カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

理想郷というのは先に存在しなければ…

2016-04-14 | culture

 CCRCという取り組みのテレビのレポートを見る。英語の単語の頭文字をとった略語だが、日本語だと高齢者地域共同体というらしい。仕事をリタイア後の高齢の人に移り住んでもらい、そのまま介護が必要になっても済み続けてもらうような共同体のような住宅とその地域を指すようだ。まったくそういう考えを聞いたことが無いわけでは無かったが、米国でそのようなコミュニティが実際にあって、そういうものを日本でもやってみようという構想があるようだ。そして、実際に実験的にその取り組みを行おうとしたところがあるようで、しかし結論からいうと、そんなに人が集まらずに、計画通りまちが出来上がってないということのようだった。
 もちろん過渡期かもしれないので、将来的に人が集まって、そのようなサービスを受けられるようなコミュニティが完成する可能性が無いわけではなかろうが、現実的にはなかなかこの考えが浸透していないか、もしくは日本の高齢者の支持を必ずしも受けていないのではないかとは感じられた。
 将来の不安を抱えたまま、今の地域に点在して暮らしていくより、思い切って健康なうちに移り住んでもらって、住みやすいまちを作ろうという考え方は理想としてよく分かる。効率からいってもそのほうがいい場合も確かに多かろう。
 しかしながら問題点の第一は、やはり経済的な問題ではなかろうか。現在住んでいる家が現実的に売れるなどして処分でき、移り住める場所の住宅を余裕をもって買えるような人なら良いかもしれないが、現実的に子供を育てた家というのが、そのまま単純に処分できないというのがあるのではないか。ただでさえ定年後で新たな収入は無い。そういう人が大きな買い物(住宅)が出来るのかというのは、まさに大きなハードルだ。
 またご高齢の人を集めて効率的に自宅で介護を受けられるというのは良いことだが、近隣の人々がそれぞれに頼れないということにもつながりそうだ。サポートする体制の組織がそれなりに機能できる程度に収入が見込めなければ、実際のサービスを提供できる体制は整わないだろう。住宅が満杯にならなければ、やはり難しい構想ではなかろうか。単にある程度の土地開発の場所を売ろうということでは、なかなか人自体は集まらないだろう。
 高度成長時代の新興住宅地は、そのまま高齢率が高くなって、既に事実上そのような高齢者の共同体的な場所になっているところがそれなりに存在する。買い物難民などの問題は、そういう場所において特に深刻になっているはずだ。結局そういうところにいかにコミュニティを再構築できるのか、という問題がまずあるのではないか。高齢者だけを集めてしまうと、そのような働きが機能しない。要するに、実は集めるのではなく、様々な世代が適当に混在するような場所こそ、人が住み続けるには都合の多い場合が多いのではなかろうか。
 いろいろ疑問に思うことは多いのだが、そのまま移り住んだ人がその場所にまた住めなくなるようなことになれば、ちょっと悲惨な感じがするな、と思った。効率の良いと思われる理想郷までは、まだまだ道が遠いのではないだろうか。
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実に欲張りに楽しめる映画   暗い日曜日

2016-04-13 | 映画

暗い日曜日/ロルフ・シューベル監督

 戦前のブタペストにあるサボーというレストランでピアニストの募集をしていた。そこにやってきた青年は、見事な演奏で仕事を得る。レストランのオーナーの恋人で看板給仕イロナは、その美貌で多くの男たちを魅了している。ピアニストの青年もすぐに恋をし、イロナの誕生日に曲をプレゼントする。そうして奇妙な肉体関係の伴う三角関係が始まる。プレゼントした曲は店の評判となり、レコーディングされて大ヒットする。その悲しげな旋律は多くの人を魅了する傍ら、ナチスの戦火の伸びる時勢にあって、少なからぬ人の自殺と絡んだ曲としても有名になっていく。何故かこの曲を聞くと死んでしまいたくなる人が居るらしい。そういう中、以前イロナにぞっこんで常連だったドイツ人の客が、今度はナチスの幹部として店に通うようになる。そうして町のユダヤ人は次々にこのドイツ人に財産を奪われ、収容所へ送られていくようになっていく。
 前半の恋の三角関係を成立させているのは、他ならぬこのレストランのオーナーのラズロの自由な考え方かもしれない。心から愛する恋人を妻とせず、彼女の恋愛は自由にさせる。しかし自分との愛は離したくない。イロナは素直にふるまうが、そこでイロナを分担して愛することになるピアニストのアラディはラズロとの恩義や友情を持ちながらこの関係に参加するようなことになっていく。実情としては二人の男は、本当はイロナを独占したいとは思われるが、イロナに譲歩して自由にさせることで、実はつなぎとめているということになるのかもしれない。愛をつなぎとめるには嫉妬も重要だとは言うが、これはちょっと自虐的すぎる設定のようにも感じた。
 しかしながら後半になると、一気にナチスの悪行と絡んだ醜い人間ドラマになる。ある意味ラズロが温情を掛けて人の命を救ったために、ラズロは自分の窮地を招くことになる。さらに結果的にはイロナにもつらい思いを強いることになってしまう感じだ。まったくやりきれない展開だが、それが戦争の戦闘だけでない醜さを見事に表していて、人の命のために人は何だってやらなければならなくなるわけで、本当に恐ろしい。そのために最後のどんでん返しが、実に子気味よくスパイスとして効いた映画になったようだ。
 美しい裸体もたくさん見られるし、恋愛劇や悲劇や裏切りや反戦やサスペンスと謎解きなど、いろんな娯楽要素がてんこ盛りになっていて、まったくお得な名作といっていいのではないだろうか。
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ファンの聖地は

