カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

本人の意思が重要ではない件

2016-06-01 | 境界線

 知人に島の出身で、確か旅館か何かの息子なのに刺身が食えないという奴がいた。商売なので毎日家には新鮮な魚が豊富にある。客には釣り竿などを貸し出すらしく、その指導をするのかどうか、本人も釣りはそこそこ上手いらしい。実際に島だからやることはあんまり無くて、釣りはよくしていたらしい。しかしながら魚を食うことが苦手で、恵まれた環境がぜんぜん活かせてない残念感があった。むしろ魚に囲まれ過ぎて、呪いでも受けているのかもしれない(もちろん冗談です)。
 しかしながら考えてみると、そういうことはあんがいよくあることである。以前はダンスの出来ない留学生の黒人がいて、パーティなどの時に皆から期待される視線を浴びるので困るという話は聞いたことがある。しかしながら外国人だから、残念だけど踊ってしまってがっかりされるのだという。
 確かに多かれ少なかれ、人として何らかの期待は受けて、もしくは立場上当然視されて、それに応えられない問題というのは悲劇である。四番バッターがホームランの期待を集めたりストライカーがシュートを撃つのを期待されるのとは少し違う。彼らはそれなりの実績があって期待されているのに、何の実績も得意である表明も無しに、勝手に相手が期待しているのではないか、という圧力に苦しむ場面はそれなりにあるのではないか。
 そうではあっても、その場で不本意な期待を集めてしまうことに、なぜ応えようとするのだろうか。いやできません、と言ったところで、相手は安易に了解してくれない。下手をすると単なる謙遜だと取られる恐れもある。要するに逃げ場が無くて、残念を繰り返さざるを得ない。そんな人生はまさに悲劇というより無いではないか。
 一生逃げて暮らすか、諦めてそこそこ習熟に努めるか。実は多くの世襲問題などは、そのようなものがあるんじゃないかな、と思ったりする。得意でやっている人なんて、ほとんど居ないんじゃないか。そもそもそのような個人の意思というのは、最初からたいして重要視されるわけではない。
 まあ、そんなことを思っても、何がどう変わるわけではないのだが。
コメント
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