は知らず知らず使っていることだ(むしろ歓迎して)。スクラブと言われ洗顔剤などの含まれている微細なプラスチック(マイクロ・ビーズといわれている)は、そのチューブ一本に数万単位で使われている。川や海には、いわばスモッグとしてそれらのプラスチックが漂っているということらしい。
 実際に魚や海鳥などが誤って小さなプラスチックを飲みこんでいる。そのような小さなプラスチックは、飲みこんだ生物の脂肪や肝臓などの臓器に溜まっていく。食物連鎖もあって、プラスチックを呑み込んだ微生物や小魚を食べる魚などには、有害な物質が染み込んだプラスチックの毒が濃縮して溜まるというようなことになるという。もちろん魚を食べるのは海の生物だけではない。人間が食べている魚の中には、一定数の有害化したプラスチックが含まれているのかもしれない。もちろん量が一番の問題だが。
 それらのゴミを回収したり分解させたりする研究は進んでいる。それらの研究そのものに対する期待もあるものの、実際には排出されるゴミを減らすことを考えないことには、根本的には問題は解決しえない。しかし問題なのは、当たり前だがそれらのプラスチックは、人間の生活には欠かせない便利なものであふれているということだ。それ自体を使わないという運動はあるにせよ、使わざるを得ないという事情もある(それが現代の人間が生きているということだ)。代替製品の開発もまたれるところだが、プラスチックを使わないことによるコストの方がかかることは間違いない。高コストというのは、つまり見えない公害を増やすリスクがあって、プラスチックを使わないことの方が、実は厳密にはエコではあり得ない。現時点の結論を言うと、もはやこの問題は絶望的である。
 しかしながら諦めるためにこんなことを書いている訳では無い。それでも問題を意識する。さらにその問題解決に向けて何らかのアクションをする。ものすごく地味でも、それも人間の生きる道なのではなかろうか。
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理でひとの心は動かされる   殿、利息でござる!

2017-05-08 | 映画

殿、利息でござる!/中村義洋監督

 仙台藩内の宿場町吉岡ということころでは、いわゆる参勤交代などの折に物資の輸送を行う「伝馬役」という仕事を御上から課されていた。しかしこれが、藩から年貢を取り立てられるのみでなく、伝馬にかかる費用の一切を宿場町の百姓が負担せねばならず、その費用に窮して夜逃げするものが出るなどの問題となっていた。この窮状を何とかしたいという思いが宿場の人間には少なからずあったが、上告することは命がけであり、さらに御上が納得して現状を打開させられる案というものはなかなか出ないのだった。そういう中にあって、藩は実はお金に困っており、その金を工面することにより、いわば年の利息をもらうことによって伝馬の費用に充てることが出来たら、宿場の百姓の負担を格段に減らすことができるという考えに至る。しかしそのためにまとまった金(現在換算3億円あまり)を篤志家から集めるばかりか、武士の社会の人間たちを説き伏せなければならないのだった。
 キャストや宣伝の雰囲気から、コメディタッチの時代劇とばかり思っていた。しかしながらさにあらず、重厚なドラマを秘めた感動の連鎖を生む見事な人間劇になっている。いわゆる偉人伝というか、道徳的にも良い話ということではあるが、事は単純ではない。いや、単純なのにひどく困難な道が続く。困難の度合いが世代を超えた何十年という歳月を含むに至っては、何か人間の生き方や考え方そのものを揺るがすような衝撃をもたらすのだった。もちろん、それでも御上の人間の中にこれらの考えを全否定することも十分にできたはずで、しかし当時に人間であったとしても、その道理を理解して、いわば感動して動いたということが見て取れる。一般的に大ヒットするような話ではないのかもしれないが、この感動の連覇は、恐らく多くの人が味わうべき理なのではないだろうか。
 現代的視点からするとリスクばかりが多くて、さらに本当に利になるという確証さえなく、自己を捨てた人のためになるということへの慎ましく禁欲過ぎるありさまは極端である。考え方が非常に立派で、人の心を動かさられるものであるのは間違いないが、その実践の徹底さに至っては、本当に理解できるものが誰も無いという過酷さを経なければならない。実際に数十年前からその志を持っていた人物は、既に他界している。それも多くの人の誤解が解けないままである。だからそれは歴史が語りえる人間の崇高さなのであって、この話が奇跡的に完成しなければ事実として残らないばかりか、また、それを書き記す主要な人物が無ければならなかったのだ。人がどの時代に生まれ、どのように生きるかというのはある意味では勝手だが、出来ればこのような人々の心の連鎖が、何らかの形で続いて欲しいと思う。そういうことが、道徳教育では無く、このような映画によってなされる。娯楽としても優れている良質な映画ということができるだろう。
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中国の高齢化問題:規模がデカいが、どうなる?