2016-04-12 | 音楽

 先日広島に出張に行った折、同行の士のある先輩が、「そういえば広島といえば吉田拓郎の出身地だよね」と言っていた。歌は歌えないけど拓郎世代なんだそうだ。そうか、拓郎は確かに広島じゃけんね~、とは思ったが、僕らの世代なら奥田民生かな、と思った。思いはしたが、彼らの広島のどこの場所が聖地ということは無い。彼らがどこでお好み焼きを食べたりラーメン食ったりしたのかというのさえ知らない。ファンとはいえ、そんな感じか。
 ところでやはり先日江の島の前を通ったのだが、その前に茅ヶ崎も通って、「ああ、そう言えば桑田佳祐が俺の家も近い、とか歌ってたな」と言った。実際に家は知らないが、地元の人なら知っていることだろう。やっぱり地元コンサートは盛り上がるらしくて、この地域の人たちには、同胞としての愛があるのかもしれない。観光地だから、目当ての観光客もいるかもしれない。
 まあしかし、そういうことを考えると、ビートルズのリバプールとかアビーロードとか、そういう海外の有名どころの観光聖地というのは凄いもんだな、と思う訳だ。僕が知らないだけで日本の音楽家にだってそういう聖地はあるのかもしれないんだけど、なんだかよく思い出せない。漠然と出身地は知っているが、そこに行って気分を楽しむような感じはあんまり無い。
 そう思ってたんだが、長崎には居るじゃないか。地元のラーメン屋に行列が出来たり、稲佐山登り口をウロウロする観光客がいるらしいじゃないか。まあ、単に熱烈なファンがいるなら、そのような現象が起こるということですね。僕にもそのような情熱があったら、人生楽しいかもしれないです。
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みんな無理をしているが、素直に料理は楽しもう   バベットの晩餐会

2016-04-11 | 映画

バベットの晩餐会/ガブリエル・アクセル監督

 牧師の娘である美しい姉妹が、その美貌から有力な男たちから求愛されながら(おそらくその宗教のために)それを断り、デンマークの小さな漁村の宗教を守っている。そういう場所にフランスから亡命してきたバベットという女性がそのまま家政婦として住み込むことになる。小さな漁村では人間関係がいびつで、小さな争い事が絶えない。宗教心も薄れているようにも感じられる。そういう中で姉妹は父の生誕100周年のささやかな晩餐会を催すことにする。一方で、家政婦が宝くじに当たる。姉妹はこれで家政婦はフランスに帰るものと勝手に思い込む。家政婦バベットは、晩餐会の食事を自分に作らせてほしいと姉妹に申し出る。もちろん費用は自分が出すという。晩餐会前に生きたウミガメをはじめ、さまざまな奇怪な食材やワインなどが運び込まれる。それを見た姉妹は、大変に気持ち悪がって悪夢を見てしまう。招待した人たちにもそのことを話し、晩餐会では食事の話題を一切しないように決める。
 そういう環境下の晩餐会になったのだが、出てくる料理は豪華絢爛であるばかりか、実に見事な味だった。出席者はその見事さに目を白黒させながらそれを話題にできない。しかしギクシャクした人間関係は、いつの間にか打ち解けたものになっていく。
 結論を言うと、これは宗教的な忠誠の物語なのだと思う。若いころには美女としてその将来は、地位のある男たちの要求を受け入れさえすればバラ色の人生を送れたはずだった、という比喩である。そういう中に家族を失って国を追われた実は凄腕シェフだったということを隠していた家政婦がやって来て、さらに宝くじに当たるという幸運に見舞われて、結論を言うとしかし国には帰らないのである。これは姉妹の忠誠に恐らく感化されて、宗教的な忠誠を、引き続きこの家政婦が行うということに意味があるのであろう。見せかけの幸福よりも、人間的な生き方において、そのような美しい宗教的な生き方の讃歌であると考えられる。そうして、地上でもっとも素晴らしい極上の料理は、たった一晩だけの饗宴で消えてしまう。しかしここにいる人間の心の平安は、ゆるぎなく無くなることは無いのだ。
 実に変な映画だけれど、まあ、その上に人間の小さい心の猜疑心なども大げさに描かれ、妙な感慨を抱かされる演出になっている。昔の人は幼稚だが、しかしこのような感動があるからこそ、一生を敬虔に生きていくことが出来たのかもしれない。まあしかし、心の大きな返せないような施しを受けなければその気持ちが分からない人たちというのは、日本人から見ると、ちょっと難儀な人たちかもしれないですね。
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皆早く家に帰ろう

