ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

校舎の一角に附属中学校の旧校名が

2010年12月28日 06時03分12秒 | Weblog
 この写真は、加東市山国にある兵庫教育大学附属中学校の中庭の一角に置かれている旧校名の銘板です。
 兵庫教育大学学校教育学部附属中学校、これが旧校名です。全部で17文字あり、書類に学校名を書くときに欄をはみ出しそうで困ったことも少なくありません。私は昭和57年の創立から平成15年3月まで20年余り勤務しました。校門の塀に取り付けられていた銘板が中庭の校舎の角にひっそりと置かれているのを発見し、思わずシャッターを押しました。
 全国の教員養成大学はほとんど都道府県庁所在地にあったと思いますが、兵庫教育大学は教員養成大学院大学という新構想の大学として神戸市ではなく、加東郡社町に設置され、その学校教育学部の附属中学校としてこの学校が嬉野に設置されたのです。
 入学したばかりの新入生にとって、この17文字の校名は舌をかみそうになったことでしょう。また、高校受験の3年生は何度も書類にこの長い校名を書いたことでしょう。現在は大学の附属中学校になり、6文字減って11文字になっています。
 これも加東市の歴史の一部を物語る証人だなと思いました。
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佐保神社の新しい風景

2010年12月26日 19時32分31秒 | Weblog
 佐保神社(加東市社)の冬景色は葉を落とした大けやきの太い幹と枝、そして空に向かって血管のように広がる枝が印象的です。大晦日、元旦の初詣、社えびすとこれから多くの参詣の人々で賑わいますが、その佐保神社に新しい施設ができ、ちょっと風景が変わりました。
 写真は参道から楼門を見たものですが、門前の大けやきの手前に公衆トイレができていました。屋根も瓦屋根で和風に仕上げられています。これまで、境内の手水場の近くにあったトイレ(写真左奥)は古く、小さなものだったので新しいトイレはきっと参詣者に喜ばれるでしょう。
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加東伝の助

2010年12月26日 05時22分55秒 | Weblog
 昨日、国道372号社バイパス田中工区の開通し、旧175号との交叉点に設けられたポケットパークに加東市のゆるキャラ「加東伝の助」の大きな絵が描かれていることを紹介しました。伝の助くんは今や加東市のアイドルとして市民に親しまれ、さまざまなイベントなどで大活躍しています。
 ポケットパークに立っている伝の助のプロフィールを紹介します。

○名 前・・・加東伝の助(かとうでんのすけ)
○出身地・・・加東市社50番地 
○生年月日・・平成20年11月5日(水)PM8:30
○年 齢・・・ずーっと15歳前後(変わりません)
○趣 味・・・多くの人にいろんなことを伝えること
○好きな言葉・・夢と元気
○尊敬する人・・小寺彦兵衛さん
○チャームポイント・・髪型が加東の「か」
加東市に「釣り針」を伝えた「小寺彦兵衛」さん。
その技は加東市だけでなく市外、県外へと伝えられ
ていきました。
「加東伝の助」はその「彦兵衛」さんの想いを受け
継いで誕生しました。
 「伝の助」は伝統文化を今に伝えます。
 ○昔の伝統文化を今に伝えます。
 ○今のいいものを未来に伝えます。
 ○いろんな情報を伝えます。
 ○夢と元気を伝えます。
 「伝の助」は、好奇心も旺盛です。
 様々なイベントや行事に参加して、加東市の
 いいところを市内外に伝えることも熱心です。
  そんな「加東伝の助」を応援してください。
 

 

