カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

試されているのは誰なのだろうか    主人公は僕だった

2013-12-10 | 映画

主人公は僕だった/マーク・フォースター監督

 妙な設定ではあるけれど、これは哲学的な命題でもある。ある日空からというか、ともかく声が聞こえてきて、自分の置かれている状況が説明されているようである。自分の自発的行動でありながら、誰かの創作として運命が描かれている。なんというか統合失調症的であるが、映画のお話としては、実際に作家のある作品の一部として描かれている自分が現実にいる自分なのだ。文章にすると訳が分からないが、自分というのは紛れもなく自分自身であるというのは何かの間違いで、実際には誰かの創作かもしれないということは、誰にも否定することはできない。実際にそうではないというのは主観的にしか否定できないからだ。客観的に証明できないが、そういうあやふやな状況でも、個人というのは紛れもなく疑いなく自分は自分だと信じている。当たり前は、考えてみるとずいぶん危ういもの上に立っているだけの事なんじゃないか。というような前提の分かる人なら、このようなお話もなんとなく楽しめるかもしれない。考えてみると映画のお話というのはすべて、多かれ少なかれ同じような状況にあるといえる。でもそれをみんな確かなものとして受け入れたうえで楽しんでいる娯楽なのだ。
 ということなんだけど、これが自分の置かれている状況だと認めてしまうと、自分の運命を握っている作家に何とかしてもらうように頼まなければ大変なことになる。さらにこの作家は才能はあるものの、主人公を殺すことで有名なのである。当然今回の物語も、ラストにおいては…、という危機的な状況なのだ。そういう中で主人公は恋におち、作品のクオリティも最後まで保つことが出来るのだろうか。
 それを判断するのはほかならぬ観た人であろう。いろいろと重層的なことには違いないが、判断は単純でもいいだろう。
 個人的な感想としては、作家の苦悩としては当然のことだったかもしれないな、というような平凡なものだ。主義とか面倒なことを脱ぎ捨ててしまうと、やはり生きているキャラクターに愛があるなら、ということだろう。そういう意味では常識的で、しかし偏見に満ちている。これを文化的良心とみるのかどうかで、印象が違うのではなかろうか。変な話だけど、そういう意味で自分も試されている映画なのかもしれない。
コメント
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