カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

弱くなるから強くなれる

2013-12-14 | 境界線

 年を取ると体力的に衰えを覚える。これはごく当然のことだ。実際にそういう自覚を体験するために毎日を過ごしているような感覚さえある。時には愕然とし、深く傷つく。
 若いころは無理がきいて良かったという感覚は、だから自然のものかもしれない。失ってしまったものは本当に大きい。そして、やはり悲しい。
 しかしながら、そういう感覚というものは本当に素直な、そして客観的なものなのだろうか。いや、衰えは確からしい。しかし若かったころに、その能力で本当に今より得をしていたのだろうか。
 実は僕は若いころに、年配の人と一緒に飲んでいて、そのペースもさることながら、やはりかなわないな、という思いを何度となく体験している。量的にはそれは僕の方が飲めるかもしれない。もともとそんなに飲めないほうではないから、力技でどんどん飲んでゆく。しかしそれなりに時間を経過すると、当たり前だがそれなりにつらい。
 そこから強い人というのがいるわけで、それはほかならぬ年配の先輩だったりする。今となっては分かるが、自制を聞かせて、または経験上ある程度の計算があったのかもしれない。もちろん先輩の中には、まったくそんなことはお構いなしのぜんぜんダメという人はいる。しかし、唸るような強さを持っているのは、ほかならぬ先輩の方が多いのも確かだ。酒の量を超えた力強さは、そういうことに現れる。
 もっとも体力勝負を最初からしていないのかもしれない。それは、必ずしも必要ではないのだ。しかし、確実に強さは伝わっているわけだ。
 衰えはあっても必ずしも弱くはならない。そんなことを思うことがある。若いころに体力に任せてどんどんいけることが本当に素晴らしいことだったのだろうか。むしろそのことの方が、能力、体力があった方がよりつらかったことは無かったろうか。
 経験というのはそういうことを言うのではないか。今は簡単につらくなるかもしれない。しかしその耐性を知っているという強さだってあるのではないか。そういうことがあるから年を取るというのは必ずしも衰えばかりではない。強がりを言っているわけではなくて、そういうことを普通にやることというのが、本当の強さということなんじゃなかろうか。
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