ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昔の社病院

2006年08月31日 18時21分15秒 | Weblog
昔の社病院

 写真の洒落た洋館の建物は、社市街地にあった社病院だそうです。ひょっとしたら薄病院(すずき)かもしれません。ちなみに昭和25年当時は外科薄病院となっています。古老の話によれば、大阪から招かれた薄恕一先生が院長だったと聞いています。詳しいことをご存知の方、情報を下さい。
 場所は、関西電力社営業所の建物の斜め向かいにある元トーホーストアの建物(今、やしろカウンセリングセンターのある)辺りです。

 今の社病院(加東市家原にある公立社病院)は、昭和の大合併後の新町建設計画の目玉として昭和30年代はじめに設置されたものです。
 
 
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嬉野の飛行場の痕跡

2006年08月25日 10時24分14秒 | Weblog
嬉野飛行場

 嬉野にグライダーの滑走場すなわち飛行場があったという話はよく聞きました。場所は、現在の附属小学校あたりだったとか。

 社町史第二巻本編2「近代編」の第3章には、社飛行場(嬉野の飛行場)について記しています。880ページには、アメリカ軍の飛行機が撮影した嬉野の写真をもとに作成された飛行場の地図が掲載されています。

 その地図をみると、附属小学校(旧社中学校敷地)、社高校の敷地を北西から南東にまっすぐに滑走路が描かれています。今は区画整理事業で住宅地に変貌していますが、60年余り前にはここに本当に滑走路があったんですねえ。
 写真は昭和30年代の嬉野の空中写真です。中央に社高校、そして旧社中学校が写っています。田圃が広がっていますが、その区切りを見ると、地図に符合するように滑走路とおぼしき区割りが写真左上から右下にかけてくっきりと見えます。

 さて、町史によると、昭和16年に、県下の青少年学徒に国防訓練や航空技術の訓練をするために、県立嬉野学徒錬成場がつくられることになり、社高女や青年学校の生徒が整地作業に出たそうです。18年に竣工し、八角形で知られる八紘寮もつくられました。
 昭和20年には滋賀海軍航空隊伊吹部隊に引き渡されました。伊吹部隊では、第一、第二播磨特攻隊が結成され、その支援部隊を含めて300人余りが嬉野にやってきました。
 伊吹部隊は開発中の局地戦闘機「秋水」に搭乗することになっており、そのための訓練を行っていたが、開発、実用化が遅れ、実戦に出動することなく敗戦を迎えたということです。
 
 嬉野の飛行場(滑空場)には、こんな話があったとは。
 
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社の忠魂碑-1953

2006年08月22日 04時44分42秒 | Weblog
53年前-忠魂碑の前で

社市街地の南端の「明治館」の敷地にある忠魂碑を6月24日に紹介しました。
中央の忠魂碑は大正15年3月、両側の碑は昭和28年建立と刻まれています。その昭和28年の整備の際の記念写真が見つかりました。

 今は碑の前に水平に枝を伸ばして、碑を隠してしまっている松も、53年前にはこんなに小さかったのです。周辺も今のように木が繁っておらず、すっきりした景色です。





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合併祝賀のひとこま

2006年08月19日 21時04分22秒 | Weblog
半世紀前の合併祝賀

 昭和30年、社町、福田村、上福田村、米田村、鴨川村の五か町村が合併して社町が誕生した。それから半世紀、今年3月20日、加東郡三町社町、滝野町、東条町が合併して加東市になった。
 旧町の解町、そして合併を記念するさまざな行事が開催されたが、半世紀前にも祝賀行事が繰り広げられたようだ。そのひとこまを切り取った写真を見つけた。

 場所は商店街。社病院前とある。今の関西電力社営業所より少し南、坂の途中あたりである。義士に扮した二人が写っている。祝賀の義士行列が行われたのだろう。 
 
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老松と太鼓屋台

2006年08月16日 18時30分16秒 | Weblog
社の老松をバックに

 この郷土史ブログの第一回投稿原稿は6月13日、「塀が歴史を語る」でした。どんな話だったかというと、旧社町の中心部の社地区の市街地に「老松町」(おいまつちょう)という地名があり、その由来は、大きな松の木(老松)が通りに面して生えていたからだ、ということでした。今はその松はなく、八坂神社(祇園さん)の塀の一部が、松を伐ったあとをセメントで塗りかため、その痕跡が残っているという話でした。
 
