カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

想像以上にそこにある危機

2013-12-28 | 時事

 僕にとっては靖国参拝の良否はそんなに意味のあるものではない。それによって騒いだりすることに対して変な感じを持っているというだけのことかもしれない。このタイミングでどうであるかというのは、それなりの確信があってのことなんだろうけど、それはたぶん国内世論の一定の支持を見越してのことであることは明らかだ。ところが考えていたより反応が鈍いような気になっている可能性がある。それは保護者である米国の反応が芳しくないということの影響が大きいようで、いわゆる事実上のジャッジマンがいまだに現代社会にも健在であるという変な証明になっているような感じになっている。日本はいまだにこどもの国であることに変わりがない。国民の精神性がそうなのだから仕方がないという感じになっている。誰かに認めてもらわないと不安でしょうがないのだ。
 日本には象徴天皇がいるわけだが、宗教で天皇を崇拝しているわけではない。しかし天皇を崇拝している国民はそれなりに多いという感覚はある。それはいったいなんであるかは、案外明確になってはいない。日本人という個人の感情としては、天皇はどうでもいいという言いきれない感情があるとともに、しかし親しく自分の信じるよりどころであるとは必ずしも言えないのでは無いか。しかしだからと言って、西洋的な王ということではないけれど、日本人的な親しみはやはり持っていることであろう。それは戦争の象徴というより、日本人の漠然と持っている良心というようなものと同義である可能性が高い感じがする。戦争と切り離して考えられるのは、天皇そのものが戦争被害者の一人で、多くの民衆と同じ立場であるという感覚とか願望であるということなのではないか。
 先の戦争では日本は加害者だったのだろうか。それは戦勝国が決定しようとしている理屈の上の事だったはずだ。戦争を始める国は、侵略のためというより自国を守るために始められる。そこまで追い詰められて選択肢を失い、さらに国民世論が後押しして開戦になったことはまぎれもない事実である。そうしてあれこれあったのちに戦争に負けたという事実はあるが、だから結果的に加害者になったということだ。そう考えることは反省が無いことと同義であるということからも、理由としての加害者であるという決めつけは、負けたということに尽きるわけだ。本当にはどうだったかはかなり複雑なものがあり、事実として侵略者であり、しかし戦争の被害者でもあるという当然の両面性がある。一方的に決めつけるのは、単に乱暴なだけの話である。勝てば正義ということを主張できるが、ナチスであっても勝っているときは正義だったことも間違いなかっただけのことで、ましてや現代社会において、戦勝国がいまだに正義だと言い続けていることの方が、ほとんどナンセンスという気がしないではない。反省すべきはそういう態度の事だろう。
 参拝は賢い選択ではないし僕はまったく支持しない。しかし、米国が失望することに対しては、反発している中韓の単純さと同等の幼さを感じる。そのような後進的な国民世論を持つ国々に挟まれて、我々は何を思うか。結局は幼い人々の意見が強いという同一性のある世の中であるというだけのことで、現代病の危機が思った以上に迫っているということなのであろう。
 現代社会では国どおしの戦争は考えにくいと思われているが、特に日中間にそのような懸念が広がっているとしたら、やはり大人として何をすべきか、ということになってくるのではないか。負けても大きな犠牲を防ぐ。結局勝つことは娯楽のようなものと心得るべきことのように感じている。気分のために戦争をするのは馬鹿らしい。そういうことを考えて、したたかに生きる術を身に着けるべきなのではあるまいか。
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