ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

8月30日の朝焼け-社から三草山、嬉野方面に燃える朝雲

2023年08月31日 04時27分51秒 | Weblog

 8月30日(水)の朝、自宅で調べ物をしていると、ふと見たブラインドのすき間から窓の向こうに赤く輝く光が見えました。あっと思ってカメラを持って玄関へと走りました。

 外に出て見ると、東の空が黄金色に輝いているではありませんか。久し振りに見た日の出前の輝く雲でした。そのまま、事務所のある建物の2階の廊下の一番東側まで行くと、手前に社の市街地の屋根、その上に遠く三草山の山並み(1枚目の写真の左下)、少し右には、嬉野台地の西端に建つJAみのり本所ビル、市役所などの上にたなびく朝焼けの雲を一望できました。

 それがこの写真です。デジカメとスマホのカメラ、両方で撮りました。昨夕は、雄大な夕景を見たばかりだったので、今朝の輝く朝焼けの景色は神秘的でした。今日はテレビの天気予報でも各地で見られた朝焼けの写真が紹介されていました。

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8月の終わりの夕景ー月は東に、日は西に

2023年08月30日 05時32分48秒 | Weblog

 

 29日(火)、夕方の4時過ぎから加東市社のわが家の田圃の草刈りをしました。日射しは強かったのですが、風が吹いて、心地よい気分で作業をすることができました。

 東を望むと、低い空に白い月が出ていました。周囲は大豆が植えられていますが、わが家の田圃だけが水稲です。西には、青野原台地の地平線に日が沈もうとしてしていました。月は東に、日は西に。広々とした「ゆらの」(加古川河岸段丘の低位面で社市街の西に広がる「野」の古い呼び名)の夕景でした。ちなみに今日の月は13日で、もう少しで満月です。

 

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嬉野飛行場ー「海軍工廠」73号に服部さんが投稿

2023年08月29日 06時30分20秒 | Weblog

 

 

 今日、加東市の服部武司さんから「海軍工廠」73号をお送りいただきました。73号には、服部さんの2本の原稿が掲載されていました。表紙をめくると、巻頭を飾っているのは、「映画のなかのフネ(飛行機) 永遠の0〈ゼロ〉」と題された文と絵でした。映画の場面の絵が9枚、手書きの解説入りで紹介されています。

 もう一本は、「嬉野飛行場(社海軍飛行場)」で、加東市のほぼ中央に位置する嬉野台地にあった嬉野飛行場(社海軍飛行場)の解説と8枚の絵です。昭和18年に県立嬉野学徒錬成場がつくられ、県下の青年学徒がグライダー訓練やなどの教練を受けていました。そうした歴史は、この歴史ブログでも紹介してきましたが、服部さんはそうした嬉野飛行場、錬成場の風景、グライダー滑空訓練や97艦上攻撃機、ロケット戦闘機「秋水」、米軍のコルセア戦闘機の来襲などの絵を描いておられます。グライダーで嬉野の空を飛ぶ絵の眼下には、八紘寮も描かれていました。

 記録写真も貴重ですが、服部さんの絵には、今にもエンジン音をあげて飛び去っていきそうな飛行機やグライダーに乗って空を飛ぶ女子学生の表情など、その声が聞こえてきそうな臨場感があります。嬉野飛行場の上空を飛ぶ米軍のコルセアの絵を見たとき、小さい頃、母親が娘時代にグラマンが飛んできて機銃掃射をしたという話をしてくれた時のことを思い出してしまいました。

 私も小学生、中学生の頃に戦闘機や戦艦などのプラモデルづくりに熱中し、細かい部分まで正確に絵を描いたりしていました。授業前の学校の黒板にゼロ戦を大きく描いた時の快感を覚えています。そんな少年時代のわくわく感と郷土史への関心が相俟って、感動しています。ありがとうございました。

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夕方、東の空に大きな虹が架かりました

2023年08月28日 05時09分39秒 | Weblog

 

 27日(日)、昨夜の激しい雷雨が嘘のような快晴の一日でした。そんな夕方、遊び帰りに寄って来ていた娘と孫が帰ろうとする頃、東の空に大きな虹が架かっていました。

 雨雲が流れてきて、ほんの少し雨粒が落ちてきたのを肌に感じていましたが、西に傾いた太陽の光を反射して東の空に虹が架かったのでした。色が薄くて七色の虹、とまではいきませんでしたが、雄大な景色に家族みんなでみとれました。

 しばらくたって、また、空を見上げると、わが家の屋根の上に黒い雲をバックに虹の一部が見えました。2回も虹を見ることができて、暑かった一日も嬉しい気分で終えることができました。

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雷雨で中止に-令和5年、4年ぶり開催の加東市夏のおどり

2023年08月27日 06時36分46秒 | Weblog

 

 

 26日(土)、加東市社の社中央公園ステラパークで開催された加東市夏のおどりは、激しい雷雨のために途中で中止になりました。4年ぶりの開催、夏休み最後の市のイベントだっただけに残念で、心残りになりました。

