スティル・ライフ/池澤夏樹著(中公文庫)
これは読んだことがあったな、と読み始めてすぐに気づいた。気づいたが結局面白く読めた。本棚にももう一冊あるはずだ。考えてみると一度読んだのは20代だったはずだ。おぼろげながらだが、その時はあんまり感受性には合わなかった。もう少しリアルなものを好んで読んでいた時期だったようにも思う。文体は美しく幻想的ですらあるが、若いころにはそういう情緒が無い方がいい時もある。今は情緒過多でも気にならない。いや、ひどければ嫌だが、池澤の若い文体が、なんとなくそこまで気負わずに読めるのかもしれない。
お話はありそうでなかなか無い話である。中編が二編入っているが、どちらもどこか幻想的である。いや、出来事そのものは日常にありそうなことではある。特に不自然すぎることではない。しかしそこで主人公たちが考えたり、付き合ったりする関係というのは、どこか日本的ではない。村社会にあるウェットさが無いせいではないかと思う。日本語を話す外国人の暮らし。日本のことはよく知っているけれど、日本的な付き合いとはまったく別の冷めた感覚。それだけで、なんだか本当に幻想的な世界が構築されてしまうのである。
普通の人たちがあんまり登場しないというのはあるが、まったく生活感に欠けているということではない。中で起こるエピソードは、なんとなく自分の身の周りでも起こりそうな、ちょっとニアミスを起こしてしまいそうではあるのだ。そういう微妙なすれ違いを経て、しかしやはり僕の身には起こらなかった出来事のような気がする。そこのところが鼻につくといえばそうかもしれない。しかし、それは同時にやはり恰好がいいのである。いまさらあこがれはしないけれど、日常がそうであれば、案外いいのかもしれないな、という気はする。小説だから少しくらい現実逃避してもいい。そういう塩梅として、やっと池澤世界で遊ぶ余裕が出てきたのかもしれない。以前の自分ならそのまま目指してしまいかねない。これが現実だと小説としては楽しめないかもしれないではないか。
しかしどことなく、やはり悲しいという気分は残る。不思議な体験と不思議なずれの感覚が余韻として残るが、やはり過ぎ去ってしまうと、楽しいことが全部終わってしまったような、遠足の帰り道のような気分になるのかもしれない。僕は遠足が終わっても、また自転車に乗って学校の周りをうろうろするような子供だった。もちろん友人たちはくたびれてしまって、家から外に出るような子供は少なかった。そうしてがらんとした鉄棒とかジャングルジムとかの周りを自転車であてもなくぐるぐる回って、結局あきらめて坂道を登って帰るしかなかった。切り口は鮮やかなのだけれど、ちょっと遊び足りないような、そんなような物足りなさが、日本人の僕だということなのかもしれない。今は体力がなくなったから、ふつうにくたびれてしまうことを覚えてしまったのだろう。
これは読んだことがあったな、と読み始めてすぐに気づいた。気づいたが結局面白く読めた。本棚にももう一冊あるはずだ。考えてみると一度読んだのは20代だったはずだ。おぼろげながらだが、その時はあんまり感受性には合わなかった。もう少しリアルなものを好んで読んでいた時期だったようにも思う。文体は美しく幻想的ですらあるが、若いころにはそういう情緒が無い方がいい時もある。今は情緒過多でも気にならない。いや、ひどければ嫌だが、池澤の若い文体が、なんとなくそこまで気負わずに読めるのかもしれない。
お話はありそうでなかなか無い話である。中編が二編入っているが、どちらもどこか幻想的である。いや、出来事そのものは日常にありそうなことではある。特に不自然すぎることではない。しかしそこで主人公たちが考えたり、付き合ったりする関係というのは、どこか日本的ではない。村社会にあるウェットさが無いせいではないかと思う。日本語を話す外国人の暮らし。日本のことはよく知っているけれど、日本的な付き合いとはまったく別の冷めた感覚。それだけで、なんだか本当に幻想的な世界が構築されてしまうのである。
普通の人たちがあんまり登場しないというのはあるが、まったく生活感に欠けているということではない。中で起こるエピソードは、なんとなく自分の身の周りでも起こりそうな、ちょっとニアミスを起こしてしまいそうではあるのだ。そういう微妙なすれ違いを経て、しかしやはり僕の身には起こらなかった出来事のような気がする。そこのところが鼻につくといえばそうかもしれない。しかし、それは同時にやはり恰好がいいのである。いまさらあこがれはしないけれど、日常がそうであれば、案外いいのかもしれないな、という気はする。小説だから少しくらい現実逃避してもいい。そういう塩梅として、やっと池澤世界で遊ぶ余裕が出てきたのかもしれない。以前の自分ならそのまま目指してしまいかねない。これが現実だと小説としては楽しめないかもしれないではないか。
しかしどことなく、やはり悲しいという気分は残る。不思議な体験と不思議なずれの感覚が余韻として残るが、やはり過ぎ去ってしまうと、楽しいことが全部終わってしまったような、遠足の帰り道のような気分になるのかもしれない。僕は遠足が終わっても、また自転車に乗って学校の周りをうろうろするような子供だった。もちろん友人たちはくたびれてしまって、家から外に出るような子供は少なかった。そうしてがらんとした鉄棒とかジャングルジムとかの周りを自転車であてもなくぐるぐる回って、結局あきらめて坂道を登って帰るしかなかった。切り口は鮮やかなのだけれど、ちょっと遊び足りないような、そんなような物足りなさが、日本人の僕だということなのかもしれない。今は体力がなくなったから、ふつうにくたびれてしまうことを覚えてしまったのだろう。