いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

うるう病

2016-07-14 16:25:38 | 超・いぶたろう日記
「うるう秒」が年末に挿入され、今年が1秒延びるというニュース。
たった1秒のことでも、さまざまな機器やシステムに影響するのだとか。
対応するエンジニアは大変みたい。
このこと自体は批判するようなことじゃないし、
そういう社会なんだからそういう対応をするしかない。
良いも悪いもない。

でも、本質的には「どう呼ぶか」の問題に過ぎないんだよな。
時間の流れが変化するわけではもちろんなくて、
どこからどこまでを1年とするか、その区切り方を変えるというだけ。
そんなの、勝手に決めた人間の都合だし、
そのことで社会システムが影響受けるというのも、
勝手にそういう風につくってたというだけのこと。
宇宙は、天体の運行はそんなこと知らんがな、と。
そんな見方もできる。

何だか象徴的だなあ。

論理と理屈で埋めたシステムは決して万能ではあり得なくて、
実態はもっとファジーだったりする。
その実態をシステムに合わせて運用するには、
ものすごく細かい計算やそれに基づく修正が必要になる。
そこに神経を尖らせてやっていくのが「知的」であり、
そこに優越意識を感じる人もいる。

僕はタダの面倒くさがりなので、
そういう人の苦労や尊さは否定しないけど、
でもあまりに一方的なものの見方に、
小さな反感を覚えることもなくはない。

論理化すればすべてが理解できるという思い込み。
そんなことまで論理化しても、わかった気になれるというだけで、
実は後付け修正を重ねる作業を宿命づけられた、窮屈な生き方なのかもしれない。
それが気持ちいいという人には説得力ないけど。

僕は本当に面倒くさがりなので、
「そういうこともあるよ」と「別にいーじゃん」というスタンスでいる。
精密な計算とシステムで、あらかじめ様々なことを見通して、
より便利で快適な環境を実現するのも崇高な生き方だろう。
半面、1年が1秒増えたくらいでまるで動じないような
アバウトで鈍感な生き方が、功を奏する場合だってある。
少なくとも、ストレスで病気になったり、
自殺したりということには無縁でいられるだろう。

僕はそっち派、というだけの話。
仕事も私生活も楽しく、自由に生きていきたい。
そのためだったらどんな苦労でも不自由でも…ってあれ、おかしいな。

…と、だから結局、
「どう呼ぶか」「どういうことにするか」というだけの問題じゃないかと。
論理的なアプローチだけじゃなくて、
感覚的な受け止め方とのバランスではなかろうかと。
片っぽだけで片っぽを批判するのはよくないわね。

情理はさまよえる靴下のごとし。
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