2017-05-07 | HORROR

 中国の高齢化問題を取り上げていた。中国が一人っ子政策を30年続け(今は止めた)、高齢化問題が深刻化しているという。高齢者人口は2.2億人。2050年には5億人という。中国の人口構成を「421社会」ともいうらしい。一人の子供、二人の夫婦、そして4人の老人。特に都市部に一人で暮らす高齢者問題は深刻で、低所得の上、自殺者も急増しているという。これといって資産が無い為、不動産を子供夫婦に奪われるトラブルも増えている。親の暮らしのことより自分たちの生活がある、ということなんだろうか。子の世代は孫たちの教育に熱心で、さらに親の面倒まで見る余裕は無い。競争は厳しく、彼らも生き残りをかけているということか。
 一方、高齢者に向けた福祉サービス等が日本から輸出され、将来的なマーケットとして期待されているということも紹介されていた。中国の南海のリゾート海南島の高齢者を取り込もうとする医療グループや、経済発展著しい沿岸部の高齢者向け不動産開発なども盛んらしい。高齢者でも金を持っていると話は別なのだろう。
 これは日本の社会でも基本的には同じことであるが、要するに核家族化というのが根本的な問題の核としてあると考えられる。文化的に子が親の面倒を見るということが当たり前だった倫理観が崩れ、多くの人が単身都市生活者として暮らすようになったということだ。農村部での家族の在り方と根本的に違うので、単独で生活が成り立たなくなると、すぐに破綻してしまう。さらに社会保障制度がそれにあわせて整備されていないらしいことも見て取れる。もっとも日本においても、結局年金制度よりも生活保護で包括的に高齢者の救済にあたっているという現実がある。想定されているものとは別のものを使いまわしてやりくりしていることに違いは無い。そうしてそのままで維持されていくかという問題は、結局先送りされているに過ぎない。
 中国の問題はその規模が大きいために、社会問題として解決がより難しそうに感じられる。しかしながら既に問題が顕在化しながら破綻だけを待っている日本に、この現象を正確に捉えることが出来ているのだろうか。打つ手がありながら別のバブルに浮かれている経済政策には呆れるけれど、既に打つ手を使い果たしている感のある日本は、さらに愚かに過ぎないだけではなかろうか。
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ケンカ売る相手が強くても、戦いますか?   プリオン説は本当か?

2017-05-06 | 読書

プリオン説は本当か?/福岡伸一著(講談社ブルーバックス)

 題名にある通り、狂牛病の原因とされるノーベル賞を受賞したプリシナーのプリオン説に疑問を呈したもの。2005年に現された論文というか未解決の話なのだが、いまだにはっきりとはその解決には至ってないような話だ(その反証が証明されている訳でもないから)。いや、日本人の弱いところである権威からいって(何しろノーベル賞だ)とんでもない説であると言っていいと思うが、しかしそうであっても、これがめっぽう面白いのである。もともと福岡さんの文章はものすごく上手いので、それだけでも凄いと思うのだけれど、やたらに小難しい論理が網羅されていながら、これがぜんぶは分からないにしても、ちゃんと読めるということが何より凄いのである。読めるだけでなく面白いのだから何とも言えない。疑問を呈している訳がだからプリスナーの説を否定しているのだけど、その否定されているプリオン説と言われるたんぱく質が病原体だという考え方自体が、もの凄く分かる気がする。支持していないのによく理解しているというか、科学者としてはそれは当たり前かもしれないけれど、支持者側の人が自分たちの理解のためにこの本を薦めてもおかしくないような説明の上手さだ。もっともコケにしているところも多いので、実際には薦めたりはしないだろうけど。少なくともこれを読んだ人は、いくらノーベル賞を受賞した説だということだけれど、やはりそういうことなら怪しいかもしれないくらいは、確実に思うことだろう。また、やはり科学の世界というのは、もの凄く厳密性にうるさくて、さらに複雑なことを根気よくやっているということが理解できると思う。これを読んだ親が、科学を志す子供に対して、不安になることは間違いないだろうけど(こんな仕事をやっていて本当にちゃんと飯が食えるのだろうか?)。
 もっとも福岡さん自身も、疑問を呈していながら、決定的にプリオン説を覆すほどの証明が出来ている訳では無い(既に12年も前だ)。その時点でこれを書いてしまったことは、十分に勇み足になる可能性も秘めながら、研究を進めているという訳だ。それなりに自分自身に確信があってのことだと思われるが、それでもまだ証明が難しいほどの、大変に危険な信念のようなものである。しかしながらだからこそ、この本の内容を読む価値があるという気もする。表には出ないばかりかほとんど理解されないだけで埋もれている論文の多くは、さまざまな仮説の元、ある意味で根本的に論理的根拠を持ちながらだけれど、そのような信念や勇気が無ければ書きえないものだろうということが見て取れるからである。間違っているかもしれないが、金脈を掘り当てたときはものすごくデカい。そういう思いに突き動かされて書かれているに違いないと思うのである。厳密にはギャンブルとは違うのかもしれないけれど、きわめてしかしギャンブル的なのだ。しかも、自分の生きている時代において、ひょっとすると単なるリスクでしかない可能性もある。福岡さんは文才があるので本を書いても生きていける才能は有ると思うが、しかしながら多くの研究者は、それでも研究をやめていないだろうことを思うべきではないか。人間というのは本当に面白い生き物である。
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シアトルでも鯛焼きが名物!?

