できるだけ知らない道を歩きたいという欲求があるように思う。知らない道を歩くとわくわくするような感覚がある。いつもの道とはちょっと外れてみる。知らない路地があったら入ってみる。そういうより道が散歩の楽しみの醍醐味かもしれない。
しかしながら路地というのは厄介なこともある。単に民家への勝手口というか入口という場合もある。その家の家人に見つかると不審者と思われかねない。速度を落とす車をふと見るとパトカーだったりする。職務質問するか逡巡しているのだろう。また、せっかく入った路地を逆戻りするのは、なんとなく癪な感じもする。間違えたふうの何気ないしぐさというのはかえってわざとらしい。ついついコソコソしてしまうのかもしれない。
それでも路地というのは魅力がある。生活の物音でさえほほえましく響いている。歩くスピードを緩めるわけではないから盗み聞きをしているのではないが、母親が子供をきつく叱っていたりする。虐待通報とまでは行かないけれど、子育てはどこも大変なんだろう。テレビの音量がやたらにでかい家もあって、おそらく耳の遠くなったお年寄りが住んでいるのかもしれない。勝手な推理に違いないが、そういうことを考えながら、そこに住んでいる生活を思い浮かべながら路地を歩く。自分とは違う誰かの生活だが、なんとなく親密な気分がしてくるものである。
道を外れて歩くから、そのまま道に迷うこともある。どれくらい外れているのかさえどうにも見当がつかない場合がある。あまりにも途方にくれたり、時間的に制約があれば、素直に人に聞いてみたりする。スマホだったら位置がわかるかもしれないが、あいにくまだガラケーである。ちょっと焦りかげんにうろうろして、実は目的地に自然についたりする。こういうことがあると、なんだか勝手に誇らしい気分になったりする。自分の勘が偶然当たったに過ぎないのだけれど、なんかいいことがあったような、得した気分なのかもしれない。
そうして初めての道を発掘すると、やはりまた迷い込んでみたくなる。もっと痛い目に会わない限り、このような行動は改めないのかもしれない。