カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

大衆は本当に馬鹿なのか問題

2016-02-14 | HORROR

 米国の大統領選挙の話題は、テレビだと連日それなりににぎやかに報道されるようになった。前からそうだったという人もいるけど、日本でもこういう流れが手に取るように分かるようになったのは、やはり近年のことだと思う。僕は子供の頃にはこの流れを知りたかった方だが(今はそれほど関心が無い。変なものである)、なかなか当時は難しかった。結局結果だけで、日本にとってどうだという見方が後からなされるくらいのものだったのではないか。以前に比べたらこの分かりにくい仕組み自体がずいぶん認知されるようになって、報道されやすくなって、そうして結構面白いということが分かるようになって、このような姿になったのだと思う。
 娯楽としてはそれでいいのだが、ずいぶん前から予想や解説されていることではあったのだが、今年の展開というのはいつにも増して、なんだかずいぶん極端な感じがしないではない。それというのもトランプやサンダースのような候補者が、それなりに支持を集めたまま、そうしていずれは消えると目されているとはいえ、なかなかどうしてその勢いは強いという感覚がある。こんな両極端な二人が(というか基本的にトランプのほうだろうけど)、常識的には大統領になるはずが無いという思いが日本人の、特にジャーナリストにはあるのだと思うが、米国の大衆にとっては、このような人たちがそれなりに支持を集めるような時代にあるのだということは間違いないのではないか。特にトランプのような人は、単にバカみたいな人という感じしかしないけれど、これがタレントではなく、大統領候補なのである。お金持ちだから候補者になれるというのも凄いけれど、実際に支持を集めるのはやはり何とも滑稽だ。
 以前から報道陣の多くは左側に加担しがちなところがあるのだけれど、サンダースにしたって、普通のアメリカ社会ではちょっとあり得ない人でもある。要するに社会主義者であることを公言しているユダヤ人である。人種差別で言っている訳では無くて、抵抗のある人がそれなりに多いだろうということだ。結局ヒラリーにはメール問題があったり、思ったより強硬なところがあるというのもあるし、以前のように女性初という価値がそれほど大きな意味を持たなくなったために、相対的に頭角を現したということになるのかもしれない。
 トランプについても同じようなもので、他の共和党候補が、思ったよりパッとしないという印象があるのではなかろうか。それならば9歳でも分かるようなことしか言わないとされる人の方が面白いに決まっている。最終的には厳密な人気投票ではない大統領選に戻るだろうとはいえ、これが今の米国世論を表していることには違いは無かろう。
 日本人としてはよその国のことだし投票することもかなわない問題だけれど、結局は日本のボスの上司のような人が決められるわけだ。そういうところが子供の頃にも興味があったことだった訳だが、実際には相対的に米国の影響は小さくなっているとも考えられる。米国が重要だったのは当たり前だったのだが、重要だと強調されなければならなくなった現在は、やはり少し日本との関係が変わってしまったことの証左であろう。まあ、そうではあるが、事実上の植民地住民としたら、米国世論の健全化を願うばかりである。
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転落が激しくて立ち直れない   鑑定士と顔のない依頼人

2016-02-13 | 映画

鑑定士と顔のない依頼人/ジョゼッペ・トルナトーレ監督

 多少偏屈だが天才的な鑑定の知識を持つ男に、姿を見せない女から、両親からの遺産の鑑定の依頼が舞い込む。女は強度の対人恐怖を持つ精神障害があるようなのだが、美術品の鑑定のために屋敷に通ううちに、男はその姿を見せない女にどうしようもなく惹かれていく。そうしてある日、帰ったかに見せかけて物陰に隠れて女の姿を盗み見ることに成功する。あらわれた女は、実に美しい魅惑的な容姿をしていたのだった。男はひそかにコレクションしている女の肖像画の実在として、この強度の対人恐怖を持つ女にどうしようもなく恋に落ちていくのだった。
 隠れて女の姿を見る場面など、なかなかドキドキしてしまう。もともと異常な設定の女なのだが、遺産としての持ち物にも興味があり、二重のサスペンスを楽しめる。最後のどんでん返しも驚きだが、しかしながらそういう伏線が幾重も張り巡らされていたことにも、結構驚くのではないか。後味はかなり悪いものだが、サスペンスとしてはそれなりに成功している。しかしながら、ちょっとかわいそうすぎて立ち直れない気分になってしまった。
 こういう物語を見ていると、やはり恋愛ということそれ自体が、大変に恐ろしい要素をたくさん含んでいることが改めてよく分かる。普通の恋愛でもこのような恐怖感というのはたぶんあって、自分勝手な感情であるにせよ、その恐怖に打ちのめされるような経験を数多く積んでいるように思える。そういうことに何故か疎いままそれなりに年を重ねてしまった、壮年というか老人になってしまった男が、そのような残酷な恋愛の罠にまんまと陥ってしまう。それは人生の絶頂を遅ればせながら味わうとともに、一気にジェットコースターが転落するような激しい経験に違いないのだ。ああ、と思っても、もう誰も止めることが出来ないし、その傷をいやすことはかなわない。観ている人間も同じように打ちのめされて立ち直れない。そういう気分にさせられる、まったくやりきれない上手なサスペンス物語なのであった。
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味の分かる人間は偉いか