2016-04-10 | 時事

 少子化問題について、解決策はどうしたらいいか議論している番組があった。ざっくり言って、日本の政策としての対策は、比較する例えばフランスなどと比べて不十分というもの。当然という感じ。僕も専門家ではないが、そんなことは30年くらい前から知っている。要するに養育や教育にもう少しお金をかけて、さらに会社での男性の仕事のやり方を根本的に変えなければどうにもならない。細かくは議論の余地はあるが、それは明白で、その結果として、今の少子化問題の現実がある。文化的な側面は語られていなかったが、恐らくだが、そのような制度的な取り組みを変えることで、コンマいくつかの成果が見込めるかもしれない。
 さらにフランスなどと大きな違いは移民の受け入れなどの状況は外してはならないはずだが、これは意図的なのか議論なし。さらに移民などの出生率が高いことも取り上げられてはいなかった。育てやすい環境に敏感に反応して成果があるのは、その国で一度失望した人々ではない可能性がありそうだけれど…。
 また、やはり金銭的に苦しい若い世代こそ出生率を上げるカギを握っていることは間違いないが、仮に1000万円くらい先に給付すると、産んでもいいという意識ががらりと変わることもわかった。まあ、当然だろう。
 問題は財政問題で、元財務官僚の意見として、財源的に不可能だろうという話があり、これにあるコメンテーターがかみついて、それは僕らの世代の責任ではない、とか発言していた。的外れであるが、怒りの矛先の向けた場所が、さらに個人の問題では無いので、自分の点数稼ぎなのだろうと思われた。
 それはいいのだが、金銭的に高齢社会の社会保障費の案分を変えて、少子化対策へ回せるのかというのは、現実的には、たぶん不可能である。だからこれらの議論は最終的に机上の空論で終わるしかない。議論が悪いわけではないけれど、それが日本の国民の大多数が選択している現実社会なのだ。必要だとわかっていて手を打てる状況は、すでに終わっている。だから、給付以外の議論に絞って対策は練る必要があるという大前提を課さなければ、議論の意味というのは、ほとんどないのではなかろうか。
 とすると、やはり実際には法律として整備されている労働法規を守るだけでも、いや、(例えば育児休暇など)使えるようにするだけでも、実は効果が期待できるのではないかとは思われる。思われるが実行するまでのハードルは、実はそれなりに高いことも予想される。何しろ法律があるのに使わないのは、個人に使えなくする何らかの圧力があるからである。それが何で、どうすれば破られるようになるのか、というのが真に国民的な議論の必要な課題だと思う。
 まあ、その前に生産性の話があるが、これはまた議論しよう。まずは皆さん、早く家には帰りましょうよね。
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基本的に文学は助平である   BUNGO~ささやかな欲望~【みつめられる淑女たち編】

2016-04-09 | 読書

BUNGO~ささやかな欲望~【みつめられる淑女たち編】

 「注文の多い料理店」/富永昌敬監督。宮沢賢治の原作のこの作品は、子供の教科書に載っているような定番の話だから、恐らく誰でも知っている話だろう。このドラマでは不倫カップルが、別れをほのめかしながら後の手切れ金のことを考えながら駆け引きをすることを中心に進んでいく。傲慢な人間が、自然界の罰を受けるという感じだろうか。
 有名すぎる話を、恐らくは誰でも知っているオチがありながらつなげていくのは、それなりに苦しい感じだった。面白くない訳ではないんだけどな、ということと、荒唐無稽な、しかし考え方としては面白いオチというのは、やはり文章で味わった方がいいのかもしれない。
 「乳房」/西海謙一郎監督。戦時中の話。乳房が膨れてきたように思えて一人で悩んでいる少年が、夜間巡査の時に近所の理髪店に寄ると、夫を兵隊にとられている若い女主人が店で髪を洗っていた。その時にはだけた服の間から乳房が垣間見えたのだが、少年はその乳房が気になって仕方がなくなる。ある日この理髪店に散髪に行くと空襲警報が鳴って、二人は店の片隅に身を寄せ合ってやり過ごすうちに…。
 少年から少しだけ大人に脱皮する性的な話である。少年には母親が無く、若い女主人には夫が不在で悶々としている状況で、この二人が乳房を通じて、まさに通じ合うようなことになるわけだ。自然といえば自然だが、なかなかそんなことは無いようにも思う。昔の人はスケベだな、と思います。
 「人妻」/熊切和嘉監督。若い夫婦の住んでいる二階に間借りする男が、階下から聞こえる若妻の声などに敏感に反応し、妄想を深める。心の声の分身が現れ、自分の若妻への性的な欲求を代弁し行動を起こすように促す。そんな時に若夫婦の夫が所要で家を空けている夜に帰ってくると、若妻は縛られて横たわって助けを求めていた…。
 まあ、これも仕方のない物語である。昔の家なので防音が行き届いていない。少しでも暮らしの足しになるように間借り人を置いたのだろうが、これでは大変に危険である。
 若妻とは秘密を共有することになるけれど、考えてみると、この若妻が本当に無事だったのかは疑問だ。それは普通であれば大変に不幸な話なのだが、しかしこの若妻はその若さを持て余している感じもする。そういうところが男として怖いというのが、二次的な面白さかもしれない。まあ、欲望は考えすぎにあるわけで、困った話である。
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オリンピックの犠牲者とは

