カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

言葉を簡単にすべきなのか

2016-06-18 | net & 社会

 今夏からいよいよ18歳から投票できる選挙が行われそうだということもあってだろう、18歳の人が選挙に対しての戸惑いがある旨、素直に声を聞くような企画なりが増えているように感じる。議論があったのはずいぶん前だから本当に今さら感があるのだが、要するに直近になれば、実感がやっと伴ってきたということなんだろう。遅すぎか記憶力が無さすぎだろう。
 若い人たちが国会中継などを見た感想を聞いてインタビューしていたが、「言葉遣いが難しすぎて意味が分からない」という意見が圧倒的だった。こんなもので国民に何を訴えているのか、というような意見もあったし、もっと簡単な言葉で話すべきだという意見もあった。まあ、それらは感想の域に過ぎないが、これに返答する必要が本当にあるんだろうか。
 そもそも国会は国民に対して答弁をやっているものでは無かろう。分からないのは個人のレベルの話だから、国会に出ていない人に対して配慮すること自体が何かの間違いだろう。そういうものを見せて感想を取る立場の人たちの配慮の方が、足りないだけの話だ。もっとも報道の方も何を話しているのか解説するのが面倒だから、説明を怠っていた責任はありそうに思えるが、それは国会議員の責任とは少し違うのではないか。彼らは彼らなりのジャーゴンなどを使って議論せざるを得ない訳で、それは職業なので仕方がない。むしろ実際にはこれに参加しながら理解できていない人も混ざっていることの方を問題視すべきだろう。
 国会議員には一定の年齢に達すれば誰でも立候補できるようにはなっている。確かにそれは建前もあって、やはり誰もがなれるような訳ではない。しかしながら選挙は基本的には人気投票だから、有名人が選挙に出たなら、それなりに勝てる確率が高い。だから実際にそういう人が議員には多い。もちろん批判もあってハードルもあろうし、そもそもなりたいかどうかという個人が出てくるのか、という問題はある。ある程度の人の好さや自己顕示欲などの絡みが上手くゆくと、出てみようかという人は一定数いるのかもしれないが。無名で志のある人は、無名で無く志が広く理解されない限り、出てもいいが受からない。選挙に勝てなければ議員になれないというハードルを越える器量の持てるまでは、いわゆる修行というか、「何か」を持つ人でなければならないということだろう。他の職業なら資格試験や他のやり方があるだけのことであって、それが議員には選挙であるということだ。
 これらのことに若い人が関係ないならそれもいいだろう。しかしながら若い人でも、恐らくなのだが、議員になりたいと思うような人は、やはり一定数以上いつの世にもいると思う。そんなことは当たり前で、その人たちが目指すべきステージがあるだけのことなので、そのことを国民があれこれ考えたって感想に過ぎなくなるのはごく当たり前である。それは若い人の問題ですらない。誰でも出場できる甲子園の野球を、いったい誰が望んでいるというのだろう。
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