前回の投稿で誤解を招いたかもしれないけれど、
僕自身は「体罰肯定派」ではないし、普段の指導で体罰を加えることもない。
極力じっくり話してわかって貰おうとするスタンスでいるし、
殴ってまで勉強させなきゃいけないとも思っていない。
ただ、極端な虐待事件がくり返し報道され、感情的な支持を集めた中で、
国家による「法制化」という流れには、なんとなくイヤなものを感じている。
僕自身は世代的なものもあって、体罰は普通に受けていた。
悪いことしたら親からも先生からもぶたれることはあった。
でも、だからといって肯定する気にはなれない。
何より僕自身が体罰を受けて得心したという記憶がないからだ。
ただただ理不尽に感じていたし、小学校の先生なんかには敵意すら燃やしていたと思う。
一方で当時の僕はといえば(いまもそうかもしれないが)、
イヤなことはイヤ、やりたいことはやる、ワガママ放題の子供だった。
妙に弁が立つイヤミで生意気なガキだったし、何をやらかすかわかったもんじゃないし、
あのときの僕を止めようと思ったらそれこそぶん殴るしかなかったかもしれない。
当時の周囲の大人達の気持ちもわからないでもない。
わかるけど、積極的にその意味を認める気にはなれない。面従腹背であったわけだし。
僕が子供の頃、最も恐れていたのは親父と塾の先生だった。
姿を見かけただけで背筋が伸びた。
この二人には何度殴られたかわからない。
やるべきことをやらない、ウソをつく、こうした僕の行いに本気で怒り、
いったん怒り出すとむちゃくちゃに怖かった。
でも僕が悪いのはわかっていたし、逆らう気も起きなかった。
この二人は怒る理由、筋がハッキリしていて、
何をしてはいけないか、何をしたら恐ろしい目に遭うかがわかりやすかったからだ。
しかも、散々痛い目には遭わされたけど、ケガはしなかった。
うまいもんだなと思う。
体罰の是非はさて措いても、あの頃の無軌道な僕にはこういう怖い存在が必要だったろう。
反面、小学校の先生は怒る・怒らないの基準が曖昧で、
ただ先生の気分やその日の機嫌、お気に入りの生徒かそうでないかによって線引きはコロコロ変わった。
少なくとも僕の目には気に入らないときに気に入らない子を、
殴ったりつねったりビンタしたり教室から追い出したりして、無理矢理にでも従えることで、
彼ら自身がスッキリしたり、面子を保った気になっているだけのように見えていた。
こういう関係性ではいくら殴られたところで従う気にはなれなかっただろう。
もっともっとこじらせていた可能性の方が高い。
…というわけで、悩ましいのだ。本当に悩ましい。
くりかえすけど体罰は決して望ましいものではない。
ほとんどの場合、子供の側は理不尽に思うか、反抗するか、恐怖によって消極的に従うかのいずれかだ。
ごく少数だとは思うけれど、体罰を認める方便を与えてしまうと、虐待に繋がってしまう愚かな親もいるわけだ。
でも、果たしてその対策は国家権力による統制「法制化」でよいのだろうか、というところにどうしても引っかかる。
そう、引っかかるのだ。
「暴力はいけない」は金科玉条にしやすいだけに。
単に僕が個人的に日本の行政や司法をそれほど信用していないというだけのことかもしれないけど。