いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

その日の朝

2007-12-16 23:15:07 | 似非哲学の部屋
今日、ひょっとしたら自分の人生が終わるかもしれないなんて、
いったいどこの誰が考えるだろう。
難病を抱え、闘い続けている人だって、なかなかそうは思えないものだ。
ましてや健康に日々を過ごしているものならなおさら。
人はギリギリのところまで、自分の明日を信じている。
明日もまた今日と同じように、一日がやってくることを疑わない。
そういうところにふと、何の前触れもなく、落雷のように訪れる。
死というのはそういう理不尽なものだ。

つくづく、神様なんてのはやっぱりいやしないんだろうな、と思う。
どんなに恨まれ、憎まれ、嫌われる人物でも、決して天罰で死んだりはしない。
どんなに愛され、慕われ、必要とされる人物でも、容赦なく死は訪れる。
新婚だろうが、強盗だろうが、
母子家庭だろうが、殺人犯だろうが、
おかまいなしだ。
草むしりのように目についたあたりから引っこ抜いていく。
これでも神様はいるってんなら、よっぽどの悪党だ。
それともさすがにもう重すぎて背負いきれなくなってんのか。
関心ないのか、それとも面白がってやがるのか。
金で歓心を買っているつもりなのか、
お布施つんで、変なもんいっぱい買って、惨めに祈りを捧げて。
まったく人間というのは哀れだ。

こーんな世の中のシステムをつくっておいて、知らん顔。
争い、悩み、苦しみ、もがく人間のさまを、
それこそ生け簀の中でエサを争う鯉のように、
薄ら笑い浮かべて眺めてやがるんだろう。
そんな風にも八つ当たりせずにいられない。

野球に情熱を捧げ、病で静かに幕を閉じるのもひとつ。
格闘技で鍛え上げた肉体ほどには心を磨けず、やがて朽ちて留置所で果てるのもひとつ。
そして何の因果もなく散弾銃に撃たれ、
人生があたかもゲームやパソコンかのように、
訳もわからぬうちに突然シャットダウンされてしまうのも、ひとつ。

残された我々には、冥福を祈ることしかできない。
我々もまた、いつか雑草のようにむしられる日が来るのだろうか。

考えたくないことは、考えないようにするしか、ない。
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