2016-02-12 | net & 社会

 ブログやSNSの世界では、やっぱり食べ歩きのものが相当数あると思う。他人の日常で何を食ったかというのは興味が無い、という話もあるが、自分が何を食ったか、というのは他人に教えたいというのがある、と揶揄されたりする。でもまあ他人が何食ったか話題はまったく興味をそそらない話題ではやはり無いようで、需要自体がそれなりにあるように思う。その中でも特に人気が根強いのが他ならぬB級グルメの類で、店をルポする楽しさもあるが、その人が何を食っている(何を考えている)が、なんとなく分かるところが、発信にも受信にも伝わりやすいコミュニケーションになっているのではないか。面白い人が旨そうな店に入ると、なんとなく行ってみたくもなったりする。自分は過去にあんまり感心しなかった店であっても、ちょっと見方を変えて感心したりすることだってあるようだ。
 そうではあるんだが、時々荒れるのも確かである。さらに限定していうと、どういう訳だかラーメン話題は、それなりに荒れる傾向が強い感じもする。特に特定の店で「うまい」ということを書いただけで、コメントなどに「あの店は最悪」などと出たりすることが見受けられる。人の味覚の多様性の話なんだが、ことはそうは簡単ではない。これに怒りが混ざって突風が吹くわけだ。だいたい不毛なんだが、どうしてこんなに旨い不味いで揉めなければならないのか。ラーメンに対するグルメ熱というか、分かる分からない感覚議論というのは、その人の持つアイディンティティの一つなんだろうか。
 しかしながらラーメン熱におかされる人というのは一定以上いて、そうしてそれがそれなりに熱心に続いてしまうことはままある。他ならぬ僕も一時期は熱中した。博多や熊本なんかには、ラーメンツアーに行ったこともあったようだ。一度にたくさん食うので単なる苦行のようなことになってしまうのが残念だけれど、バカをやること自体はそれなりに楽しかった。
 バカをやって自分なりに思うことは、身も蓋もないが、単にラーメンにはいろいろあるね~、ということに過ぎなかったわけで、好みの味があるだけのことで、だから何が上位にあるラーメンというのは単純には言えないことだと、いうことに尽きる。尽きるけれどどこが一番すごいということを安易に言いたい欲求も確かにある。あとは自制するか形態化するか、乱暴に発言するかということになるだけだろう。
 僕が感心しないラーメンにも熱心なファンがいる。そうしてそれは敬意を持ってもいいはずである。しかしそれは簡単に忘れられる。さらに自分(食べに行っているだけだから他人のふんどしだけど)の渾身のお勧めについて、理解してほしい、またはそれを味わっていることに評価が欲しいという感覚こそが、書く側の人間にはなんとなくあって、その情熱の行き場のようなものが、妙な気流を発生させて、点火して炎上したりするのである。実は自分の人間的な評価そのものにさえ感じられて、頭に血がのぼってしまうのではないか。実際に味が分かる人間であるとか分からない人間であったところで、個人の人格の上では何の関係も無い話である。関係がある方がどうかしているのである。
 美味しいラーメンは確かに食べたいが、今はそのために自分の体調をまずどうするかという感じになってしまった。自分の状態が良ければ、たいていのものは美味しい。年を取るというのは、そういうことに素直になれていいことなのかもしれません。
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ここまで馬鹿だと気分がいい   ゴットタン キス我慢選手権THE MOVIE

2016-02-11 | 映画

ゴットタン キス我慢選手権THE MOVIE/佐久間宣行監督

 原作というか、深夜バラエティ番組のコンテンツの映画化らしい。元のものは未見だが、映画というかドキュメンタリーというか一発芸というかなんというか、もの凄くくだらない内容なんだけれど爆笑できるうえ、なんと、これは凄い映画でないかと感動もしてしまう。いや、驚きましたです。
 もともと劇団ひとりの芸風というのは好きではない。というか、よくも知らないが。知らないながら考えてみると、藤井隆とか友近だとかも嫌なので、そういう一人でキレたり暴走したりするのが、なんとなく性に合わないところがあるのだろうと思う。ところが…、実際にこの映画(というか企画)では、24時間キスの誘惑に耐えながら、なんか悪の集団と戦い抜くという、一応のストーリーが展開されるのである。劇団ひとりはその俳優たちの演技に交じって、まったくアドリブでこの状況に対応していくという芸を展開するのである。にわかには信じがたい話だし、実はひょっとするとある程度のスジの展開は打ち合わせてあるのではないかという疑いも持ってしまうが、しかし、劇団ひとりは、そのくさい科白を的確に言ってしまう才能があるらしくて、そこがすなわち笑える訳だ。何という適応力かと驚くとともに、しかしそういうことを臆面もなくしてしまって酔っている自我というのも透けて見えるわけで、そこが恥ずかしいがものすごく可笑しい。そうして本当に、恐らく事実として、24時間のドキュメンタリー展開で、一本の映画を仕上げてしまっているようなのである。ものすごくバカバカしいとは思うのだけれど、同時に恐らくこの映画を作っている当人たちでさえも、そのもの凄さに酔って、馬鹿笑いしてしまったのではなかろうか。まあ、出演している俳優さんたちは、それなりに大変だろうけど…。
 アドリブで演技をしている劇団ひとりは、恐らく自分の演技にも酔って、さらに誘惑している女優(AVとかグラビアの人たちらしい)さんたちから本当に好かれているのではないかという気分になっている感じがする。そういう感じがこの映画の芯を支えているのだが、同時に見ているものも、その感じが伝わってくることで、何か心の底から吹っ切れた笑い方ができるような気がする。人間の真の感情の解放である。まあ、そういうバカらしさというのは、いろいろ考えすぎて偏見に凝り固まってしまった精神には、きっと効力があるのではないかとも思うのだが、無いかもしれません。これは、僕自身が恥ずかしいので勧めたくはないが、文句なしお勧めです。
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昔から恐るべき人

