読めはするけど、書いてあるとなんとなくギョッとするというか、まあそうなんだけど、ひらがなの方がいいなと思う言葉はけっこう多い。ふだんの会話では普通に使うから違和感が無いのだけれど、文章にすると、あれっという感じだろうか。
こういうのはだいたい和語が多くて、漢字をあてている為に起こる。漢字を知らなくても流れで読める場合もあるけれど、親切な人ならひらがなで書くべきところかもしれない。そんなところで文章に引っかかって読まれたくない。しかし意味としては重要だから読んでもらいたい。ちょっとした学の深い人ならそのような配慮をするようなことをやるかもしれない。
苛め(虐め)なんかも、いじめの方がいいと思う。近年の社会問題化の影響か、頻繁に出るので読めるけれど、問題視しているならかなの方が親切だろう。
拘るなんてのも、ひらがなでこだわって書いた方がいい。いや、すぐれた人間としてはこだわりを捨てるべきなのだが、人間が未熟だからこそこだわりが捨てられない訳で、拘って使うとかえって妙である。
先日「身を窶す(やつす)」というのを見て、ははあ、やはり変換されてしまったか、と思った。読めるけどやっぱり不親切な感じは痛いかもしれない。漢字を知っているのなら、あえて使わずさらりと書いた方が、なんとなく立派な感じがする。
誰でも使うからいいじゃないかという人もいるかもしれないが、当て字の類は語源的なものがある。「土産」などがそうで、どさん(または、とさん)という言葉もあるが、その土地のものを持ち帰ったりしたので「みやげ(これの語源はググってみてください。諸説あり)」の言葉をあてたのだろう。両方の意味が分かって便利だが、「みやげ」とひらがなで書いた方が、かえって温かみがあったりする。まあ、これは感覚かな。
そういいながら、その人の癖というようなこともある。僕は手書きの頃は「やたら」は漢字で矢鱈と書いていた。「誰かの所為(せい)で」などもそうで、たぶんひらがなだと、引っかかりが少なすぎる感じがするからかもしれない。それに恐らく漱石などを読んだ後に、それらの当て字の多さに感化された可能性もある。昔はけっこう辞書を引きながら根気よく本を読んだものである。特に当て字は難儀したから、かえって覚えたのかもしれない。(※そういえば漱石には「硝子戸の中」という作品があって、たぶんこれは中をウチと読むはずである。そういえば流行歌などで「太陽の下」を下(した)と発音するものが多くてギョッとする。以前なら普通ならに下(もと)の方が自然だったよな。)
「流石(さすが)」などはワープロになってからひらがなに変えることが多くなった。ちょっとかっこつけすぎかな、という遠慮があるのかもしれない。語源が面白いのでググってみてください。
流行り(はやり)はそのまま使っている。また上手く(うまく)もそのまま。流行りは意味が伝わりやすいという考えがあるのだろう。上手くと書くのは「旨い(美味い)」という音が似て違う単語との区別の意識があるかもしれない。
こういうのは振り仮名をふってもいいかなとは考えることがあるが、まあ、読めないことも無かろう、とタカをくくってしまう。こういうのは僕自身が学のない悲しさも含まれているのかもしれない。人間というのは知らず知らずのうちにコンプレックスがあらわれる。漢字ばかりの文章を書いている人を見るとそのように感じるので、逆にそのように感じられる場合があるというのは、考えてみてもいいだろう。まあ、無意識ならそれも気にしないのだからいいのだけれど。