いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

ノリカとジンナイの結婚式に本気で感動できちゃうんですか

2007-06-12 00:54:13 | 似非哲学の部屋
いや、まあ、タイトルに他意はないんだけども。
80年代みたいな話題だなあと思ってさ。
バブル崩壊十数年後の、虚礼廃止の、ジミコンの、このご時世にだよ。
いまどき、ケバケバしい「大物芸能人」のベタベタな「豪華挙式」を、
これでもかと電波に乗せて40%もとれちゃうなんて、
オメデタイことだよね、ほんとに。
当人達はあれで恥ずかしくないってんだから、さすが芸能人だよね。

なに?アフガニスタンの子供達から祝辞だと?
まあ、結婚式でまで「善人」をアピールしますか。
番組のカネでアフガン行って、
これ見よがしにテレビカメラの前で貧乏国に同情してみせて、
自慢するようなことですか、それが。
生活に困る子供たちにコメント採りに行く予算があるなら、
そのお金寄付してあげた方がよっぽどいいじゃないか。
次のコメントがキャメロンディアスでしょ。
もう計算され尽くしたバレバレのイメージアップ戦略じゃないですか。
恥ずかしいよー。
別の意味で最高に面白いけどね。

なんでしょうか。
こういうくっだらないことが話題になっちゃうくらい、
世の中退屈してるんでしょうか。
テレビや週刊誌って針小棒大が基本だから、
まあ本当に中身のないくだらないことを、
「歴史的瞬間」「天才」「美しすぎる~」「感動」「衝撃」「涙」と煽り立てるよね。
あれ、本気で乗っちゃう人どれくらい居るんでしょうか。

テレビも映画も本も音楽も、
実に安っぽいのが幅をきかせちゃってるけれど、
あれでカネになるということは、
疑いもなく楽しめちゃってる人が少なからずいるってことだよね。
それが実に不思議。
でも深夜の繁華街なんかでだらしなく大騒ぎしている層を見ていると、
世の中いかにもダメダメな人って思うより多くって、
彼らが消費の主体者の大多数だとしたら、現状も納得せざるを得ない。
彼らにとってはエンタテイメントの質なんてどうでもよくって、
要は自分が空っぽであるために生まれる日常の退屈を、
何かで埋められればそれでいいのであって、
いわばニセブランド品のような手軽さと、
見栄えの良さがあればそれでいいのだろう。

だとしたらやはり、
「売れているものはいいものだ」はウソだな。
数字とかブランドとか流行とかの前に思考停止しちゃう、
そういう人種には染まりたくないなあ。

現代の退屈はどうも本当の意味での退屈とは違う気がする。
やることがないということではないよね。
やることがありすぎて、何かに取り組む意欲が減退している。
刺激が多すぎて、感覚が麻痺している。
そんな中で休日の午後の眠気のようにやってくる、
忙殺の中に泡沫のごとく浮かぶ、けだるい退屈。
では、それを脱け出す努力ってしてるんでしょうか。
誰かが何かを与えてくれて、引っ張り上げてくれることを望む、
一億総お客さんモードにはまっちゃいないでしょうか。

つまらないつまらないとこぼす人は大勢いる。
でもその本人はどうなんでしょう。
自分で面白くするための努力はしているのだろうか。
日常が面白くあるってのは難しいんだよ。
ただ無闇に笑いの種を探してばらまいて、ではなくて、
その人なりの主張とか感性とかってヤツが、
塩分のごとく適量含まれていればこそ味わい深く、面白いんだ。
人の顔色うかがって、ウケようウケようとしている人のそれは、
薄~いみそ汁みたいだ。
カラダに害はないだろうけども、まずくて仕方ない。
逆に自分の主観的な個性の発露や特殊性をやたら主張するタイプも、
あまりのしょっぱさに一口でお腹いっぱいになる。
何より血圧上がりそうだ。