2016-02-10 | 音楽

 先日中島みゆきの特集をやっているテレビを見た。多くの人が中島みゆきの楽曲を歌っていた。もちろん僕も中島みゆきのことは知っている。歌われていた歌もけっこう知っていた。要するにそれだけたくさん売れる曲を書けたということであり、売れる歌を作れるというのはすなわち天才なんだろうと思われる(売れない歌なら、プロでなくても無数に作られることは可能だからだ)。それは誰もが認めることで、さらに中島みゆきを自分で歌いたい人が相当数いるのだということを改めて知った。そうして他人に楽曲を提供しているからというだけでなく、今は特に中島みゆきの歌をカバーして歌うという行為自体が、大変に歌手の間で競われるように行われていることも知った。そういえば、あんまりテレビを熱心に見ない僕のような人間であっても、例えば「糸」という曲などは、複数の人が歌うのを見た覚えがある。この曲などは特に巷間でヒットした歌という印象が無かったけれど、確かに歌自慢の歌手が歌うとそれなりに様になるいい曲である。
 中島みゆきは僕の子供の頃から歌っている息の長い人気歌手である。ところが僕の若いころにはなぜだかテレビに出ることは無くて、曲がヒットしているとはいえ、その動く姿を見ることは出来なかった。写真では美しい人のように見えたが、現在も美しい人には違いないが、若い頃には何か事情でもあったんだろうかといぶかったものだ。ところがラジオ番組では声を聴くことが出来て、もの凄くふざけた口調で変なことを言う人だということを知って、さらに驚いた。極端にアングラ的というか、マイナーな感じで一般的でない。しかしそこが逆説的に良くて、歌以外でも熱烈なファンがいたようだ。
 大人になって、女性でなくてある知り合いの男性から、どうしても中島みゆきを聞くべきだという話を聞いて、仕方なくだまされたと思ってCDを買ったことがある。さっそく通勤で聞いてみた訳だが、帰りの夜道でなんだか怖くなって聞き続けることが叶わなかった。歌声も怖いのだが歌詞が特に怖い。これを延々と聞き続けられるというのはある種の才能が必要ではないかと感じて、そのまま聞くことは無かった。
 しかしながらその時は僕も若かったのだろう。今聞くとそんなに怖いわけではない。内容のほとんどは僕には理解しかねるにせよ、感動する言葉づかいもけっこうある。また曲のアレンジというか、なかなか斬新なものもけっこうある。特に歌詞が注目される人だけれど、音楽に対する全般的な造詣の深さがうかがわれる。
 ドキュメンタリーでも紹介があったのだが、ステージでは、演劇ともつかぬミュージカルとも違う、独特の演出を施して何曲も歌うようなことをするらしい。これを見に来る客も、中毒のようにリピートするようになるらしい。そういう意味ではサービス精神も旺盛で、若いころにテレビに出なかった訳は知らないまでも、ある程度自分の世界を、自分の演出のもとに表現したいという考えのある人なのかもしれない。
 声量はあるが歌いまわしは独特のものがあって、やはり女性なのでかなりキーが高い。それでも工夫して男でも結構歌う人がいる。中性的ではないのだけれど、それでも結構様になる曲も多い。極端に複雑な楽曲が多いわけではないが、幅も広く、新しく書かれる曲は、やはり時代を映すような斬新さが確かにある。そうして、どういう訳かあまり古びることが無いのである。それだけシンプルで普遍的なところがあるということなのだろう。
 以前から大変に人気がありながら、また、その功績が積み重なって、今非常にウケる要素がそろっているということかもしれない。そういう人が他にいないとは言えないが、改めて日本を代表するような偉大さを享受できる状態にあるようである。時々だが、やっぱり僕には怖くなってしまうことがあるのだけれど、それはまだ僕にも若さが残っているということかもしれない。まさに恐るべき人なんであろう。
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僕には肯定できかねるが…   くちづけ