2016-04-08 | 時事

 バドミントン選手の賭博問題は、本人が所属する会社の調査で賭博を認めたことから、基本的には賭博罪になるということで、オリンピック出場を辞退することになったわけだ。犯罪者はオリンピック出場に不適切という判断だろう。それは犯罪に対する刑法以外の社会的な制裁という問題である。
 もっともこれはちょっと流れが逆のようなところがあって、もともとは彼らが出入りしていたとされる賭博の店が摘発され、その際に現行犯逮捕された人たちがいて、他にも出入りしていたとされる人の名前も流出したものと思われる。現行犯以外は、警察は原則的には追跡して取り締まらないようだが、つまりその中に有名人がいた場合(要するに今回)このような問題に発展してしまったのだろう。そこで容疑を認めているのだから、改めて事情聴取し取り締まる方針に転換したということになりそうだ。きわめて運が悪いというか、さらにこれはオリンピック前だから注目を集めすぎたために、結果的に罪に問われることになりそうだという逆転が生まれた訳だ。
 野球賭博問題などと絡めて論じられることもあるようだが、本質的には別問題の方が多いようにも思う。大衆のカマトト性としては同根ではあるが。大衆の妬みというのは、まったく人間の醜い心情のあらわれる残酷なものだ。
 また、若い選手としては収入が多すぎるためにこのような問題があるのではないか、という話も聞いた。バドミントンは野球やサッカーなどのようなメジャースポーツではないが、一流であるこの選手は、賞金だけで二千数百万の収入があったという。
 確かに金を持っているのだから、その分お金を使ったところでかまわないだろうが、ギャンブル問題とは根本的に別だろう。スポーツという勝負の世界とギャンブルとの相関性はあると思われるが、それこそが野球賭博問題が起こった八百長問題の根本問題である。そこは本来分けた方がよさそうに思う。
 基本的には所属する(スポンサー)企業がダメだと判断したからダメになったということもいえる。社会問題になった(必ずそうなる)のだからダメだというのはあるが、企業というのは顧客の目があるのだから、そのような判断から逃げざるを得なかったということだろう。選手を支援していたのは、支援し応援することで、選手のためになるということよりも、企業として名前が売れたりイメージが良くなったりなどのメリットがあってのものだ。このような有名になり方をされては困るので、早く火を消した方がいいという判断だろう。
 オリンピックのメダルの有力候補として残念というのが大きなニュース性だが、ここでそうまでしてメダル至上主義に陥ることの反省をいう人と、やはりこのようなことが起こらない選手の倫理問題や管理について言及が及ぶことにもなるだろう。しかし巷間では、まったくけしからんと息をまく人と、これくらいで厳しいという感覚の人々と二分しそうだ。違法賭博というのが暴力団だから悪いのか問題もあるし、公営ギャンブルという国家や行政の権力のために民間人が犠牲になるという問題もある。先の選手はスポーツ選手としてふさわしくないとして、マカオでギャンブルした時も、まったく合法であったにもかかわらず注意を受けていたという。それは彼の常習性を匂わせるエピソードであるとともに、それが本当に倫理問題なのかということも考えさせられるわけだ。
 結果的にこのような問題は、暗に出る釘は打たれる、ということを表しているように見えることが残念なのかもしれない。オリンピックで活躍できるような逸材で、まさに努力の頂点にいるような人が、その活路の場を失うことになる。人間は努力をしても結局は報われないこともある。それは当たり前のことではあるにせよ、この日本社会が、さまざまな前提はあるにせよ、そのような閉塞的なものである可能性は非常に高い。残念なのは本人もだけれど、そこに住んでいる我々であろう。
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荷物の靴が苦痛