2017-05-05 | 

 シアトルで鯛焼きが流行っている、というようなことをテレビでやっていた。あんこの入ったものも無いではないが、基本的に売れスジはベーコンやチーズなんかが入った鯛焼きということだった。それってそもそも鯛焼きなのか?という疑問もわかないでもないが、いちおうやはり金型が鯛焼きのもので(輸入しているらしい)、いわゆる形は鯛焼きっぽい物体という感じだった。でもまあ、なんでわざわざという感じだろうか?
 原因は日本のアニメにあるらしい。「KANON」というアニメの主人公の女の子が、毎回鯛焼きを美味しそうに食べる場面があるんだそうだ。それを見た海外の人たちは、あの物体は何だろう? と興味を持ったものらしい。そういえば海外に鯛焼きなんて売ってある方が不思議、というのは考えてみると分かる。見たことないが旨そうに食うものらしいという刷りこみが先にあって、食べてみたいと思うようだ。
 日本に来たことのある外国人の多くが、食べてがっかりする食べ物の上位に、いわゆる「今川焼、回転焼き」(そして恐らく鯛焼きもだろう)があるという。温かい食べ物の中に甘いあんこが入っていることに、かなり違和感を覚える人が多いという。あんこ自体も初体験の人が、変わった形の皮の中にあんこが入ってなんじゃこりゃ、という図式のようだ。そりゃ、確かに災難かもしれない。
 食べてみるとがっかりするが、見た目は面白くおいしそう。それならば自分たちなりにアレンジしないことには、売れはしないだろう。日本人の感覚からすると鯛焼きは鯛焼きのまま、海外でも喜んで食べてもらいたいという思いはあるが、口に合わないのなら仕方ないのかもしれない。やっぱり根本文化は違うのだ。
 シアトルにはベーコンの鯛焼きがある。覚えておいて何の得があるか分からないが、そういうのってやっぱりいいな、と思います。



追記:フランスやイタリアの人は、(多くの場合の一般的に売られている)日本のパンを見ると、ずいぶん残念な気分になるという。本場のパンとは異質のものが日本人がアレンジして売っている。そうして喜んで食べているらしい。本当のパンを知らずに、偽物のパンが普及しているように感じるらしい。
 よく分からんけど、海外で妙な巻物の鮨が売られていたり、アクロバティックなパフォーマンスで日本食がカウンターでふるまわれているというのが紹介されていたりすると、僕ら日本人の多くは、なんとなく残念に思っているのではないか。まあしかし、よその国で勝手にどうなろうと、基本的には知ったことでは無いと思うんだけど。人間というのは、基本は文化的に狭量なんだと思います。
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ガンと闘い続ける人類の姿   病の皇帝「がん」に挑む

2017-05-04 | 読書

病の皇帝「がん」に挑む/シッダールタ・ムカジー著(早川書房)