2016-02-09 | 映画

くちづけ/堤幸彦監督

 知的障害者が共同で暮らしているグループホームでの日常的な出来事を中心に、障害のある子を持った父親の苦悩を衝撃的に描いている。ネタバレになるが、まるで高瀬舟だ。
 原作があるのかどうかは知らないが、恐らく舞台芸をもとにしているのではないかと思われる。テレビで見るような役者もいるが、不明の人もいる。しかしそこが物語の大きな柱にもなっている。テンポ的に見やすくなっているけれど、いわゆる知的障害といわれる人たちや自閉症のエピソードとして、僕のような日常的に仕事で接している人間にとっては、「あるある」の共感はそれなりにあった。そういう意味では啓蒙的で、演技としても、見せるものという意味では、及第点という印象は持った。もちろんそういう社会面の啓蒙をも含んでいるものの、この背景無しにこの物語が成立しないということもあるのかもしれない。
 そうではあるが、やはりデフォルメした極端さも無いわけではない。グループホームを運営している家族の友人が遊びに来て、平然と利用している仲間たちを罵倒する場面があるのだけれど、そういうのは、実によっぽどのことのようにも感じる。要するにバカな偏見のある人間もいるということなんだろうけれど、むしろ現代では少数派に過ぎないのではないか。心無い人間は確かに残酷なのだが、彼女なりに不幸であることに気づいていないだけのことで、むしろ憐れむべきことのようにも感じる。そのままでは社会生活をまともに送ることが困難だろうからだ。家族が受ける精神的なつらさというのは実はそういう強力な敵の存在なのでは無くて、善良な中に隠された、無言の圧力の方だろう。そういうことも含めて描くというのはそれなりに困難が伴うことかもしれないが、ぜひ挑戦する人があらわれて欲しいものである。
 一番肝心なことかもしれないが、そういう展開は一応肯定してもいいとは思ったものの、最大の事件については、実は納得がいかなかった。それは単に病的なことであって、不幸な事件に発展してしまったかもしれないが、全体的な、何の解決にもならないことなのではなかろうか。むしろ全否定にもつながりかねない。まさに自分の中の偏見にあらがうことが出来ない関係者がいるという印象さえ受けてしまった。そういうことでは結局ダメなのである。
 それはたぶん、僕がこの問題に近すぎる所為ではあるのだろう。逃げられない葛藤があることは理解しているつもりだが、そのために肯定されるべき問題では無いという思いが強い。先に高瀬舟と書いたが、高瀬舟を肯定する自分と、この話を肯定できない自分は両立しえている。要するに似ているようで別の問題だということだ。それは現代の社会が、それとは既に完全に変貌を遂げているということであるからだ。そうでなければ、僕らの仕事とは一体何なのだろう。
 もっとも、映画を観る人がそれでも楽しんだというのなら、それでもいいだろう。僕には複雑な問題だけれど、それは僕らなりの別の問題意識かもしれない。そのような苦しみが家族のあるのだろうというのは、やはり事実には違いなくて、間違っていると僕は思うが、それを知らない人には意味があるかもしれない。そういう意味では、一般の感想をやはり聞いてみなくはならないのであろう。
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台頭するポピュリズム

2016-02-08 | culture

 ヨーロッパのポピュリズムの台頭を伝えるドキュメンタリーを観た。経済状態も良くないし、政治家のスキャンダルも絶えない。ISなどのテロの影響で移民も大量に流れ込んでくる。そうした中での国民の不満を受け、極端な思想を持つ極右や極左の政党の主張が、多くの大衆の支持を受けるようになっている。以前なら箸にも棒にもかからない極端な主張が、あたかもまっとうに聞こえる土壌が、そこに育っていると考えていいだろう。また、普通なら不満分子のガス抜き程度の支持しか集まらないものが、場合によっては政権与党といわれる勢力も脅かす流れも生まれている。要するに政治的にひっくり返りそうな勢いがあるわけだが、実際には最大の支持を受けながら与党に君臨する気などさらさらない様子だ。
 それというのも、実際に彼らは、国が行っている政策のすべてを、単に批判しているに過ぎないからだ。イタリアの極右政党の党首は元コメディアンで、その軽妙な語りですべてのことを批判し糾弾する。人々は熱狂して彼の言葉を聞く。支持はうなぎ登りでありながら、彼が政権与党を奪い政治の主導権を握ろうなどとはさらさら考えてはいない。何しろ非難し糾弾する主体があってこそで、自分らが具体的な政策を作る能力は最初から持っていない。反対すること以外に、彼らの存在意義は無いからなのだ。
 単にそういうことなら、やはりガス抜きに過ぎない訳だが、しかしその国の政策決定は、そのために何も決まらなくなってしまう。すべて反対多数の世論が形成される。まちではデモが繰り返され、政治は事実上停滞したまま動かない。大臣などの人事だけがすげ代わり、新たな人は単にまたやり玉に挙げられる新しいターゲットに過ぎない。国の政治が動かなければ、今ある様々な問題は解決する道すら失う。そのままの悪循環が募り、さらに国民は不満を膨らませていくという無限のループを見るようだ。そうして反対勢力はもっと勢いづいて毒を吐くわけだ。
 一種のこの世の終わりだが、まったく人間というのはどこまでも愚かになれるということなのかもしれない。おっと、これはしかしヨーロッパだけの話なのだろうか。例えば北の将軍がドンパチ始めると、恐らく日本には大勢の難民が押し寄せてくるだろう。また日本の財政危機は、ヨーロッパの小国とは比較にならない規模である。現在日本の置かれている状況で将来的に希望のあるものは、ほとんど皆無に等しい。今のところそのような危機を平和ボケのように感じていない人が多数だから何とかなっているが、現実を知る人が増えたらいったいどうなるのか。
 それでも隣の反応を見てから騒ぐのが日本人かもしれない。お互い目を合わせないで、生活していくよりありませんね。
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ある意味斬新なニューヨーク   ニューヨークで考え中

2016-02-07 | 読書

ニューヨークで考え中/近藤聡乃著(亜紀書房)

