カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

スキャンダルの重みは文化で違う   スポットライト 世紀のスクープ

2017-05-10 | 映画

スポットライト 世紀のスクープ/トム・マッカシー監督

 ボストンのカトリック教会内における神父たちの子供への性的虐待を暴いていく新聞の報道チームの顛末を描いた、ドキュメンタリータッチの映画。実際にそういう事件があったものを映画化したということらしい。結婚が出来ない(上に恐らく自慰行為に罪の意識のある宗教的な立場の人)神父さんが、一定の割合で子供に対して性的な虐待を行ってしまう実態があるらしい。さらにやはりキリスト教国の社会的なコミュニティにあって、このような基本的な信頼の揺らぐ事件を暴く困難さがあるらしいことも見て取れる。そういうことなので、キリスト教国で無い日本人の目からすると、その困難さや重大さが今一つ伝わりにくい映画という気がする。問題は問題として何故隠されなければならないのか、というのが、どうにもまどろっこしく分かりにくい。さっさと片付けられるべき犯罪であるのは明確なのに、法を扱う人間たちそのものが、頑なにそれを拒んでいる様子が延々と続く。犠牲になった人々まで、過去に追った傷をある意味で仕方のなかったこととして、自分の中だけに抱え込んでいたりする。既に日本だったら、とてもあり得ない後進的な精神性という感じかもしれない。まさにアメリカ社会がそんな感じだなんて、ちょっと信じがたい思いかもしれない。
 ということで、文化の違いでその重みがまったく違うので、アメリカという地方において意味のある衝撃的な映画だということを割り引いて考えるべきだろう。撮り方が悪い訳では無いのだろうけれど、普通に割り引くとそんなに優れたというところが分かりにくい。実際他にもドキュメンタリータッチでいい映画はたくさんあるように思うし、これが特殊な訳では無かろう。話題の映画がなぜそうなるのか、文化や背景によってその価値がまったく違ったものになるという、当たり前だがそんな映画かもしれない。逆説的にいって、日本のドキュメンタリーを海外の人が観たとして、あまり評価があがらない原因というのもありそうな気がする。人々のタブーや関心というのは、きわめて局所的な人間の営みが元になっているということなのであろう。
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