きかんしゃ やえもん/阿川弘之・岡部冬彦著(岩波書店)
阿川弘之の娘さんが紹介していたので買ってみた。ひょっとすると子供の頃に読んだかもしれないな、と思ったのだが、まったく記憶が無かった。読んでないのだろう。
古い人間の比喩として古い機関車をモデルにしている。今となっては古いからいいのは当然いいことだから、それなりに今でも使えるくらいに古いと嫌われるという話かもしれない。御先祖様なら敬えるが、退職前のオヤジならうるさいという感じかもしれない。いや、その年頃の人を煙たく思うのは、あんがいその年頃に近い人かもしれないが…。
しかしながら怒って火事を起こすなどの失敗をしてしまって可哀そうだったのだが、何となくハッピーエンドという形にはなっている。もっとも大好きな石炭は食えなくなるのにハッピーなんだろうかという疑問は残ったが、実際はあれは食事なのかどうかは多少の疑問はある。動かなければ食事が必要ないのは機械の宿命かもしれない。
何でも新しいのがいいのか、というのは、やはりこういうものであれば、新しいものが機能的に優れている可能性があって、偉いかどうはともかく、古くなってしまうのは悲しい。愛好家が古いコレクションに価値を認めたとしても、やはり使う段になると不便だというのはあるだろう。所有しているだけの価値であるというのは、機関車の様な働く機械にとっては物悲しいものがありそうである。人間であっても、まだまだ働けるのに引退をさせられるというような心境とダブるのであろう。
年をとってしまうと役割が変わるということはある。人間の場合だと体力の代わりにもてるものはたくさんある。しかしそれが有効に使える人と、代替される人が出てくる。スポーツ選手などは分かりやすいが、いくらベテランの技術を持ってしても、戦力として使えなくなるなら引退するより無い。遊びで自分でやる分にはいいが、人には必要とされなくなるのは仕方のないことなのだ。
それはたぶん本人だって分かっている。分かっているが認めるのはつらい。そういうものを子供が読む。これはやはり何かの願望があるのかもしれない。心やさしい子供なら、まだまだ頑張って欲しいと思うかもしれない。これは仕方ないよな、などと思うのは、既に子供では無いかもしれない。要するにもう子供じゃなくなってしまったな、という自分の物悲しさも確認できてしまう。絵本は大人には残酷なものなのかもしれない。