 その時に、証拠となる写真の話も紹介したのですが、その後写真が一時行方不明になり、掲載できませんでした。ようやく発見。今日はこれを掲載することができます。

 この写真は、佐保神社の秋祭の太鼓屋台の記念撮影のようです。昭和の初め頃のものと思われます。

 さて、どこの村の太鼓なのでしょうか。太鼓の特徴の一つ、飾りをみると、大きな海老が目をひきます。太鼓に詳しい人の話では、はっきりとしたことはわからないが、出水の太鼓ではないかということでした。どなたか、教えていただければうれしいのですが。

 さて、場所は社一区、八坂神社の交差点の前のようです。写真右の道路が今の商店街を南北に走っている通りです。写真左の奥、柳の木が見えますが、持寶院の境内になります。
 
 この写真の右に大きな松の木が写っているではありませんか。位置から見て、この松こそ、塀に痕跡を残している老松にちがいありません。相当大きな松だということがわかります。

 人物の顔もはっきり写っています。また、拡大してみると、白い法被の襟には佐保神社の三階菱の御紋が描かれています。人物の中で、棒の上に乗っている蝶ネクタイの人物が気になりますね。 
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聖神池

2006年08月14日 04時17分05秒 | Weblog
赤穂義士-吉田忠左衛門と聖神池

 加東市多井田(旧滝野町)の国道175号線の東の方に聖神池という名の池があります。「聖神(ひじりがみ)」とは尊い名前の池だなと思いますね。近くのお年寄りに聞きますと「ひじがみいけ」と呼んでおられました。
 この池の名の由来は、池の工事を指揮した吉田忠左衛門(よしだ・ちゅうざえもん)に対する人々の感謝と尊崇の念からついたそうです。
 さて、吉田忠左衛門とはどういう人物だったのでしょうか。
 忠左衛門は有名な赤穂四十七士の一人で、赤穂藩の家臣として、加東郡代をつとめた人物です。
 赤穂藩は赤穂とその周辺のほかに、加東郡(現加東市・小野市域)や加西郡(現加西市)に領地をもっていました。加東市の旧滝野町域では、多井田、穂積、曽我、北野、河高が赤穂藩の領地でした。
 赤穂藩は穂積に陣屋を置いていました。吉田忠左衛門は加東郡代としてこの領地を治める役人でした。
 この頃、多井田は水不足に苦しんでおり、池をつくることになりました。吉田忠左衛門は村内を調べて、池をつくるにふさわしい場所を定め、藩の許しを得て工事を始めました。
 ところが、そこに赤穂藩主浅野内匠守長矩(あさのたくみのかみながのり)の刃傷事件が起こり、赤穂藩はとりつぶしになってしまったのです。工事はその後も進められ、完成が迫ったころ、赤穂義士による吉良邸への討ち入りが行われました。その中に吉田忠左衛門もいたのです。

 赤穂義士と関係のある池、そしてそのことを今に伝える池の名前。これからも伝えていきたいですね。 
 
 
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光明寺合戦の伝説(3)

2006年08月13日 04時35分28秒 | Weblog
山鳩の夢
 
 光明寺合戦にまつわる伝説をもう一つ。山鳩の霊夢伝説を紹介しましょう。
 
 尊氏方の赤松則祐は五峯山の南の八幡山に陣を置いていました。
 愛曽伊勢守の童兵が神がかりになって伊勢大明神のお告げを叫んだという話を聞いて、赤松則祐も意気が上がらなかったのでした。
 そんなとき、息子の朝範が冑を枕にしてまどろんでいて夢をみました。尊氏方の一万余りの軍勢が城の塀に火を放ったところ、八幡山と金峯山から数千羽の山鳩が飛来して、翼に水を浸してその火を消そうとするのでした。
 朝範はこの夢のことを父則祐に話しました。すると、則祐は「これはこの城を攻め落とすことは難しいと思っていたが、神の護りがあったのか」と言いました。
 ちょうどその頃、美作(岡山県)から敵が攻めてくるという知らせが入り、赤松則祐は陣を捨てて本拠地の白旗城に帰ってしまいました。