 エッセイ漫画。名前は「あきの」と読むようだ。題名の通りニューヨークに住むようになって4年から7年(文中から推測)くらいの間の出来事をエッセイ風に描いている。だいたい見開き2ページで一話になっていて、日常の断片をさらりと紹介している感じ。日本人として困る事、逆に日本の変だったこと、そしてその両方の話題が多い。旅にも出るし仕事もする。食事もするし洗濯もする。なるほどな、と思うことが一番多いが、ちょっと著者の変わっているところも散見される。だいたい穏やかな性格の人のようだけれど、なかなかどうして、それなりにこの街に住みついてしまえるくらい、ちょっとした鋭い、というか逆に緩い場合もあるが、まあ、何というか面白い感覚を持っている人のように思う。もちろんそういう人だからこのような漫画を描いても素晴らしいのだろうし、アニメや絵画なども書くようだが、そのようなアーティストとして生きていく力のある人なんだろう。そうしてたぶん、これからもずっとニューヨークで暮らしていかれるのでは無いだろうか。
 ニューヨークといっても地区によってずいぶん趣の違うようで、まさにアメリカの雑多な活力のようなものも感じられる。しかしながら緩やかに形作られている日本とは異質な世界がそこにはあって、個人としてはそれなりに苦労したり楽しんだりできるようだ。当たり前だが言葉にも苦労するし、しかし日本語にも変なところがあったりすることにも気づかされる。何かやりながら(例えば料理とか)話をすることは大変で、しかしリラックスするとそれなりにペラペラ話せたりもする。知っている単語でも感動しているときにすっと出てくる言葉としては、実感としてしっくりしなかったりする。まったくそうかもしれないな、ということが、面白おかしく紹介される。そして少しだけ考えさせられるということだろうか。
 人は、北朝鮮だとか限られた地域に生まれない限り、基本的にはどこで暮らそうと自由になったと考えられる。しかしながら人間というのは集団行動をするために都市を合理化してきたわけで、その大都会の代表的なところの一つがニューヨークだろう。著者のような芸術家のような人々にとっては、創作の糧にもなっているのかもしれない。そのような刺激があって、でもなんとなく緊張感の感じられない、まったく新しいニューヨークを見たような気がする。生きているうちに行くことがあるかは疑問だが、個人の数だけ都市の魅力というのは違うのかもしれないな、と思ったことだった。
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追悼なぞなぞの師匠フジモトマサル

2016-02-06 | 感涙記

 D・ボウイが死んだと思ってしばらくなんとなく落ち込んでいたが(でもまあ、アルバムは発売されているし、枯渇感ということではないが)、また、モーリス・ホワイトが死んだ。
 政治で世の中を変えるのではなく、音楽で世界を変えるのだ、と言っていた人だったが、まあ、それはそう信じていたんだろう。それなりに早いかもしれないが、ロック・スターとしては二人とも普通の年齢であるから当たり前のことではあるが、悲しいことには変わりはない。
 ところで、雑誌をパラパラ見ていると、フジモトマサルの追悼文というのが目に留まった。ええええええええええええええええええ、である。
 昨年の11月に亡くなっておられたらしい。年も近いし、糸井重里のホームページでなぞなぞをやっている頃に、僕は熱心な読者だった。一回答者だっただけのとこだが、メールを送って返事がきたりもした。主著はほぼ目を通しているし、買っているし、ファンと言ってもいいのではなかろうか。近年の活躍も知らない訳ではないから、(特徴のある絵柄だし)まったくのノーマークだった。病気しておられたのか!
 でもまあ、それより、メジャー社会でも普通に目にすることが増えていた印象があった。
 そういうことを受けて、僕としても普通に、なぞなぞ師匠がなぞなぞを辞めておられることに不満があったにせよ、何より、フェイスブックではあるが、いまだに僕はなぞなぞを毎週出題したりしていた。このもとになるなぞなぞ道のお師匠さんは、他でも無くフジモトマサルさんであり、ひょっとすると、フジモトさんに、このシリーズが届くのではないかという期待が、少しくらいはあったかもしれない。是非、僕のもとで遊んで欲しかった。
 言葉のセンスが抜群で、でも不思議な漫画やイラストを得意とする文化人だったのではないか。闘病をしていたらしいことはぜんぜん知らなかったのだが、僕の第二の青春の友だったと言っていいだろう。フジモトなぞなぞの継承者として、黙とうをささげるものである。
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少しの待ち時間が許せない

2016-02-06 | 雑記

 隙間の時間を利用するのが賢い生活だとして、あらゆる隙間時間を埋めて勉強すること薦めている本を読んだことがある。その先生はシャワーを浴びるとき、まず浴槽に行って栓をひねってから服を脱ぐということを書いていた。シャワーの水は最初は冷たいので、どのみち暖かくなるまで待たなければならない。その時間がもったいない、という話である。まったく笑ってしまったが、しかし確かに僕自身も、この時間は少し持て余す。僕の場合服を脱いで歯を磨きながらシャワーの栓をひねっている。これは無意識の習慣だが、単に待っているより精神衛生上良いような気もする。シャワーの水が暖かくなってもしばらく歯磨きは続くから、そのまま下半身中心に歯磨きしながらシャワーを浴びる。適当に体が温まってからおもむろに歯磨きを終え、体を改めて洗うという感じかもしれない。まあ、それで時間を節約したという感覚は特に無いのだけれど。
 パソコンの立ち上げ時間も大変にまどろっこしい。机の上にはいつも本を積んであるので、この立ち上げ時間を利用してぱらぱらページをめくる。たまにこれが面白くなってパソコンを無視してむさぼり読んだりして効率はあまりよくない。でも、黙って待つのだけはどうしてもできない。
 職場に電気ポットがあり、外から内容量が見える仕組みになっている。僕は特に几帳面な性格ではないが、これの残量が減っているのが妙に気になる。皆がお湯の欲しいときに無いのは困るのではないか。お茶を飲むとき、一人分ならともかく、数人いるときに一人だけ飲むわけにもいかない。そのために沸かし直す時間がさらにもったいない。ところで、シンクのところに蛇口があるのだが、これに濾過機能の付いたものを職場では使用している。これの水を主に飲み水、すなわちポットの水として使用するように、不文律のとりきめがあるようだ。ところがこの濾過機を通過して出てくる水の量が少ないのである。大きめの容器にまずはこの水を取り込むのだが、ポットの容量を満杯にするための、例えば1リットル程度の水が溜まるまで、おそらく1分近く要するのではあるまいか。だから濾過機から水を出すと同時に、何かしなくてはならないといろいろ模索することになる。普通はその場から離れて別の用事をこなしたり(例えばコピーを取るとか)してこの時間をやり過ごす。そうすると、やはり時々この放置時間が長くなりすぎて、濾過機からの水が容器から溢れている状態になることがしばしばだ。垂れ流す水も無駄と言えば無駄である。
 散歩をしていて、交差点などの信号が気になる。ちょうど青で通過したいものである。だから歩道側が点滅になるタイミングを計って、歩みの速度を調節する。余裕があれば、つれている犬が道草を食っても気にならないが、そろそろという感じになると、時には犬の要望を無視してリードを引っ張ったりする。まったくタイミングが合わず残念な長い信号待ちの交差点などにあたると、50メートルくらい引き返してしまうこともある。どうしても立ち止まりたくないということでもないが、ただ待つのがどうにも口惜しいのである。
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無添加の洗脳から脱せよ   正しい添加物講義