 副題「人類4000年の苦闘」。翻訳、田中文。上下巻本。威圧感さえある本だが、読みごたえ十分の上、これが何かサスペンスものの小説を読んでいるかのような錯覚を起こすことになるだろう。要するに面白いのである。面白く読んで歴史が分かる。それも凄まじい人間と癌との闘い。最初は当然癌という概念さえない手探り状態だった。だがその時代の医療でも、麻酔も無いのに摘出施術を施すなどと言う荒業を既にやっている。要するにその先には死をもたらすものであることが分かっているからこそ、ガンを取るということを施した先人がいる訳だ。様々な癌があるにせよ、がんの特徴としては、最初はごく局所に現れる。早期発見が重要だとされるのはその所為で、その最初の兆しが見つかったら、とにかく摘出してしまう。まだ痕跡の見られないところまで広く深く取り除く。そうしてガンというのは、普通の細胞より早く分裂して、ものすごいスピードで増えるものである。だからその成長を止めるような薬を入れる。癌細胞は特にたくさん栄養を必要としている。だから急速に成長できなければ死んでしまうのである。ただ厄介なのは、他の細胞だって増えたり死んだりして入れ替わらなくてはならない。癌細胞をやっつけるために、正常な細胞も傷つけなければならなくなる訳だ(それを副作用という)。
 基本的な方法はそういうことになるが、何しろガンというのは種類が多すぎる。さらにガンの異常性というのは、その他の正常な細胞がもっている本来の機能を使って、その異常さを伸ばす性質がある。ガンを破壊しようとする試みが、人間の正常な細胞を破壊する治療を避けられなくしている。副作用という言葉もあるが、薬というのは何らかの主作用と人間が勝手に思っているものだけで、終わるものでは無いということだ。ものによっては、副の作用があるからこそ、主作用が重要になる場合もある。さらに個体の個人差によって、なぜだか効いたり効かなかったりする。今まで効果があったのに、耐性を持ってしまう人だっている。何度も何度も挑戦してはその戦いに敗れ、何人もの屍の上に道が続いていく。もちろん中には非常に上手くいって生存が何十年と続いた人もいる。何が人生を変えているのか、どういう選択が自分に可能なのか。しかしそのことが分かるかどうかは、実に難しい。ガンが何を選択して、どのような作用を決めているのかは、実に恐ろしく多様なのだ。
 敵は大変に狡猾な存在だが、しかしあまりにもそれは人と共にありすぎる存在であるせいかもしれない。人間はとことん戦いを挑んでいるが、相手は消えてなくなりそうになりながらも、何故かいつも寄り添うようにして、そして突然再び猛威をふるいだすのだ。
 実はこの物語というか、戦いの歴史としては未完である。しかしその癌の研究の最前線は、当然ながらものすごく進んできてはいる。もともとの道が長すぎるのだ。いや、実のところ、本当にこの道に終わりがあるのかさえ分からない訳だが…。そのような癌の歴史を知ることは重要か? これはもちろん癌に携わる医者だけが知っておればいいという物語では無い。現役の研究者がこのような作品を書き残す。そのような人間がいる限り、将来というものが開けるに違いないのである。恐ろしい病気の記録だが、しかしそれこそが人間の歴史となっている。だからこそ、あえて凄まじく面白いと、いうことになるのかもしれない。
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PTAが無くなれば防げる問題だろうか

2017-05-03 | 時事

 千葉のベトナム人の女の子の死体遺棄(そしておそらく殺人)の容疑者が、女の子の通う小学校のPTA会長であったというニュースは、確かに衝撃的だった。僕は子供の通っていた学校の、小・中・高と、順にPTA会長をやっていた。まあ、いろいろあるが、皆が面倒だったので、僕にお鉢が回ってきたということに過ぎない訳だし、事件と何の関連も無いことなんでどうでもいいことに過ぎないけど、なんとなくだが、僕のような人で肩身の狭くなるような思いというか、複雑な心境になっている人がいるんではないかとは推察いたします。
 また、この機会に、もともとPTA活動に鬱憤のあった人々の、PTA組織に対するバッシングが強まったりするのも目にすると、これも関係ないことなのにな、という思いはする。ただし、子供の見守り行動などを、反動で強めるというのは、考え直した方がいいと思うが。まあ、結局は現在の当事者たちが決めることなんで、特にどうでもいいともいえるし。嫌がっている人もいるだろうけど、当事者たちが好きにしたらいいのである。
 PTA不要論というのは、PTAが存在する限り無くならないだろう。この組織については不合理なことが多いのは確かだ。事実上強制しているし、任意というのは建前だ。でもやらない(やれない)人がちゃんといるのも事実だろう。そういう現実はあろうが、PTAが無くなったとしても、親の活動が無くなるのかというのはあり得なくて、結局何らかの形でやるべきだという意見というのが、特に先生サイドの方にあるのは間違いない(もちろん親の側にだって当然あるだろうけど)。僕は教師ではないけれど、もしも教師が職業であるとするならば、親のかかわりのない学校教育というものが、そのまま成り立っていいと思うわけが無い。そんなことは猫が考えても分かる理屈だろう。さらに社会としても、学校が教育者だけでやっていいルールというのは生まれえないと思われる。要するにPTAの存在が否定されるようなものの考え方が、不健全であろう。それはいくら議論を尽くしても、あきらかそうである。もし無くした後に生まれてくる会が、結局はPTAと違うモノになるとは思えない。
 PTAがあるからこのような事件が起こったのか、ということも、まったくスジが違う問の立て方であるに過ぎない。ただし、事件を起こした男は、推察するに、自分の趣味とPTAが都合が良かった可能性はあるだろう。それは確かに好ましいことでは無いにせよ、子供に興味のある人がそのような立場になりたいと思うというのは、むしろ自然である。そういうものをどのような方法で防御するのかというのは、多少は考える必要はあるかもしれない。しかしそうであるのならば、防ぐ手立ては、ほとんどないと言えそうだけれど。悲しいかなそれが今回の問題であって、組織論とはやはりまったく関係のない話であろう。