 山鳩伝説ですが、鳩は八幡の使いであり、八幡山は山城国の男山八幡、金峯山は大和国吉野ということで、ともに戦いの神に通じることから、「神明の加護」があるということになります。

 写真は光明寺の仁王門です。光明寺合戦でもっとも激しい戦いのあったのが仁王堂(仁王門)の前だったということになっています。しかし、合戦当時の仁王堂は山の南斜面にあり、今の場所とは違っています。当時の参道が南斜面だったのです。

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光明寺合戦の伝説(2)

2006年08月12日 04時56分23秒 | Weblog
三本杉と井戸

 光明寺に立てこもった足利直義方の武将には石塔、上杉、そして愛曽伊勢守らがいました。激しい戦いが続いたあるとき、愛曽伊勢守に仕える童兵が突然、神がかり状態になって、3メートルほど飛び上がって叫びました。

 「われに伊勢大明神が乗りうつって、この城を守るために三本杉の上に居られる。寄手(足利尊氏方のこと)がいかに大勢であっても城は落ちぬ。高師直らは七日のうちに滅ぶであろう。ああ、熱い熱い。熱をさまさねば」

 といって、「あ伽井」(あは漢字なのですが表示できません)の中に飛び込みました。あまりの熱さに井戸の水が湯になってしまうほどでした。城方の兵士たちはこの話を聞いて勝利を信じるようになりました。

 さて、白旗伝説とともに光明寺合戦にまつわる三本杉の伝説というのがこれです。光明寺には、この伝説を今に伝える「あ伽井」の井戸と「三本杉」があります。
 写真はその大杉です。夕方、一人で光明寺を訪れ、伝説の井戸と参道の大杉辺りを歩いていると、何か怪しい雰囲気に包まれてきました。
 私自身、小学5年の時に「太平記」(少年少女向)をわくわくしながら読んだのですが、南朝方をよく書いてあるためか、尊氏や高師直については悪者の印象を持っていました。光明寺合戦の伝説でも、高師直はやはり悪者になってるんだなあと思いましたね。
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光明寺合戦の伝説

2006年08月11日 04時41分27秒 | Weblog
白旗伝説

 光明寺合戦にまつわる伝説を紹介しましょう。光明寺の境内には、町の観光協会が設置した合戦の案内立て札があちこちにあります。その一つに、白旗の伝説を紹介したものがあります。

 光明寺合戦では、足利直義方の石塔頼房らの立てこもった光明寺城(五峰山にある寺の建物などをそのまま城として使った)を足利尊氏、高師直の軍勢は激しく攻めたてましたが、城方の抵抗も強く、寄せ手も攻めあぐんでいました。
 そんな中、空の向こうから怪しげな雲がわきたったかと思うと、風に流されて飛んできました。その下に鳥の大群がいて、その中から一枚の白い旗が風に流されながら飛んできました。
 両軍の兵は、八幡大菩薩が加護して下さるものだと、自分たちの陣営に落ちてくるようにと手を挙げて取ろうとしました。旗は城方の上を上下に流れながら、やがて、寄せ手の上に飛んできました。兵は祈りました。そしてとうとう高師直のもとに落ちてきたのです。兵はこれで勝利間違いないと喜びました。
 白旗は反古(いらなくなった紙)をつないだもので、その裏に二首の歌が書かれていました。

 吉野山峯の嵐のはげしさに高き梢の花ぞ散りゆく

 限りあれば秋も暮れぬと武蔵野の草はみながら霜枯れにけり

人々の喜びもつかの間。これらの歌の不吉な内容を噂しあいました。
「高き梢」の高きは高家をさし、それが散りゆく・・・、「武蔵野の」は武蔵野守である高師直が、枯れる・・・といういずれも高師直方の不吉な運命を暗示しているということだったのです。
 写真は本陣跡から引尾山へ続く尾根づたいの山道です。