2016-02-05 | 読書

正しい添加物講義/長村洋一著(ウェッジ)

 素直な表題の本で、添加物に対して気になっている人は、等しく手に取って読むべき本である。ただし、この本に書かれている内容に、残念ながら驚く人の方が多いのではないかという予測は立つ。それほど現代人の知識というのは極端に偏っており、その偏りの在り方が、あまりに軌道を逸している為に、著者はこの本を書かざるを得なかったということかもしれない。そうして現代の行政や、食をつかさどる、または食に関係している多くの専門家でさえ、この現代の偏見病理におかされている可能性は高い。いろいろ原因は考えられるが、多くの場合は間違った情報が連鎖的に繰り返され、いわば洗脳が行き届いた為だとは考えられる。食の安全を考えるうえで、特に毎日の食卓を支える、さらに子供を育てる意識の高い主婦層などは、この洗脳に犯されやすい立場にあったことは否めない。そのような犯罪に似た行為を許す土壌が日本にはあって、合理的で日々血のにじむような企業努力をしている食品メーカーなどの、信用を貶めることに加担している。まったく嘆かわしいことだが、本当に国民の食の安全を考えるとき、このような歪んだ洗脳から解き放たれて、正しく添加物と付き合える道を選択できる個人を地道に増やすしか、残された道は無いのだろうと思う。
 結論を言ってしまうと、添加物を恐れるあまり、むやみに添加物を避ける消費行動をすることで、健康や食の安全が脅かされる皮肉な結果になっているということである。人間が食事から摂る危険性のある課題は、大きく四つの問題に絞られる。一つはO-157などを含む糞便系大腸菌群。二つめは、マイコトキシンを生産するカビによる毒素。三つ目は、脂などが活性酸素(要するに時間の経過で)によって酸化されて生成される過酸化脂質。四つ目は、フグ、キノコ、貝などに含まれる毒性のある物質。である。これらの危険から身を守る為に、加熱処理をしたり、出来るだけ新鮮であったり、出来立てのものを食することを心がけることで、かなり回避することが可能である。ところが誰もが漁師であったり農家であったり、または自分でそれらの食材を直に集めることは不可能に近い。そんなことは当然のことだが、そのために少しの間のそのような人体に危険の及ぶ可能性のある食物に加工処理をする技術が進んできたというのが、人間の最大の知恵であるということだ。
 食物の長期保存には乾燥や塩漬けなどの方法もあるが、多くの場合、いわゆる添加物として保存料が使われることになる。長くなるので手っ取り早くいうが、非合法に毒性のあるものであったり、極端に多量のものが使われているのならともかく、日本で合理的に流通している食品に含まれる添加物で、健康被害に陥る可能性は限りなくゼロに近い。科学の世界で絶対ということは無いが、売られている食品に入っているもので毒性のあるものが混入されている危険は、日本の社会では考えられないレベルにあると断言できるだろう(もちろん,故意に犯罪として混入されている場合はどうしようもない)。そのおかげで日本では、多くの人が食中毒の脅威から守られているということだ。
 しかしながら世の中の無添加嗜好は根強くあって、そのニーズにこたえるために、企業は多くのコストを割かざるを得なくなっている。冷凍冷蔵技術はもちろん、流通の短縮高速化、そうして極端に短い賞味・消費期限内での販売にしのぎが削られている。そのような行き過ぎたコストをかけながら、結局は日々、むやみに大量の食品の廃棄処分に至って、社会問題化しても改めることをしない。その中では、例えばできるだけ雑菌を抑え込む衛生管理などについては素晴らしいことであるにせよ、そのためにカビにくい食品(パンなど)が生産されると、逆にそのことを揶揄して危険視するような不思議な集団まで生んでいる。そうでありながら無添加のものは消費期限が多少過ぎても、危険を知らずに口にしたりするのである。無添加のものは生産後の消費期限は極端に短い。カビなどの胞子は目に見える前に相当広がっているかもしれない。当然そのリスクは格段に上がってしまい、目に見えない健康被害が広がっていると考えられるのである。
 何が正しいか何が間違っているかは、実に明確に理解可能である。そのような最低知識を得るためにも、必修として読まれるべき本なのである。


追伸:これを書いたのはひと月ほど前の事だが、その間に廃棄処分の商品の横流し問題が起きた。今のところ健康被害が出ているわけではないが、重大な社会問題である。しかしながら、この文章を書いている背景を指して、このような不正を働くいかがわしい業者が生まれたということは考える必要があるのではないか。健康被害が起こりえない、要するにバレることは無いということがあって初めて、このような犯罪行為が大手を振って行われていた可能性が高いということだ。このことで、さらに信用は損なわれ、もっと間違った解釈が世間的にまかり通ることになるだろう。目覚めよ大衆。ミスリードに惑わされない、騙されない知識が必要な時代なのである。
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通ぶって言う?

