使える語学力/橋本陽介著(祥伝社新書)
副題が「7カ国語をモノにした実践法」。同じ著者に「7カ国語をモノにした人の勉強法」というのがあって、恐らくその続編という捉え方でいいだろう。記録を見ると前著も読んでいるようだ。
著者の体験的な勉強法であるが、合理的だし、実際に王道であると思う。しかし多くの言葉の出来ない人は、だからこそこの著者のやり方でない勉強をしていることを理解するはずだ。著者は学校の先生だが、しかし学校教育で勉強して言葉の習得は不可能だろうとも言い切っている。要するにモノにする勉強法とはかけ離れている為である。
耳の痛い話として、言葉の習得への読者の期待の多くは、ダイエットに求めるものと似ているという指摘だ。ダイエットが成功する方法は、実は多くの人は既に知っているはずなのだ。しかしそのような王道では無く、食べながらであるとか、楽にであるとか、王道とはかけ離れたテクニックがあるものだと多くの人は幻想を抱いている。わざわざ不成功の道を選んでいるのだから、達成できないだけのことなのだ。言葉においても同じであって、長い時間必死に勉強したという人もいるかもしれないが、それは本当のことかと問うている。やり方が間違っていたというのはあるが、実際に必死にやった程度によっては、それはそれなりにできるようになったはずなのだ。言葉が出来るようになった人は間違いなく、それなりに必死にやった人限定なのだ。王道から逃げず、音声を大切にして、その国の言葉の感覚を掴み、自分なりに応用して組み立てることをすると、誰でも言葉はおそらく習得できるものなのだろう。しかし日本人の多くは、実際には日本語以外に必要なわけでもないし、必死になって勉強する人など少ないという事実があるだけのことで、だから使える語学力を身につけられないだけのことなのだ。当たり前のことが書いてあるのは、そういうことだ。
でもそういう絶望の話が書いてあるわけではない。簡単な話ではないにせよ、その王道的な勉強の仕方は、学校の勉強の仕方と違うだけのことで、要するに面白くない勉強ではないということにも気づかされるのだ。この勉強法は楽しいだけでなく、着実に身に付く。ちょっと意識を変えてみるだけで、実は僕は少しだけこの本を読んでいる間、いくつかの言い回しを覚えて、使える感覚を、少しだが同時に覚えた。まさに目からうろこで、感動的である。なるほどこんな感じというのは、昔ちょっとだけ中国語をかじった時にも、何回か覚えた記憶がある。そうしてそういう感覚で覚えた言葉は、現在でも忘れずに使える筈なのである。言葉って本当に面白いものだ。
また言葉について、特に日本の教育の英語偏重についての苦言も書かれている。言葉といえばまず英語だというのは、かなり大上段に間違いである。だからこそこの著者は結果的に7カ国語(この数え方についても解説がある)使えるようになったかもしれないのだが(もちろん英語を含めて)。
外国語を学ぶことで日本語が出来なくなるというのは幻想だ。むしろ日本語の理解も深まることだろう。世の中に蔓延する偏見もバッサリ切って爽快で、読むか読まないかで人生が変わる可能性の高い入門書である。多くの人が読んでしまったら、自分の優位性が揺らぐので、理解できない人には薦めない。偏見のある世の中で、自由に生きる人間になろう。