2016-04-08 | 掲示板

 主催者側の配慮なのかどうか分からないが、全国的な団体の集まりや研修会などは、あんがい週末が多いように思う。せっかく飛行機や新幹線に乗ってやってきたので、そのまま帰るのはなんとなくもったいない。忙しくてとんぼ返りするようなカッコいい人でもないので、せめてだらだらしたいのは人情である。電話があるので心の平安が保たれているとは言えないにせよ、せめて出張先近辺くらい探索してもいいんじゃないでしょうか(対自分)。
 ところがこういう時に案外困るのは靴なんである。仕事で来てるのでスーツ姿だ。当然革靴を履いている。別にファッショに気を付けている訳ではないが、そういうものという無難な精神がこのような組み合わせにさせているのかもしれない。でも集まりは終わったんだから、この靴が困るのだ。ネクタイはスルスル外せても、靴を脱いで裸足になって歩く気にはなれない。
 だから別に靴を持ってくるという人を何人も知っている。合理的な人々だ。しかしそれだと荷物が増える。飛行機だと手荷物サイズがかなりきつい感じになる。さらにそういう人は、靴だけでなくあんがい服もおしゃれな人が多くて、結構どっかり荷物をガラガラ持って移動したりしている。偉いなあ、と素直に思う。これが出来れば問題ないが、これが出来ないから(殻に閉じこもった自分発見だ)靴を持ってこなかったのだろう。夏ならサンダルでも買おうかと時々思うが、それはそれでやはりめんどくさいとも思う。捨てられるくらいのちょうどいいサンダルを買い物する行為自体が、それなりに億劫なのだ。
 いくらスーツ姿でも、いつも運動靴であるという人もいる。理由がそのためかどうかはよく知らないが、それでいいと割り切っているらしい。これもそれなりにえらいが、何か自分にいいわけが必要な感じもする。革靴を履かないポリシーのような。恐らく荷物の問題以前に、持っていなければならないような心構えや生活態度が必要になりそうな気がする。気がするだけでそんなものはいらないのかもしれないが、しかしそういう儀式を経て立ち位置を決めないことには、到達できない領域を感じる。尊敬に値するのにできない自分が、それなりに小さくて嫌な感じである。
 ということで、ラフでも革靴でいいのである。特に草むらを走り回ったりサバイバルするわけでもなかろう。ぶらぶらするのに靴に遠慮はいらない。荷物も軽くていいじゃないか。せめてもの言い訳はその程度のことに過ぎない。宅急便で送る手もあったな。それはまた今度考えよう。
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追っている人間も逃げている   カチアートを追跡して

2016-04-07 | 読書

カチアートを追跡して/ティム・オブライエン著(新潮文庫)

 有名なベトナム戦争を題材にしたという小説。戦場からパリを目指して逃げた兵隊を追って、同じくパリまで移動する兵隊たちの物語である。時間軸は行ったり来たりして落ち着かないし、会話も終始ふざけたもので、それはある意味でリアリティかもしれないが、そもそもが荒唐無稽で、さらにやはり幻想的な小説である。出張の移動で持っていき、時間があるから読んだのだけれど、それ以外の事情なら、恐らく放り出してしまうようなものだったかもしれない。いろいろなエピソードが連なっていて、中には面白いものもあったのだけれど、おおむね退屈でつまらないものだった。要するに時間つぶしである。それでも根が貧乏性なんで、サンクコストも鑑みず読んだということになるのかもしれない。有名なアメリカ文学書のひとつをこうして読破したなんてのは、ささやかな自己満足に過ぎないけれど。
 ところで戦争のやりきれなさというのは、恐らく幻想的な展開になってから、じわじわと伝わってくるようなところはあった。精神的な逃避から生まれた変な世界なのだが、いちおう恋愛があり、爆発的な暴力がある。人も死ぬが、悲しいより、何というかちょっと滑稽だ。それはやりきれなさかもしれないし、あまりにも日常だし、それは選ばれなかった自分への安堵かもしれない。
 いろいろと考えさせるような手段ということは言えるかもしれない。戦争は酷いことです。ベトナムなんてやりきれないです。そんなことを口を酸っぱくいったとしても、それは事実であるだけであって、なかなか戦場までいけない人間にまでは伝わるものではない。それはそれでいいのだけれど、そこに行ったことのあるオブライエンのような作家にとってみると、何ともそれでは済まない事情があるのかもしれない。結局長く綴ってしまうことになるが、それでも自分の魂の救済になったのだろうか。
 こんな無理がいつまでも続かないことは誰の目にもわかり切っている。そうであるはずだけれど、面と向かって逃げるわけにもいかないし、ことはやっぱりそう簡単にすっぱりは終わってくれない。そういうことがコメディとして理解するには、このような方法が最適だったのかもしれない。結果的には歴史に残る小説となったのだろう。もちろん読み継がれていかなければならないのではあるけれど。
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懐かしくてもアルデンテがいい

