カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

こんなに旨いものがあったのか

2018-10-22 | 

 まずい店、不味かった店の情報を聞かされることがある。あそこは酷かった二度と行かん、とおっしゃる。まあ、ひどい目にあわれた事はお気の毒かもしれない。多少問題に思うのは、僕はそんなこと思ってなかった時である。それなりに美味しかった記憶のあるところを激しく非難されることもある。人の味覚なんて千差万別だと理屈では思うものの、何か釈然としない気分だ。
 古い話になるが、30年くらい前に「美味しんぼ」という漫画が流行っていた。僕はその影響だとにらんでいるのだが、やたらに素材に執着(当時「こだわる」とも言っていた。まったく嫌な言葉だよ)したり、批評したりする人が見られるようになった。食べて偉そうな人が増えたのである。まあ、以前から食通ぶる(実際に食通もいるんだろうが)人は一定数いるだろうが、それは金持ち自慢のようなもので、見た目はもともと下品である。しかしこの漫画以降、何かそういう人が量産された。店の内部事情などに通じ、料理法なども解説してくれたりする。そういうことが楽しい場合も当然あるが、それをもとに非難する場合がいけないのかもしれない。理屈で味が悪くなるというか、気分が悪くなるのである。味の分からない人間は、何か下等な生物であるかのようなことを言われる。ちょっと理不尽ではないか。味の分からない人間と人格は、何の関係も無い。人格が悪くても、味のわかる人間が存在することが、人間の本質である。
 まずいものを食わされたことは当然あるんだが、まあ運が悪かったと諦めるより無い。食えないほどだったら食わなければいいし、店を変えたらいいと思う。腐ったりしていたら、店員に教えたらいい。その時まずいと思っても、次回はそうでもない場合だってある。自分の体調を疑うことも、時には必要かもしれない。僕はタコ焼きやカレーが嫌いだったが(体調が悪い時に食べて、もどした経験がある所為だと思う)、今はそうでもない。人間にはそういうことが起こりうるのである。
 時々不味いと言われていた店の暖簾を、あえてくぐってみる。なるほどまずいな、というのはそんなにあるものでは無い。僕が寛容であるとか、味音痴である可能性は高いが、そんなものである。本当に不味かったら面白かったのにな、とも思う。ちょっと残念かもしれない。
 僕自身は、常日頃はあんまり旨いものを食わない方がいいのではないかとも思っている。そうすると時々旨いものを食う時に、感動が深まるのではないか。人間はなんにでも飽きる能力が高い。日々贅沢をしている人は、食通にはなれないと思う。何故ならそういうものの味が、分からなくなる可能性があるからである。
 昔の人の話で、こんな旨いものがあったのか、と驚いた記憶のことを聞かされることがある。戦後に貧しくて腹を空かせていたり、日ごろから芋ばかり食べていたようなことがあり、そんなにごちそうでなくても、ひどく感動した食の思い出があるのだろう。生活は貧しくても、それは豊かな思い出なのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする