幽閉者(テロリスト)/足立正生監督
田口トモロヲの熱演ということが、いわゆる一言で言うところのこの映画のすべてだ。本当にお疲れ様、という気分になるが、その割に気分が晴れる訳ではない。いつまでも拷問に耐えながら精神的におかしくならざるを得ない訳だが、観ている方だってつきあってそういう気分になる。おそらく1000人くらいは感心した人がいるかもしれないのだが、あとの人にはつらい映画だろう。つらいと逆に面白さを探したくなるのだが、やはりつらいものはつらい。NHKのプロフェッショナルのナレーションみたいだな、ということくらいが、そのような楽しみだったかもしれない。または荻野目慶子がこんな映画に出てたんだなあ、という感慨か。
テロリストになる心情というのは、あんがい分からないではないのだ。もうそういう選択はしないだろうな、とは思うものの、自分の力ではどうにもならないらしい現状を、たとえ命を散らしたとしても、どうにかなるのではないかという希望を持てるという意味では、テロ行為をしてしまうような熱意というのは、多かれ少なかれ若者にはあるものではないのか。反体制だとか社会的な正義だとか自己犠牲などというのも、若い純粋な人間には芽生えるというのはごく当然のことだろう。まさかいつまでもそんなことを考えているような大人は迷惑なだけの話で、若い頃の麻疹としての左傾思想は、多くの人が通過するトンネルの様なものだろう。しかしながら普通に賢い頭脳があれば、その欺瞞にも自ら目覚めることになる訳だが、その機会を失ったり、そのまま近視眼的な環境で育つことができるような人間になると、やはりそこから抜け出せなくなってしまう。そういう世界というのが本当に恐ろしい訳だが、しかし現実にそういう人間がいる訳だ。抜け出せないばかりでなく、さらに深みにはまっていくようなことになるかもしれない。既に取り返しのつかないことはやってしまっている。後に戻るにも、帰り道が分からなくなってしまうのだろう。
そういう危険にふれるというのは、通過儀礼として幾ばくかは意味がある。しかしテロリストに限ってみると、通過で済まない人々だったというしかない。一方通行の道に入りこんでしまった訳で、ある意味で人生の決められた不幸な運命を感じさせられる。不幸だが、そこでも死ぬまで人間は何かを考える。その道は自ら望んで歩んできたものなのか、それともこの道を選ばされたものなのか。
そういう意味では、何もテロリストだけの問題では無いのかもしれない。迷い込んで抜けられないように見えて、実は全部自分自身の考え方次第だった。夢から覚めたいか、まだ寝て言いたいか。決めていいのは自分自身だ。そのことに気づくまで時間のかかる人、さっさと目覚めてしまう人と、さらにどちらがしわせだろうか。人間というのは本当に厄介な生き物だということは、あえて言うしか無かろう。