2016-04-06 | 

 別に気取って言ってるわけではないが、スパゲティはやはりアルデンテが美味しいと思う。でもそんなことを知ったのは少年から青年に代わるくらいの頃のことだったんじゃなかろうか。
 子供の頃には母も作ってくれてはいたが、デパートとか町の食堂のような洋食店のようなところで、スパゲティを食べた。いわゆるナポリタンとかミートソースで、そうして今思うとアルデンテじゃなかった。当然と言えば当然で、そんなことをやってくれる店というのは、僕が子供の頃ではあるはずが無かった。まだ喫茶店に入るような年頃ではなかったが、喫茶店でも無かったのではないか。知らないけど。
 しかしながら誰かのエッセイか何かだったと思うが、アルデンテというのは中学生か高校生の頃には言葉としては知っていたのではなかろうか。既に喫茶店にも時々顔を出すようなことをするようになって、行動範囲も広くなって、そうして実は忘れてしまったが、アルデンテらしき硬いスパゲティ(おそらくペペロンチーノ)を食べた。その時はピンと来なくて、しかし店のマスターだったか、そういう茹で方をしたという説明をしてくれたように思う。説明を聞いてから後になって、おお、なかなか旨いな、と遅まきながら思った。説明が無ければ、ただの固めのスパゲティと思ったかもしれない。
 一度食べてみると、恐らく流行り出したということだろうか。ぼつぼつ固いスパゲティを出してくれるような店というのが出現するようになった。十代の終わりごろになると、驚くようにスパゲティが旨い店というのが、本当にボツボツ出現した。僕は学校に黙ってアルバイトをしていて、同級生の連中より少しばかり小遣いが多かった。そうしてバイクで一人でぶらぶらして、硬いスパゲティを出すような店に入ったりしていた(ほとんどはラーメン屋の類が多かったのだけど、時折そういう店に入ってみたかったようだ)。数は多くは無いが、段々と硬いスパゲティが増えていく実感があった。そういうものを求める自分が、大人のような気分もあったかもしれない。
 昔ながらの太くて伸びたようなスパゲティが旨いという話は、特に最近はよく聞くようになった。長崎にはトルコライスという素晴らしい食いしん坊のための食事があるが、これのナポリタンはたいてい柔らかかった。それが不味いという訳ではないのだけれど、確かに好んでよく食べていたけれど、それでも僕はアルデンテがいいな、と内心思っている。懐かしいのと美味しいのは厳密には違う問題である。
 別に洒落ているような店でなくていいから、タイミングよく茹であがったスパゲティを食べたい。上手な人が茹でたアルデンテは、時々本当に感動するくらい美味しい。昔でなくて良かったな、と思う食べ物の一つである。
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BUNGO~ささやかな欲望~【告白する紳士たち編】

2016-04-05 | 時事
BUNGO~ささやかな欲望~【告白する紳士たち編】

 「鮨」関根光才監督、「握った手」山下敦弘監督、「幸福の彼方」谷口正晃監督、の三篇。オムニバス映画。
 「鮨」では、寿司屋の常連の先生と呼ばれている男が、実は子供の頃には何も食べられず、母が握ってくれた鮨によって徐々に食べることが出来るようになった過去を語る。この話を聞いているのは、通っている寿司屋の看板娘で、要するに娘目当てに寿司屋に通っている訳ではないという理由を話している訳で、娘はなんとなく先生に恋心を抱いているようだが、そのことを指して、先生は断りを入れているという構図になるのかもしれない。だから娘は悲しい訳だ。
 問題は、やはりこの先生という男の話は事実らしいということもある。事実を話すんだから問題が無い話になると、ややこしいが話が成り立たない。鮨を食わねばならぬ事情がある偏屈な男は、年齢の若すぎる女とは付き合う訳にはいかない別の事情があるのかもしれない。それを汲めるくらいの感性がお互いにあるから成り立つ話で、昭和の初めくらいの人なら、それくらいのことは分かったというお話なのかもしれない。

 「握った手」では、映画館で隣の女の手を思わず握ってしまう男の話。結局それから男はフラれるが、そのことを大学の同級である女に話す。そうして同じように手を握ったらどうなるのか、というお話。なんとなく男は横柄で、相談された女学生が迷惑そうである。フラれたことは悲しいことだが、その理由をよく知りたいという欲求と、しかし女学生にも惹かれているという変な男である。眼鏡をかけていても女学生は魅力的だが、眼鏡を外せというのは、現代人の僕から見るとたいした偏見である。この話が一番わかりにくかったかもしれない。

 「幸せの彼方」では、戦争で片目を失った男と見合いして一緒になる女の話。女役には朝ドラで人気が出ている波留が演じて美しい。片目の男は、実は前妻に逃げられた上に、人に預けた子供がいる。見合いの時に話すつもりだったが、女のことを好きになり言い出せなかった。ところが女にも過去があり、同じように預けられて育った。そうして親が迎えに来るのをずっと待っていたのだった。
 女を失うのが怖くて不機嫌に過去を語る男に対して、最初から何か屈託なく可愛らしいながらも、過去に悲しい思いを抱いている女のコントラストが良い感じである。
 僕は見合い結婚では無かったが、このように過去がお互いにある見合いという夫婦生活も、なかなかスリリングで良いのではないかと思った。もちろん恋愛でも過去のことをすべてわかり合えているとは言い難いのだけれど…。
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赤ちゃんが乗っている車