2016-02-04 | ことば

 若いころにアルバイトでウエイターをしていた。手書きで伝票を書くが、基本的にこれは注文された品物が商品番号になっていて、その番号を書けばいいことになっていた。しかしながら、メニューは季節ごとに見直しがあって、だいたい150品目くらいの商品をひたすら覚えるより無い。移行期には間違いも多いし、思い出せない時は略語をそのまま書いたりしていた。そういう略される用語というのはある程度業界共通というのがあったようで、一般の人でも知っているだろうものは、例えばアイスコーヒーはレイコー、オレンジジュースはOJとかいうたぐいであった。
 ところでお客の中には、最初からこれを「レイコー、いち」という注文の仕方をする人がいる。僕は「はい、アイスコーヒーがお一つですね」と復唱する。そうして厨房に「レイコー、いちー」と声を掛ける(でも実際はアイスコーヒーくらいはホールの人間が自分で作るのだが、たぶん間違い防止だろう。声掛けをする習慣があったような気がする)。慣れるとなんでもないことだが、考えてみるとなんか変ではあった。ちなみに「レイコー」などと注文する客は、圧倒的にヤンキー風の人が多かった。ああいう人でもこういう店で、バイトでもしたことがあるんだろうか。
 略語の話ではないが、以前ウエイターに「ご飯」と注文すると「ライスお一つですね」といわれて腹が立つという話が結構あった。しかしながらウエイターの身分から言わせてもらうと仕方のないところはあって、店長からそう言え、と言われていたことが第一だが、ファミレスなどでは洋風の平皿にあるものはライス、和風の時は「ご飯」と言い分ける場合もあったように思う。そんなことは当たり前だというなかれ、客というのは変なのが居て、ハンバーグにライスは和風の御飯茶碗でもってこい、という注文をするような人が少なからずいるのである(もちろん、その逆もある)。客が指しているものと注文を受けた側の商品が同じである必要があって、しつこくこれをこちら側の理屈で統一するという思想があったように感じる。まあ、確かに馬鹿みたいですけどね。
 寿司屋に行ってお勘定を頼むと「上がり」が出てくる。ご存知かと思うが、上りとはお茶のことである。これは業界用語であるが、もとは遊郭からきているらしい。客がつかずに暇を持て余し「お茶を引く」のが縁起が悪い。それでお茶という単語自体を忌み嫌って、客があがってくれる「上がり」をお茶にあてたのが始まりとも言われている。
 お勘定を頼まなくてもお茶を飲みたい時がある。で、お茶、というとやっぱり「上がり一丁」と板さんが裏方に言う。でもまあ、たまに通ぶった客が「上がり」とお茶のことを言う。これを板さんが嫌うという話があった。しかしながら、寿司屋に行っていた頃の記憶をたどると、「お茶」と言っている客と「上がり」といっている客は、だいたい半々くらいじゃなかったかな、という感じはする。別に通ぶった客が言うということでは無くて、以前の客は普通にそういう言葉づかいだったんじゃなかろうか。寿司屋の場というのがあって、あんがい客も業界用語に馴染んだ人が多かったのかもしれない。
 しかしまあ、呑兵衛の客がたまに「上がり」ということがあって、そうすると女将さんが出てきて勘定の準備をしたりする。板さんが「いや、お勘定はまだ」と諌めていた。業界用語もなかなか厄介である。
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山の暮らし恐るべし   WOOD JOB!神去なあなあ日常

2016-02-03 | 映画

WOOD JOB!神去なあなあ日常/矢口史靖監督

 原作は小説。大学受験に失敗し、彼女との関係も壊れたような感じになって、さらに自堕落に陥った青年が、ふとかわいい女性の載っているパンフレットに目をとめたのが、林業の研修公募だった。旅行気分で参加することにしたが、携帯電話もつながらないような環境にすぐに逃げ帰ろうとするも、帰りの汽車は6時間後ということで、ズルズル参加してしまうことになってしまう。隙を見て逃げようともしたが上手くいかず、甘い考えではもともと勤まらない世界であるので、さらにどんどん嫌になっていく。ところが実際に大木を倒す場面に遭遇すると、それなりに感じ入るところがある。嫌な気分は抜けていないにしろ、さらにちゃらんぽらんな若気のいたりも治っていないが、少しずつ、山の生活に馴染んでいくのである。
 基本的にギャグ満載の娯楽作品なのだが、これが実にそつなく良くまとまっている。素直にげらげら笑いながら観ていて、ちゃんと山の生活の酷さと素晴らしさが同時に理解できる仕組みになっている。単純に自分たちの為だけでなく、自然の営為の中で人間がとけこんで暮らしていく敬虔な姿も、主人公を通して理解していくことが出来る。それは言葉でない何かがあって、実際に不思議なことも起こるのだが、それが単なるファンタジーということでは無くて、人間が生きていく根元的なテーマともつながっていくようなところがある。田舎も批判しているが、同時に都市生活も皮肉っている。単純に林業という職業が素晴らしいということを訴えていないところに、さらにこの映画の素晴らしさが見て取れる気がする。むしろ良く出来すぎていて、そういうところが気に食わないというヒネた見方をしたくなるくらいに良くできた映画なのである。ギャグが素晴らしいだけでなく恋愛映画としてもさらりといい感じで、そうして人間のサクセス・ストーリーとしての爽快さがある。欲張りに全部あって全部いい。
 主人公を演じる染谷将太はもちろんいいが、粗野な感じの伊藤英明もいい。さらにヒロインの長澤まさみのあまり可愛くないところもいい感じだ。楽しいのであっという間に終わる感じだが、まだまだ山のエピソードが続いて欲しい。そんな感じの快作なのだった。
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米中心文化の国とは