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372号に伝の助のモニュメント

2010年12月25日 04時58分57秒 | Weblog
 24日(金)、加東市松尾の国道372号線社バイパス交差点で開通式が行われました。372号線のバイパス工事のうち、旧国道175号線と交わる松尾交叉点から現国道175号線までの田中工区間が完成し、これによって社バイパスの全線が開通しました。まだ河高野村工区の工事が残っていますが、加東大橋、JR加古川線の跨線橋などの大きな工事を含んでおり、24年度の完成をめざして工事が進められています。
 さて、372号線は千年以上の歴史をもつ、昔からの街道です。都と播磨、西国を結ぶ幹線道路でした。源平合戦の頃には義経や弁慶が駆け抜けた道であり、近世では西国巡礼の道、そして、阪神淡路大震災では迂回路として、時代を超えて重要な役割を果たしてきました。社の市街地を抜けていたために交通渋滞を引き起こしていましたが、このバイパス工事によって解消されることになるでしょう。物流や観光といった面で東西交通の要ともなっていくはずです。
 松尾交叉点には信号も設置されました。その交叉点にポケットパークが設けられ、加東市のゆるキャラ、加東伝の助くんが写真のようにモニュメントとなって敷かれています。新しい道の開通によって人、物、文化の新しい流れがつくられます。その一角で伝の助くんが迎えてくれることになります。
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社の銀座通りに日の丸の小旗が

2010年12月24日 05時13分56秒 | Weblog
 23日(木)天皇誕生日の昼前、加東市社の銀座通りを車で走っていると、舗装し直され、白線も美しい道路と街頭に掲げられた日の丸の小旗がまぶしく光っていました。
 社町時代、祝日には国旗を揚げようと町ぐるみの取り組みが行われていましたが、現在も社の市街地の街灯には祝日に国旗日の丸の小旗が掲げられています。各戸の玄関口や店先にも国旗が掲げられていますが、ずいぶん少なくなったように思います。社町時代の道徳かるたの一枚に祝日には国旗をあげて祝いましょうといった札がありました。
 皇居では天皇陛下の誕生日をお祝いする多くの国民が日の丸の小旗を振っている光景をテレビで見ました。学生時代、4月29日、皇居で旗を振ってお祝いしたことを思い出します。昭和天皇の「今日は誕生日を祝ってくれてありがとう」というお言葉は今も耳によみがえってきます。今上陛下の御健康をお祈り申し上げます。
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街角の芸術-空と像

2010年12月23日 05時21分47秒 | Weblog
 加東市の社庁舎の西側を走る道路、姉妹都市の名を冠してオリンピア通りと名付けられています。ステラパーク、中央図書館、体育館、JAみのり本店、武道館などが立ち並ぶ加東市の中心部です。
 台地の西端に位置するため、眺望は開けていて、見上げる空も広大です。その道路の一角、武道館、保育園に面した曲がり角に芸術の空間があります。女性が空に向かって両手を差し上げている像。台座には「制作 辻 弘」「寄贈 石川県金沢市服部鉱業株式会社」「昭和六十二年十月」と刻まれていました。辻さんは兵庫教育大学の美術の先生、服部鉱業さんは加東市平木で鉱山をもっておられる企業、その寄贈を受けて制作されたんですね。
 広い青空と女性像。写真にしてみると、まるで電線にぶら下がっているようにも見えました。ふるさとの街角に見る者の心が大きく開いていく芸術の存在にほっとします。
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義士の墓碑-吉田忠左衛門

2010年12月22日 05時32分12秒 | Weblog
 加東市家原赤岸の観音寺境内にある赤穂義士の菩提所には四十七義士の墓碑が主君を取り巻くようにコの字に並んでいます。菩提所の入口右手前には寺坂吉右衛門ら3人の墓碑があり、折れて南側の列の一番最初にあるが、四十七義士の参謀として知られる吉田忠左衛門兼亮(よしだちゅうざえもんかねすけ)の墓碑です。
 墓碑には 吉田忠左衛門の名と法名 刄仲光剱信士、年六十三 が刻まれています。吉田忠左衛門は加東市(旧加東郡)にゆかりの深い人で、加東郡奉行として穂積陣屋(加東市穂積)にあって、加東郡内の赤穂藩領地を治めていました。加東市立社中学校の前の状ヶ池、加東市多井田の聖神池などの普請を指揮したことでも知られています。江戸城で主君、浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こしたときも穂積陣屋にいたということです。映画最後の忠臣蔵の寺坂吉右衛門は吉田忠左衛門に従っていました。

辞世 君がため思ぞつもる白雪を散らすは今朝の嶺の松風
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義士の墓碑-堀部安兵衛