2016-04-04 | net & 社会

 「赤ちゃんが乗っています」ステッカーというのを見かける。たいてい黄色に黒抜きが多いようだが、後ろの車に注意喚起しているところを見ると、最初は追突注意の類かな、と思った。子供が乗っている車のドライバーは、車の外の事情以外にも気を配る必要がある。要するに急ブレーキするかもしれませんよ、という意味では? 少し危険な運転をするかもしれない、ということを、事前に知らせたいということか。自分は安全運転をするつもりなので、お急ぎの人はお先にどうぞ、という解釈もできるかもしれない。子供が生まれて嬉しいんです、という意味もあるかもな。まさか子供の移動の特殊業務であるとのお知らせか。幼稚園などの送迎バスにも、幼児が乗っている注意喚起ステッカーがある。まあ、基本的にはそれの派生形の個人版なのだろう。
 事故の際の救助レスキューに、子供の乗っていることを知らせるためだとする話もあるが、どうもこれは都市伝説らしい。最初からずいぶん怪しいとは思っていたが、まったくいやらしい話である。
 しかしながらそのような都市伝説が出来た理由というのもなんとなくわかる気もする。要するにこのステッカーを見た人の印象として、ずいぶんマイナスなものが多いようだということだ。他人の子供のためになんでわざわざ自分たちの運転の指図をされなければならないのか、要するに、そういうことを多くの人は感じるわけだ。知ったことか、と激しい嫌悪を覚える人も少なくない。ステッカーを張っている人の認識とは裏腹に、大変に安全運転の妨げになっている可能性が高い。もちろん精神的にということだが…。そういう反感の気持ちをそらして、さらに正当化するために、レスキューのための表示というとぼけた話を捏造するような人間が出てくるのだろう。
 実際に貼っている人の気持ちを聞いたことは無いが、これがいいと感じていることは間違いなかろう。特に他人に指図をするような人間であるとも思えないが、お知らせしておいた方がいいかもしれない、くらいは考えたかもしれない。
 車以外にもステッカーはたくさんある。トラック野郎なんかは、まだいまだにたまに見るが、まさに注意喚起やら洒落やら、盛りだくさんだ。要するに、その入口の人に共感があるのかもしれない。貼っている人には共感があるのだから、見せている人についても共感が欲しい。たぶん、そんなところだろう。しかしこの指図のされ方が、反感に繋がっているにしても。
 ちなみにBaby in car. だと車に赤ちゃんが(機能として)装備されているような印象がある。正式には Baby on board. と表示すべきらしい。もっとも、Baby in car.の方が、日本人にはよく分かる。要するに日本語的だし、日本国内においては、適切である可能性はある。英語圏の人に向けては恥ずかしくても、乗っている人が馬鹿にされる分には、何の問題も無い。日本人の英語下手というのは国際的には認知されていることだから、国内向けの注意喚起としては、大変に優れた馬鹿さ加減なのではなかろうか。
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彼らの恋は成就したのだろうか  エスパー魔美

2016-04-03 | 読書

エスパー魔美/藤子・F・不二雄著(小学館コロコロ文庫)

 少年漫画だし作者の藤子不二雄の芸風から考えると大変に意外なことだが、女の子の裸ばかりが描かれている漫画である。そのためなのかは知らないが、それなりに根強い人気があるのではなかろうか。もっとも裸やパンツの露出が多いのは、魔美ちゃんが画家であるお父さんのモデルをしている為であり、エスパーで空を飛んだりできるが、普段着がスカート姿であるためである。中学生という設定なので、本人は無邪気だし、さらに恥ずかしがっている風ではない。聞くところによると、父親目線の娘の裸であるから、エロ目的の裸ではないということらしい。そういう事情を読者が汲んで漫画を読むものなのかは疑問だが、しかしながらドキドキして読んだ少年は多かったと聞く。まあ、そういう話を聞いたので、改めて読んでみようというところはあったかもしれない。
 基本的にギャグ漫画で、短編の読み切り作品である。これだけの数の作品を、さらにそれなりの完成度でもって描ききる力量は、さすが漫画の大家であるな、と感心する。ストーリーの構成も見事だし、しょうも無いギャグはあるにせよ、笑わせるところもそつがない。魔女の血筋である背景と、その能力を基本的には人助けに使う純粋さ、そしてテレポーテーションを行う仕掛けなどにそれなりに納得のいく筋立てになっている。また、その能力を磨くにあたってのパートナーである高畑君との恋の駆け引きもあったりする。
 おおむね首肯できる内容なのだが、作者が少年漫画である自主規制が働いたのか、金の問題や倫理観などに、何かおかしな健全さが多く見受けられた。人によってはガンまで直してしまうが、それならほかの人だって困っている人はいるだろう。普通なら医者の代わりになるべき能力である。さらに金に困った人に大金を授けるようなことをするが、そのおせっかいはちょっとどころか大変に行き過ぎている。他人に慈悲を授ける前に、自分の周りをどのように救済すべきか、少しくらいは悩んだ方がいいのではないか。
 そういうところは確かに物足りないので、途中で何度か放り出そうかとは考えた。僕は実につまらない大人になったものだな、と思う。むしろ最初に自分がエスパーではないかと勘違いする高畑君との関係と、まだまだエスパーとして不完全でミスを犯す頃の話の緊張感が面白かっただけに、後半はやや力が分散して失速してしまったのかもしれない。こんなことなら素直に子供時代にちゃんと目を通しておくべきであった。
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キジも鳴かずば