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光明寺合戦

2006年08月10日 05時36分51秒 | Weblog
足利尊氏や高師直らが・・・

 五峰山の山頂、光明寺本堂の裏に「光明寺合戦本陣跡」と刻まれた大きな石碑があります(写真)。
 光明寺合戦とは、今から670年余り前、五峰山を舞台に足利尊氏と弟直義(ただよし)方の軍勢がくりひろげた戦いのことです。
 足利尊氏といえば、室町幕府の将軍すなわち武家の棟梁ですが、実際の幕府政治は弟の直義が担当し、兄弟二頭立ての政治が行われていました。その二人が戦ったのは、尊氏の執事、高師直(こうのもろなお)と直義の権力争いが原因だったようです。
 五峰山の本陣跡というのは、光明寺にたてこもった直義方の軍勢の本陣が置かれた場所で、これを攻めた尊氏と高師直の軍勢は引尾山、そして鳴尾山に陣を置いたとされています。
 太平記には尊氏勢は一万、直義方は五千と書いてあり、戦いは立てこもる直義方の石塔頼房らの陣を尊氏、師直の軍勢が激しく攻めたてたと伝えられています。実際にどの程度の戦いがあったのかは定かではありませんが、直義方の援軍が迫り、尊氏勢は陣を引き払っています。戦いは10日余りだったようです。
 五峰山には駐車場から光明寺に登る道の各所に光明寺合戦の立て札があり、合戦の説明が書いてあります。

 
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新町地図-加茂小学校あたり

2006年08月09日 11時21分05秒 | Weblog
変わらないのは・・・

 尾縣斎さんの描かれた新町絵図の学校付近を見てみましょう。
 目印になるのは学校、道路、川、そして建物です。まず、学校ですが、加茂村立加茂尋常高等小学校となっています。現在は、加東市立滝野東小学校があります。地図を見ると、その敷地はだいぶ狭く、今の東小の運動場の西側半分程度しかないようです。学校下の三叉路の横から学校へ上がる道は今でもありますが、子ども達はふだん通学路として使うことはありません。地図によれば、昔、この場所に公会堂があったんですね。
 学校付近には、人力屋や文房具店、旅館などがあったことが分かります。 
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新町のにぎわい

2006年08月08日 11時47分32秒 | Weblog
明治末~大正はじめのころの新町

 上の絵は、今から約80年あまり前の加東市新町(旧滝野町新町)の街並みと通りのにぎわいを描いたものです。
 この絵は、新町在住の日本画家、尾縣斎さんが滝野東小学校での地域学習用資料として自ら描かれたものです。今回は尾縣さんのお許しをいただき、紹介します。
 
 さて、この絵をよく見てください。みなさんはどんなところに目をつけますか?
小学校4年生がこの絵を見て、気が付いたことは次の通りです。
・牛や馬がいる
・自動車が走っていない、人力車が走っている
・物売りのような人がいる
・子守りをしている
・家の屋根が青い・・・
などいろいろ細かいところまで観察していました。
 その中で、ある子どもが、道が広いことを指摘しました。たしかに広く見えます。新町のメインストリートは実際に広いのです。牛や馬、荷車が通ったり、つないだりするために広くつくられていると聞きました。
 人力車を知らない子どももいましたが、乗り合い馬車も描かれていて、子どもの注目を集めました。大正のはじめ、乗り合い馬車で、社、土山まで客を運んでいたようです。
 
 新町は今から約400年前に、加古川の舟運の町として開かれたました。近郷の村々から年貢米がこの新町に運ばれ、高瀬舟に積み込まれて、河口の高砂まで運ばれます。さらに海路、大阪まで運ばれたのでした。陸路を大阪まで運ぶより、河川や海路を使って船で運んだ方が大量に運べたわけです。
 それにしても、この絵に描かれた新町はにぎわい、活気がありますね。瓦屋根の大きな家が建ち並び、広い通りには人や荷車などが出て、声や音が聞こえてきそうです。
 今の新町は、道路は舗装され、カラフルな色の新しい家が建っています。しかし、朝夕の通学通勤時間帯をのぞけば人通りも少なく、活気はありません。
 高瀬舟の舟運とともに開かれ、栄えてきた河岸の町、新町。今ではかつてのにぎわいを知る人も少なくなってきました。しかし、この絵によって新町の過去の記憶をいきいきと再現することができるようになりました。
 
