カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

時間はやはり大切に   タイム

2016-06-05 | 映画

タイム/アンドリュー・ニコル監督

 SF映画。恐らく近未来で、人は貨幣ではなく寿命(時間としてストックを持っている設定)をやり取りして経済活動をしている。寿命が多ければ金持ちで、少なければ貧乏というわけ。見た目の年齢もよく分からず(25歳で見た目の姿が固定されるらしい)、数百年の寿命を持つ人もいれば、まさにその日暮らし、数時間しか残り時間の無い生活をしている人々もいる。そうした階層で人々は別れて暮らしており、腕に表示される時間によっては、時間のない人々から常に命を狙われるような物騒な世界になっている(やり取りは手をくっつけて恣意的にできるという設定である)。
 いろいろ突っ込みどころの多い設定だが、まあ、そういうものだと思わない限りこの物語が成り立たない。こんなことが出来るわけが無いと思うとシラケるので、少なくともそこは了解しなくては。しかしながら時間が少なくなった人間は、もっと切実に騒ぐだろうし、犯罪もこんなものでは済まないだろうとは思う。給与を時間でくれるんだから、時間の生産は普通に可能なはずだが、そういうこともとりあえず見逃そう。貨幣の代わりに時間を用いるというのは、理屈の上でしか成り立たない概念で、恐らく人間の癖としては、貨幣で時間をやり取りするに違いないのだが、時間そのものをやり取りしてしまっては、リスクが多すぎて耐えられないだろう。またやり取りの仕方が簡単すぎるので、人ごみの中で生活できる人もいなくなるだろう。
 そういうことで映画の中では時間を持っているものと持たない者とで階層が出来て(これは当然だ。事実上現代社会もそのように現実になっているから。金持ちだから住むところを選んで集まるのは、当然の習性だろう)、壁で分け隔てされている。主人公はこのスラム地帯に紛れ込んできた自殺願望のある時間持ちから、100年くらいの時間をもらって、この地域から抜け出すことから物語が展開していく。自分の時間が増えたのでハッピーだが、彼はさらにギャンブルで時間を増やし、時間の銀行のようなところを襲撃して時間をさらに奪い、スラムや大衆に膨大な時間をばらまいて平等世界を作ろうとするのだ。
 当然時間が貨幣の代わりになっているのだから、現実社会でもこれは可能なはずなのだが、しかしそのようになっていないのは何故だろうか。現実的には貨幣は労働などの対価として、または交換などに用いられるためにやり取りされている。映画では保管可能なようだから配っているけれど、溜められるような人たちが何らかの方法で集めたからそこにあるわけで、生産されない限り配ることは出来ない。さらに時間は勝手に消費されるので、有限で減るばかりだ。何らかの方法で生産されない限り増えないから、配るよりも生産する方法を何とかしない限り、恐らく恒久的には無理な話だ。時間持ちになってもこのように奪われてしまうなら、あくせくと時間をためる人なども居なくなるだろう。要するにやはり、この物語はあくまでファンタジーで、無理な設定をしない限り成り立たない訳である。
 映画としてはどうなのか。僕がもう少し若かったら面白かったかもな、とは思う。要するに途中で先が見えてしまって、もうちょっと深みが欲しいところだった。しかしながらこのようにいろいろと考えさせられることはあるので、そういう興味で観る分には楽しめる人もいるかもしれない。
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