橘玲のブログ読んでたら、フィッシング詐欺の文面が、どうしてこうも馬鹿っぽいのかの解説がなされていた。
SNSにもメールにも、何かの当選であなたが選ばれたとか、荷物が届いたとか、契約を急げとか、お金をあげるとか、まあなんとも色々あるにせよ、実際のところこんなものにいったい誰が引っかかるものなのか、疑問に思える文面が多いことに失笑していたわけだが、実はそういう文面だからこそ、意味があるというのだった。
要するに詐欺行為は、詐欺に引っかかる人をひっかければ成功なのである。引っかかりにくい人を思考を凝らして騙そうとしても、その労力に見合う成功は難しい。要するに引っかかるような馬鹿を探せばいいのである。そういうバカを対象にするために、いかにも馬鹿っぽい理屈で引っかかる人間に当たればいいのである。もちろん犯罪グループが外国人で、日本語が拙い、という文面もありそうなのだが、むしろそれでも引っかかる人がいるからこそ、そういうものがはびこるのだ。馬鹿を探すには馬鹿目線で、ということで、一定の成功する事例があるからこそ、ネットやメールという無差別でコストのかからない手法に添えて、このようなバカな文章を量産して送っている訳だ。迷惑極まりないものの、それにもかかわらず引っかかる人が絶えないので、さらにその成功事例に基づいて、馬鹿な文章が量産されているということなのらしい。たまに被害届が出るのだろうが、既に相手は閉鎖するなどとんずらしている。そうして次の馬鹿を探している訳だ。
オレオレ詐欺などもそうかもしれないが、引っかかる人はまさか自分がそうなるなんて思いもよらなかった、などと言っている。国際ロマンス詐欺などもそうなのだが、被害者はお気の毒だという側面もあるものの、むしろそういう被害にあうはずもない普通に見える人であっても、引っかかったりしている訳である。ひとえにそれは、馬鹿では括れないものがありそうにも感じられるのだが、要するにそういう事態に遭遇してしまった人間が容易に馬鹿になれるような習性が、ひょっとするとヒトそのものには備わっている可能性があるのではあるまいか。そのような境遇に自分が置かれているという、いわゆるスペシャル感のようなものが、自分に巡って来ると信じられるような……。もちろん引っかからない人には、そのような冷めた現実感から抜けられない悲しさのようなものが、逆にあるというだけのことかもしれない。どっちがしあわせなのかは僕には分かりかねるが、詐欺にもあわず幸運からも見放されている現実は、まさにひとの日常ともいえるのかもしれない。