カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

忘れることの恐ろしさ

2016-06-10 | 感涙記

 米国の認知症の人々を紹介したドキュメンタリーを見た。認知症に人種の違いはそんなにないと思うが、社会保障や保険の違いだろうと思うが、比較的裕福な人々が利用している老人ホームであろうという背景はあるようだった。月々4千ドルという発言もあったようだ。また、そのために自宅で介護している人も紹介していた。確かに、日本の年金生活者の実感としても、とてもそんな金額を払い続けられるものではない。
 認知症の人々だからいろいろ誤解をして変なことをしたり変なことを言ったりするのだが、やはり介護をしている人たちはあしらいが上手くて、要するに実に上手に嘘をついていた。いわゆる方便であるけれど、最初はレポーターの方が、そのような対処に戸惑っていたような感じではあった。もちろん徐々にその現状を理解してゆき、肯定的にはなってゆくが…。
 印象に残ったのは、恐らく歯科医だった男の人の例があった。いまだにその仕事を続けているつもりがあって、スタッフや周りの人に歯のアドバイスなどをしている。仕事をしているつもりもあるのかもしれない。家に帰りたがって荷物を頻繁にまとめるが、もちろん帰ることは出来ない。エレベータを動かす暗証番号も知らない。頻繁に面会に来る女性があって、背が低い一緒に働いていた人だと言っていた。実はそれは彼の妻のことで、結婚していた前の記憶しか残されていないために、自分の妻だと認識できていないのである。さらに驚いたことに、老人ホームに彼女が二人いるようで、一緒にお茶を飲んだり、実際に妻の前で付き合っていることを隠しもしない。一人の女性は部屋で服を脱いでいたこともあったそうで、要するに性的な関係があるらしいとも考えられる。取材中に実の妻は、やれることをやっているだけだという答弁をしていたが、最後の方でやるべきことはある程度はやったのではないか、というような発言をしていた。要するに、すでに愛は無く、責任感だけなのかもしれない。
 家庭で妻の介護をしているおじいさんがいたが、いつも名札を付けている。毎日顔を合わせるので妻は夫だとは思っているようだが、要するに名前を思い出せないのだ。会話は本当に分かっているのかどうかも怪しい部分はあるが、ある程度調子を合わせる社交性の才覚で何とかなっているらしい。おじいさんは、実際には妻はほとんど自分のことを覚えていないらしいことは薄々わかっている。しかし、介護をする生活の中で、時々妻からの愛を感じ取れることがあって、それを信じて支えているということのようだった。
 認知症自体は残酷な症状であると思う。人間は記憶をなくすと関係さえなくなってしまうのだろうか。僕は最近のことはもちろん、昔のこともおおかた忘れてしまった。そういう意味では立派な認知症だが、たぶん生活は何とか成り立っているとは思っている(勘違いの疑いはあるが)。怪しい部分はあるが、さらに患者になった自覚も無く、この症状が進むのだろうか。どのみち分からなくなるのなら怖がっても仕方がないけれど、そのような悲しさも、同時に失ってしまうものなのだろうか。そういうことを早く知りたい訳ではないが、自分のことを信用できなくなる日というのは、やはりどうにも理解が難しいものだと思った。
コメント
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