2010年12月21日 05時19分52秒 | Weblog
 一昨日のこのブログで、加東市家原の観音寺境内にある赤穂義士菩提所の墓碑配置図を紹介しました。中央に浅野内匠頭長矩公、その脇に大石内蔵助義雄、主税の父子、それを取り囲む義士の墓碑が並んでいます。
 写真は堀部安兵衛の墓碑(3基のうち中央)ですが、向かって右は大石瀬左衛門、左は貝賀弥左衛門の墓碑です。菩提所の中央背面の右の角あたりに並んでいます。
 墓碑の中に堀部安兵衛のように新しい石がいくつかあります。墓碑には、堀部安兵衛武庸(たけつね)の名、そして法名の 刄雲輝剱信士、三十四歳と刻まれています。堀部安兵衛の名は高田の馬場の決闘で知られていますが、こうしてその墓碑の前に立つと、その武勇に思いを馳せることもできます。
 辞世 梓弓ためしにも引け武士の道は迷はぬ跡と思はば  
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家原浅野氏の菩提所-善龍院

2010年12月20日 05時11分11秒 | Weblog
 義士祭に関係する話題を紹介し続けていますが、今日は善龍院を紹介します。
 観音寺(加東市家原)境内の四十七義士の墓碑を建立するために勧進(寄付)を募ったのは善龍院の僧明範でした。
 善龍院は赤穂浅野家の分家、家原浅野氏の3代、浅野長時が家原村に陣屋を設けたときに、菩提所として代々領主の位牌を納めて冥福を祈らせたと言われています。
 明範は善龍院の住職だったということですが、浅野明範ともよばれ、長州の出身とされていますが、詳しい素性はわかっていないようです。
 善龍院は加東市社、家原赤岸の観音寺から南へ、社の市街地への坂を少し上ったところにあります。
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義士の墓碑配置図-寺坂吉右衛門の墓碑も

2010年12月19日 06時06分36秒 | Weblog
 観音寺(加東市家原の赤岸)の境内にある赤穂義士菩提所には、浅野内匠頭長矩公、大石内蔵助、主税父子、そして義士の墓碑が建っています。
 菩提所は門をくぐり、境内に入って正面の本堂の脇を左手奥に入ったところにあります。入口手前に墓碑の配置図(写真)が掲示されています。菩提所に入る前に配置図から、四十七士の名を確かめておくのもよいでしょう。「最後の忠臣蔵」の寺坂吉右衛門の墓碑は階段を上って、菩提所に入ってすぐ右手前、3番目にあります。加東市をはじめ北播磨にゆかりの深い吉田忠左衛門の墓碑はその隣、南側の列の一番手前にあります。寺坂吉右衛門は吉田忠左衛門組足軽で、加東郡奉行だった吉田忠左衛門に従って当地にも来ていたようです。
 菩提所の義士の墓碑を一つずつ巡りながら、その名を確かめていくと時間の過ぎるのを忘れてしまいます。
 
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観音寺の薦誠碑

2010年12月18日 05時10分02秒 | Weblog
 赤穂義士の寺として知られる観音寺(加東市家原)境内の四十七士の菩提所の入口脇に大きな石碑があります。近寄ってその表を見ると、漢字がびっしりと刻まれています。これが「薦誠碑」です。
 この碑文は、弘化4年(1858)に観音寺に150回忌に合わせて赤穂義士の墓碑が建立されましたが、その寄付を募った善龍院の僧、明範の依頼で家原浅野氏の当主である浅野長祚(あさのながよし)が書いたものです。
 家原浅野氏は赤穂浅野家の分家(3500石)ですが、赤穂藩は滅びた後もそのまま残り、明治維新まで7代、200年続きました。善龍院(加東市社)は家原浅野氏の菩提寺でした。
 碑文には四十七士の墓碑建立の経緯、明範の呼びかけで、義士を偲びその忠義を讃える人々の寄付によって建立されたことなどが書かれているようですが、何分漢文ですので難しくて読解できません。碑文を書いた浅野長祚は江戸に生まれて、幕府の要職を務めています。鉄砲頭、浦賀奉行、京都町奉行、江戸町奉行などを歴任しています。京都では、火事にあった皇居の造営を指揮しています。また、学問にすぐれ、多くの著書を残しています。明治13年65歳で亡くなっています。
 義士の墓をお参りされるときは、入口の階段手前左手にあるこの「薦誠碑」を見て下さい。
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赤穂義士が赤岸の地名に