ついついやっちゃうんだけれど、
自分では面白いつもりで、自慢話ばっかりするのもね。
聞いてもないのに自分の学生時代の成績(がよかったという話)とか、
受験の勝敗とか、転職歴とか、果ては知能テストの結果にいたるまで。
どんな顔して聴けばいいのか困っちゃう。
そういう権威づけがないと自分の能力をアピールできないのだとしたら、
それはあまりにさびしいパーソナリティなのでは。
恋愛遍歴とか、異性観とかも、
話してる本人が自分のために一生懸命なだけで、
聞かされてる側が面白いことはまずない。
退屈なことこの上ないけど、本人は気づかない。
みんな誰もそんなにお前に興味ねえぞ、って顔してる。
僕はたまにほんとに口に出して言うけど(笑)。

他人にばかり面白さを期待しちゃあ、だめだね。
たまたまつけたテレビがすっごく面白い、
眼つむって選んだレンタルDVDで泣けた、
ジャケ買いしたバンドが最高だった、
それらをはるかに上回る微少な確率の期待だ。
おもしろさは自分で見つけ、育てていくしかない。

だから僕は誰にも面白いことなんて期待してないし、
また楽しい目に遭わせてもらおうという欲求もない。
期待さえしなければ、すべては「意外な発見」になって、
平凡な日常もそれなりに面白くなってくるからだ。
つまらなく思える時、僕は必ず自分で動く。
とにかく探す。何でも調べる。何かを仕入れる。
そうして自分自身の在庫を増やしておけば、
いざというときに人のまいた種と連鎖的に繋がって、
面白いことに育ってゆくこともあるのだ。
それがまた、楽しい。

本当に面白いことというのは、主体性が必須だ。
僕は人を楽しませよう、面白がらせようとする時、
何よりも自分がまず楽しいか、面白いかを考える。
人の反応はその次のフィルターだ。
つまり、他人からどう見えるかというのはエフェクターであって、
オシレーターではいけないのだ。
今のエンタテイメントがつまらないのは、
売上げや視聴率ありきで、オシレーターがないからだろう。

もちろん客の反応を読むというのは外せない要素だ。
自己満足に陥っても面白いモノは出来上がらない。
自分のもっともやりたいことで、
客観的なフィルターを通してみても、
やはり最高に面白いなと思えることを言動に移す時、
だいたい10~20%程度が眉間にしわを寄せ、
50%程度が概ね面白がってくれ、
30%くらいが熱烈に支持してくれる。
これくらいがちょうどいいバランスだ。
これが達成できれば僕はおおよそ満足している。
100%の支持なんてあり得ないし、目指すものじゃない。
絶対に大味・薄味になるからだ。
逆に20%くらいに嫌われるようなクセの強さもなきゃいけない。
その20%までも引き込め、
そのためにはもっと垢抜けてカッコつけて口数減らせと、
事務所やメンバーに言われた時は苦痛だったが(笑)。

80%のウケ、の美学。
でもそれには凄くレベルの高いバランス感覚が要求されるのだ。
自分にも他人にも振り切らない価値観の針ともいうべきもの。
それは常に研ぎ澄まされていなければならないし、
そのためには野にある方が望ましい。
成功すれば人は権威になってしまうし、
権威からは絶対に質のいいものは生まれない。
提灯持ち、太鼓持ちに囲まれて感覚が鈍らないはずはないからだ。
この人が言うから面白いに違いない、笑え。
この人の作品だからワケわからなくてもスゴイに違いない。
映画監督になりたがるお笑い芸人には、
参院議員や都知事を志した猪木に近い、
権威への憧憬と渇望を感じる。
彼らほどの才能を持ってしてもなお、
その罠からは逃れられないのだなあと思う。

商業的な成功や、他者の評価はさておいて、
自分の感性と向き合い、磨き上げ、
野にあり、日常の中で活かすこと。
それこそが本当におもしろさと向き合える生き方かも知れない。

治りきらない5月病が、ジメジメした風にさらされて、
何だか湿っぽくなってしまう6月だ。
晴耕、雨の日はひたすらに読。
あえて独。たまに毒。
雨がやんだら、書を棄てて街に出るもよし。
楽しみは用意された環境の中にあるとは限らない。
周囲がつまらないのは当たり前だ。
みんな「お客さん」なんだから。
そういうときこそ、自分を磨くんだ。
自分さえ面白くあれば、やがて周りを面白く変える力が備わるようになる。
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