2016-02-02 | 

 コウケンテツがベトナムで食べ歩き(というか旅行)している番組を見た。
 ベトナムの麺といえばフォーくらいは知っていたが、フォーはもちろん食べていたけれど、このコメの麺を少し置いてやわらくしたブンというのもよく食べられているとのことだった。見た感じでは素麺がぐにゃっとしたような感じかもしれない。
 また一般的にライスペーパーが食材としてよく使われているようで、産地によってはこのライスペーパーをさらにあぶって使ったりしている。
 朝食にはおかゆも食べるようだが、これは中国文化の名残かもしれない。朝市のような場所にいくつもおこわを売っている店があって、女の人などはこれを朝食にするような人も多いということだった。
 春巻きも有名だが、ゴテゴテとお好み焼きのようなもので食材をくるんで食べるようなものをおやつにもしていた。甘いものもあったようだが、興味が無いからだろう、失念した。
 調味料は東南アジアらしく広く魚醤(ニョクマムとかいってたかな)が使われるようだった。味噌もあって、これは海水などを使って天日干しして発酵させる、少し日本のものより水っぽいようだった。レモングラスという植物もよく料理に使うようで、さらにココナッツミルクなんかも使っていた。そういうところは南国っぽかった。
 少し変わっているのは、ご飯と水をペットボトルのような容器に入れて数日発酵させて、これも調味料としてふんだんに使うようだった。酸っぱさなどがあるのだろうか。
 食材は田んぼの畔からカニやタニシを捕まえてきたり、カエルも好んで食べるようだった。下ごしらえもちゃんとしており、見た目にもまずそうではない。というか、食べてみたい。山芋などの芋の種類も豊富で、栽培もしているのだろうが、山を歩いて採ってくるような暮らしもあるのかもしれない。
 ベトナムはコメの輸出国で、世界一位とも二位とも言われている。たくさん作るし、たくさん消費する、まったく見事なコメの国ということのようだ。
 日本人も米は食うが、食生活では既に米中心文化ではない。ベトナムなどを見るとそういうことを思い知らされる。独自の文化も、そうして占領されて混ざったものが混然一体となっているのだろうことが見て取れる。
 なかなかコウケンテツさんのように庶民の食文化に触れるような機会には恵まれそうにないが、ベトナム食文化というのは、あんがい日本ともなじみやすい要素が多いのではないかとも感じた。フォーくらいしか食ったことが無いので、ブンもいつか食べてみたいものである。
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作用するものには必ず副作用あり   サイド・エフェクト

2016-02-01 | 映画

サイド・エフェクト/スティーブン・ソダーバーグ監督

 心の病気のあるらしい女が、衝動的に自殺未遂で病院に担ぎ込まれる。たまたま担当になる精神科医が、過去に女が掛かっていた精神科医とも連絡を取りながら、さらに病気の女当人の希望もあって新薬を投入していく。女は夫との関係もありながら、見た目には不安定そうに見える。そういう中でいわゆる薬の作用なのか、夢遊病状態のまま夫を刺し殺してしまう。裁判では処方された薬の所為だとされ、女は無罪となるが、この薬を処方した医師は、そのまま責任上社会的にも追い込まれていくのだが…。
 前半は、女の怪しさもありながら、淡々と病気の描写が描かれる。後の裁判のこともあるけれど、このような病気の人が、病的に異常行動をしてしまうことが、客観的に描かれているという感じだ。ところがこの病人に振り回されているように見える精神科医が、自分の落ち度があまり無いように思われることから、事件の真相が暴かれていく。一時四面楚歌に陥ちいりながらも、何とか起死回生が出来ないかもがきだすことが、映画の要点になる。実は綿密に計画された罠の中に、いつの間にか自分自身が取り込まれていただけだったのかもしれないのに、どんどん状況は不利になっている。そういう恐ろしい立場の転落から、男はどうやって抜け出したらいいのだろうか。
 サイド・エフェクトというのは薬の副作用のことらしい。薬の効能は、病的状態の治療のためにある作用を重視して投与されるが、そのために別の望まない作用が現れる場合がある。例えば風邪薬を飲むと胃が荒れるようなことが起こる。風邪の苦しい症状の緩和の目的からすると、そのことは一旦了解して薬を飲むのかどうかということを考えなければならない。日頃から胃の調子が悪い人は、風邪の症状次第では、あえて薬は飲まない方がいい場合もあるかもしれない。そういうことが精神病の薬の場合どうなのか。これはその病気の患者や医師でない限り関係のない話のように見えるが、ことが殺人事件にまで至るということになると、社会的にはそうは言ってはいられない。精神病はお気の毒かもしれないが、それで周りの人が殺されることが容認できるのか。間違った処方は、だから社会的には極めて重い問題なのではないか。
 社会的な問題も絡んでのサスペンス劇なのだが、いわゆる派手な展開ではない。そういうところがソダーバーグらしい映画なのだが、娯楽としてどうなのか、という感想は持つかもしれない。まあ、面白いのだが、普通に悪いことをすると許せないという感情の元、医師の行動が合理化されているようなきらいはある。そういうところの方が人間的には恐ろしいと思うのだが、力のない人間なら、この状況に巻き込まれることも打開することもできなかったことだろう。騙し合いの心理戦、恐ろしいものである。
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