2010年12月17日 05時58分57秒 | Weblog
 義士祭にちなんで加東市家原の赤穂義士の寺、観音寺を紹介してきましたが、この観音寺は「赤岸の観音寺」と呼ばれているように、地名に「赤岸」(あかぎし)という名がついています。
 写真の通り、旧明舞国道175号線と社環状線が交差する社市街地の北端の交叉点の地名表示は「赤岸」となっています。
 この赤岸という地名は、赤穂義士(あこうぎし)が訛って赤岸(あかぎし)となったと言われています。観音寺の住所は加東市家原字御霊ですが、この「赤岸」の地名で親しまれています。
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義士を称える歌碑の隣に戦勝紀念塔が

2010年12月16日 06時25分14秒 | Weblog
 赤穂義士の菩提所がある観音寺(加東市家原の赤岸)の境内、本堂から菩提所へと向かう通路の右手に義士を称える歌碑があります。その隣に石塔があり、台石に「戦勝紀念塔」と刻まれていました。日清か、日露かと思いながら建立年を見てみると、明治三十八年十月十六日と刻まれていました。また、上部には千部妙典と刻まれており、日露戦争の戦勝を紀念して建立されたものであることがわかりました。
 嘉永年間の歌碑、そして明治時代の戦勝紀念塔と、この狭い空間に時間を超えて歴史がつまっていました。
 
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義士祭

2010年12月15日 05時21分57秒 | Weblog
 14日(火)、義士祭当日、朝の雨は上がり、冬の光がふりそそぐ好天になりました。寒風とちらつく小雪が定番の義士祭ですが、今日ばかりは暖かくて、観音寺境内のドラム缶のたき火が熱すぎる感じさえしました。
 さて、観音寺の赤穂義士の菩提所には朝からかわいい幼稚園児、保育園児がお参りし手を合わせる姿がありました。先生に引率されて園児らは歩いてきたのです。社幼稚園、社保育園、泉保育園の園児等です。正面の浅野内匠頭長矩の墓に向かって線香をあげ、あとは義士の墓碑をめぐりながら手を合わせていました。私も社保育園児だった頃に同じようにお参りをしました。もう半世紀余りも前のことです。
 奉賛会による追善法要が観音寺本堂で執り行われました。そして、午後には加東郡中学校駅伝大会の開会式も境内で行われました。私も40年余り前に同じように出場したことを思い出していました。また、南隣の家原薬師堂前では少年少女の剣道大会も行われました。義士にちなんださまざまな行事が観音寺を中心に行われ、一日中線香が絶えることはありませんでした。
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今日は義士祭

2010年12月14日 06時40分48秒 | Weblog
 12月14日、今日はいよいよ義士祭というのに、今、外は雨が降っています。
 もう40年余り前のことになりますが、社中学校時代、加東郡の中学校駅伝大会に出場しました。江戸城松の廊下の刃傷事件を知らせる早籠にちなんで駅伝大会が行われたと聞いていました。社小学校を起点に環状線を走り、中墓地から嬉野へ、さらに藤田ヘ下り、千鳥川の堤を走って、赤岸へと回ってくるコースだったと思うのですが、沿道には応援の人も出て、小雪がちらつくなか、タスキをつないで走ったことを思い出します。
 さて、観音寺(加東市家原の赤岸交叉点)では、法要、剣道大会、甘酒接待、福引き、駅伝大会などが行われる予定です。また、明治館(加東市社の市街地南端)では佐保亭落語会も開催されます。
 今日この歴史ブログで紹介したいのは、観音寺菩提所へと通じる通路の右手にある碑です。野之口正武の歌碑で、四十七義士を称える歌が刻まれています。嘉永三年と刻まれていますから、西暦1850年のこと、義士の墓碑が建立されてから3年後のことで、この菩提所を訪れた野之口正武が詠んだ歌が刻まれているのです。野之口正武は小野藩の藩校の教授だと聞いていますが、義士の忠義こそ「やまとごころ」の発するところであると称えています。  志貴しまのやまとこころはいひもかね名付てしらに尊かりけり
 
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