2016-04-02 | 散歩

 散歩中に、ごくたまにだが、寄ってくる猫がいる。何もやるものが無いから仕方がないが、ちょっとドキッとするかもしれない。猫の方も、何かドキッとしたが、いちおう寄ってみて、様子を見るという心づもりでもあるんだろうか。犬を連れた散歩ではもちろんあり得なくて、出会いがしらというか、携帯でちょっとメールをチェックするような時に、いつの間にか寄ってきているという感じかもしれない。僕にたいして親愛の念があるとは考えづらいので、単によっぽど機嫌がよかったか、よっぽど腹でも減っていたのかな、と思ったりする。
 最近の飼い猫は近所の迷惑もあろうから、普通に家の中でばかり飼われている場合が多いとは思うが、田舎の猫は放し飼いが多いようだ。それだけ寛容というのもあろうし、テリトリーの関係もあるから、猫の精神衛生上の配慮もあるかもしれない。もっともテリトリーが広い方が、周りの猫を警戒する必要が多くなり、それなりにストレスを抱えてしまうものらしい。狭くても居心地のいい環境があれば、猫の精神衛生は良好ということかもしれない。
 僕のような人間に寄ってくる猫は、間違いなく飼い猫と考えてよさそうだ。特に鳴き声を上げているようなら、100%人に飼われている経験があることは間違いが無い。猫は野生に近い生き物だが、野良猫は基本的に鳴き声を上げない(喧嘩は別だが)。猫が鳴き声を上げるのはヒトに対してだけのサインらしく、人となれて生活するうえで獲得したコミュニケーション術であるといわれている。確かに危険が多いので、自分の存在を知らしめる音を立てるのは問題がある。野生の世界は厳しいということかもしれない。
 キジも鳴かずば撃たれまい、ということわざがある。意味としては人間社会の事を指しているのだろうけれど、昔の人が狩りをしてそう思ったことが、由来であるのだろう。大人しくしている方が賢いというのは、何か、やはり巨大な脅威が、人間社会にも多いということかもしれない。
 もっとも今は自己主張の時代らしい。何か言わなければ無かったことにされかねない。世の中がうるさいのは、その分平和ということなんだろうか。
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ヒーローは大人にこそ必要だ   イン・ザ・ヒーロー

2016-04-01 | 映画

イン・ザ・ヒーロー/武正晴監督

 子供の頃から戦隊ヒーローもののテレビ番組に馴染んだ世代のはしりなので、このような背景には大人になって自覚的にはなっていたように思う。さらにブルース・リーなどのアクション物への激しい憧れがあったからこそ、映画を日常的に見るようになった可能性もある。しかしその思いを続けながら現代まで頑張っている同世代(映画的にはちょっと上だけれど)の人たちの姿というのは、そうして映画人的な内輪の世界というのは、ちょっとやはり異質なものがあったかもしれない。
 物語はそのような境遇のいわゆる仮面ヒーローの中身のアクション・スタントマン達の悲哀の日々の中に、若くて二枚目で、多少のアクションはもちろんできる将来性のある俳優が紛れ込んできたことの軋轢から展開していく。非常に自信家でかつ横着で、そうして人気の高い役者には、しかしそれなりに屈折した事情がある。そういうあたりもサクセスの土台になっており、単純な努力ものではないところも、いい脚本になっている。
 しかし、何と言っても王道的なストーリーは、この夢を追いながら表舞台に絶対に立てないような人間たちにこそある。既に過去に様々な傷を受け、家族さえ失いかけている人間が、自分のエゴだけでない事情に追い込まれて、それでもアクションに命を懸けて挑むことになる。そうした思いが複雑にこめられながら、クライマックスの大活劇が、これでもか、というくらいに繰り広げられることになる。これをお見事といわずして何を言う、という感じのカタルシスのある感動巨編である。いや、コメディとしても面白いけど。
 映画がどのようにして作られているのか。また、それでも映画は興業として成り立たなければならない産業でもある。仕事としての映画づくり。しかしその中でそれぞれの事情は複雑だ。単純に少年のような憧れだけを持続させ続けることは、実は大変に困難なことだったのだ。誰もが夢を持ってそれを追い続けることは、言葉の上では素晴らしいことには違いない。しかしその単純さこそ、人間社会の営みとしては、大変に残酷な要素を含んでいる。そういうことにも素直に目を向けながら、自分のやりたいこととしては諦められない馬鹿野郎がいる。自分は馬鹿野郎だが、その馬鹿こそ価値があると信じている。しかし、その馬鹿さ加減に気づいた人間に対しては、素直に思いを続けるように説得することはまた、出来ないことなのだ。いや、言葉としては出来ないが、行動としては示すことが出来る。それがこの映画の最大の答えで、夢という言葉の陳腐さを、見事に破壊する素晴らしさである。
 もちろん娯楽としてお楽しい映画だ。チープさの中にも迫力も満点だ。もちろん大人が観て素晴らしいので見逃さないように。
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