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滝野の道路元標

2006年08月06日 04時45分51秒 | Weblog
二つの道路元標

 以前、この「ふるさと加東んの歴史再発見」で、社町の道路元標が社市街地の三階交差点付近にあったことを紹介しました。今はもうありません。
 しかし、新町と上滝野には旧加茂村と旧滝野町の道路元標が今も残っています。道路元標は、大正8年の「道路法施行令」で、国道や府県道の起点・終点の基準として設置されたものです。
 加東市新町の滝野東小学校下の三叉路に「加茂村道路元標」、上滝野の滝見橋の西の交差点にも「滝野町道路元標」が残されています。
 写真は「滝野町道路元標」です。コンクリートの土台がつけられているので、まるで墓石のように見えますが、よくみると道路元標と刻んであります。

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加古川の渡し船-新町と上滝野

2006年08月05日 04時17分53秒 | Weblog
新町の船着き場
 
 加東市新町(旧滝野町)と対岸の上滝野を結ぶ滝見橋の下手、新町側(東岸)に、大きく岩が張り出しているところがあります。
 新町の通りからその岩場に下る細い道がついており、下りて行くと、人工的な船着き場の跡のようなところに出ます。
 これが新町の船着き場のあとなのです。新町はかつて加古川を上下していた高瀬舟による舟運の重要な河岸(川港・荷物の上げ下ろしをしていた場所)でした。その船着き場のあとが今でも残っているのです。

 さて、上の絵図は大正期の新町の街並みを描いた「新町の街並み図」の一部です。この絵は、新町在住の尾縣斎さんが滝野東小学校の総合学習のゲストティーチャーをされたときに、資料として描かれたものです。今回は、尾縣さんのご厚意で掲載させていただきました。絵には、新町の船着き場が描かれています。
 

 さて、新町の船着き場におりてみましょう。岩場には岩を削ってつくった段差の低い階段や、四角や丸にほられた穴を見ることができます。この穴は、舟をつなぎとめるために棒をさす穴だったようです。下の方から上の方までところどころにあるのは、水位によって棒をさす位置を換えるためだと古老に教えてもらいました。

 この船着き場は、対岸の上滝野との間に渡し船があった頃の渡し場でもあったのです。滝見橋がつくられた昭和のはじめまで、ここでは渡し舟が人々の往き来の手段として活躍していました。
 舟は上滝野側にあり、新町側から渡る人は、対岸に向かって「おーい」と声をかけて舟を呼んだといいます。
 
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乳池伝説(2)加西にも・・・

2006年08月04日 04時23分48秒 | Weblog
乳池さんを調べる

 17年の初夏、滝野東小学校の6年生2人と乳池さんを調べに出掛けました。泉と祠を調べたあと、近くに住んでおられる方に「乳池さん」について聞いてみました。すると、こんなお話が聞けました。

 戦後、粉ミルクが普及するまでは、赤ちゃんにやるお乳が出ない人や出にくい人にとって、「乳」は切実な問題でした。乳池さんの泉に行って水を汲み、その水でご飯を炊いて食べると乳がよく出るとか、その水でお粥をつくり、汁を赤ちゃんに飲ませたとか・・・。あるいは、乳池さんの祠にお祈りをして乳がでるようにお願いしたとか。とにかく、乳池さんの言い伝えは地域の人々の間で確かに生きていました。

 乳池さんが人々から忘れられたのは、やはりミルクの普及が影響しているようです。乳が出ない、という切実な問題が解消し、神様に祈る必要がなくなってしまったからでしょう。

 この乳池の言い伝えとよく似た話が、隣の加西市(谷町)にあり、「乳の井」の言い伝えとして伝わっています。話の内容は穂積の乳池さんとほとんど同じで、鳩が泉の水を口にふくんで、応神天皇のお乳として運んでいた、というものです。

 加西と滝野に同じような伝説が・・・。ひょっとしたら他にもあるかもしれません。写真は穂積の乳池のほとりにある祠です。
 
 
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