長男のとき同様、出生届締切の今日に至るまで頭を悩ませて。
ようやく今日、愛娘に命名できて、届け出も済ませてきた。
ようやく今日、愛娘に命名できて、届け出も済ませてきた。
ここに書くわけにもいかないんだけど、
息子と同じく納得のいくいい名前を考えてやることができたと思う。
願うところもまた息子と同じ。
小さなことや煩わしいことに思い悩むことなく、
自分なりの自然体で、のびのびと生きていって欲しい。
どんなときでもひと息ついてゆっくり思い考えられる心の余裕、
周りの人々がくつろげるような空気をつくれる優しさや温かさ、
そういったものを具えた人になってくれるといいなあ…
という願いをこめて。
例によって僕が山ほど考えた中から夫婦で絞っていって、
最後は昨日の朝、せーのでこれがいいねと選んだものが見事に一致、
晴れて命名となった。
長男の時にも同じことを書いた気がするが、
名付けというのは親から子への最初で最大の贈りものであり、
同時にエゴの始まりであるのかもしれない。
愛すればこそ、あれこれと勝手な期待や理想を込めてしまいがち、
しかもそれは命名に留まらないだろう。
時にそれが子供の重荷や足枷になって、鬱陶しくなって、
反感を覚えて…ということにもなるのかもしれぬ。
だから僕は自分の子供たちには何も押しつけたくない。
親の愛したものを子の名前に選ぶ人もいるけれど、
僕は好きな音楽も野球も尊敬する人の名前も、一切遣わなかった。
自分の生き方や愛するものは自分で選び取っていけば良い。
ウチの子供達には、そんな親の思いも伝わるような名前にしたつもり。
僕もまた子供可愛さの余り、
つい無意識に勝手な期待を押しつけてしまうことがあるかもしれない。
でも、子供の名前を呼ぶたびに書くたびに、
この日の誓いを思い出せるだろう。
子供たちへの命名が、同時に親の自戒でもある。
名前は意味も大切だが、
人生で数え切れないほど呼び、呼ばれるものですから、
音の響きもとても大切だと思っている。
ウチの子供達の名前の響きは、両方とも僕はとても好きだ。
本人たちも気に入ってくれるといいなあと思う。
本人たちも気に入ってくれるといいなあと思う。
あとは厭がられることのないように、よきパパに精進するだけ。
なれるかなー。なれるといいなー。