追記:本文の趣旨とは違うが、このような推論を進めると、もっと明らかそうに思えるのは、子供が好きで教師になるという合理的な考えの元、教師になった可能性の人の確率の方が、親にならなければPTAに参加できない人より多いだろうと考えられることだ。いわゆる性的な嗜好性というのは複雑で、それが必ずしも異常とまでいえないまでも、そういう趣向性で職業や、集団に属するという人の割合は、多くなるのである。男性中心的な集団には、男性が好きな人が混じっている可能性が高まるし、同じくそのように都合のいい場合があるのであれば、目的とは正反対な趣味の人が混ざる場合があろう。要するにPTA会長そのものを問題視する視点は、その前に他の集団の危険性を同時に考えなければならない問題と思われる。既に多くの人は気付いていると思うのだが…。





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結局整理整頓大事だよ!: すぐやる!

2017-05-02 | 読書

すぐやる!/菅原洋平著(文響社)

 副題に「「行動力」を高める”科学的な”方法」とある。まず前提としてしっかり寝る。そうして整理整頓(気の散る要素を出来るだけ無くしていく)。小さな課題からまず始める。習慣づける。すぐやる人のマネをする。すぐやる言葉を考える。疲れをためない。成功体験を積む。などなど。具体的なノウハウなども書いてある。例えば皿の洗い方など。流しに貯めないで、流しに持って行った皿から順次洗うとよいという。理由は本書を参照の程。
 手に取った理由は他でもなく、僕が直ぐにやらずに先のばす習慣があるから。言っちゃなんだが、だから読書するようなこともするんだが…(これを読んだのも先延ばしのおかげ?)。でもまあ、当たり前と言えば当たり前のことが書いてあるけど、文中にポイントとなる言葉に線が引いてあったりして、親切と言えば親切な構成だ。目次を読んでも内容はだいたいわかるが、飛ばし読みして時々見返すなどに便利かもしれない。当たり前だが実践のためには、それなりの訓練は必要と思われる。分かっちゃいるけどやめられない習慣の中にずっぽりと浸かっている現実があるので、そういう環境から少しづつでも変えなくちゃならない。要するに習慣的にすぐやれるのが理想である。あんまりすぐやれるようになると、もうブログなんて不合理な行動はやめてしまうかもしれないけど。
 でもまあ、やっぱりいつの間にか脱線しちゃうのが人情である。しかし、すぐにやれないという言い訳を考えるのも要注意、という。逃げ場が無いのである。シンプルだけど、突き詰めて考えるとそういうことになるのかもしれない。すぐにやれない人がいるから、このようなハウツーものがある。要するに、すぐにやれない人というのはそれなりにいると思う。そういう人が身の周りにたくさんいると、伝染するようにやはり自分もその仲間に取り込まれていく。経験上そういう気もするし、だから現在があるんだろう。大変反省しました。
 面白いと思ったのは、例えばテレビが時間を奪うだけでなく、その時やろうと思っていた気持ちも先延ばしにするわけで、いっそのことテレビのリモコンを見えないところに置く、などの方法が書かれていることだ。きわめて合理的に物事を仕向けるようにする。要するに自分のことが信用できないので、仕組みをすぐにやるように仕向けることを考えていくわけだ。パソコンもしかりで、いちいち電源を落とすなどした方がいいようだ。まあ、いつでも開ける便利さが、逆に仕事の支障になっている訳だ。
 そう思っても、なぜ人はそうしないんだろう。それはやはり先延ばしが娯楽のようになっているというか、言い訳になったりする道具であったり、何かと自分に都合がいい訳だ。私たちは、そういう負の環境や誘惑の多すぎる世の中に暮らしている訳で、すぐやらないための生活を余儀なくされているということなのかもしれない。本当に危険な世の中になったものである。まあ、理想としてすぐやる習慣のために、頑張らねば。
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