 午後5時から同じ会場で、これも4年ぶりの開催となった「佐保の夏まつりinやしろ」(社地域づくり協議会主催)が開かれ、ステージでは社中学校吹奏楽部の演奏、フラダンス、キッズダンス、伝の助音頭などが披露され、恒例のビンゴゲームに多くの人が歓声やため息をつきながら楽しみました。

 その時、空には、東と西に大きな入道雲が湧き上がっていましたが、会場の真上は青空が広がり、心地よい風が吹いていました。

 午後7時、いよいよ夏のおどりがスタートし、最初は伝統の播州音頭から始まりました。保存会の皆さんの歌と太鼓、踊りが終わり、さあ、これから踊り連が櫓を囲んで踊りを始めようとした途端に大粒の雨が落ち始め、雷鳴が轟きました。

 急遽,テントの下やステージなど屋根の下に駆け込んで、雨が止むのを待ちましたが、雷雨は激しくなるばかりでした。8時を過ぎた頃だったでしょうか、遂に実行委員会が中止の決定を放送。

 残念ながら、4年ぶりの加東市夏のおどりは、踊る前に終わってしまいました。もちろん、花火も夜空に輝くこともありませんでした。あの東に湧き上がっていた入道雲がやってきたのでした。これには勝てませんでした。仕方がありません。来年を楽しみに、そして、今年はこれで一つの思い出に。

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「昭和中学修身書」に聖徳記念絵画館の絵が掲載されていました

2023年08月26日 04時28分52秒 | Weblog

 

 先月8日に上京した折り、明治神宮外苑の聖徳記念絵画館を訪れ、絵画を鑑賞しました。絵の中には、中学校社会科歴史的分野の教科書や資料集に掲載されている有名な絵も少なくありませんでした。

 わが家の書棚にあった戦前の旧制中学校の修身教科書を手にとって見ていると、見覚えのある絵がカラー印刷で掲げられていました。この教科書は、まだ教師をしていた頃、町内の田町通りにあったお好み焼き屋のおじさんからいただいたもので、旧制小野中時代に使っていたという教科書です。

 「新制準拠 昭和中学修身書 巻二」は、17課から成り立っており、各課の題は、國體、皇祖皇宗、天皇、皇室、敬神崇祖と祭祀、國憲國法、臣民、忠君愛国、國民皆兵の精神、家、親子、祖先、夫婦、兄弟と親族、忠孝一致、戊申詔書(一)、戊申詔書(二)になっています。GHQが真っ先に否定したかった内容です。その中に、2枚の絵が綴じられていました。一枚は、「憲法発布観兵式行幸啓」、もう一枚は「岩倉邸行幸」です。

 「憲法発布観兵式行幸啓」の絵は、片多徳郎(かただとくろう)作。明治22年2月11日の大日本帝国憲法発布式の終了後、天皇皇后両陛下が青山練兵場で行われる観兵式に臨席されるために皇居を出発された時の絵です。冬のことで、雪が残っています。

 「岩倉邸行幸」は、北蓮蔵(きたれんぞう)作、明治16年7月19日、咽頭がんで病床にあった岩倉具視を見舞われた明治天皇のお姿を描いたものです。岩倉はその翌日に逝去しました。夏のことで、部屋に置かれた氷柱が描かれています。

 ちなみに行幸は天皇陛下が外出されること、行幸啓は天皇皇后両陛下が外出される時に使われる皇室用語です。

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平成12年(2000)8月の東条湖-貯水率27%の産経新聞記事

2023年08月25日 09時52分57秒 | Weblog

 

 今年は猛暑と日照り、大雨などで各地で被害も出ています。特に米どころ新潟県の日照りによる水不足で、収穫前の稲が倒れて枯れているようすがテレビニュースで報じられたり、東京都の水がめのダムの貯水率が下がり、小池知事が節水を呼びかけるなど、水不足が伝えられています。

 今から23年前の平成12年(2000)8月25日付の産経新聞に、「東条湖カラカラ」の見出しと、水位が下がって普段は水面下で見えない岩場がむき出しになっている写真が掲載されていました。8月24日現在の貯水率は27%まで下がっていると書かれています。それでも湖面を行く足こぎの小型ボートの営業は続けられていたようです。ちなみに今年の鴨川ダムの貯水率は8月7日現在、77%になっています。

 

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ユダヤ人を救った樋口季一郎-神戸新聞連載「人萌ゆる」で

2023年08月24日 05時18分45秒 | Weblog

 教員時代の新聞スクラップ帳の「歴史・人物」編に平成12年(2000)10月18日付神戸新聞の連載「ひょうごの近代鉱脈」第20回が貼り付けられていました。

 取り上げられていたのは、樋口季一郎でした。「国境でユダヤ難民を救出」「ドイツ間接非難で物議も」の大見出し、小見出しで、季一郎の肖像、礼装軍服、家族写真、戦地での作戦指揮の写真が掲載されていました。

 樋口季一郎は、南あわじ市の阿万出身の軍人で、関東軍ハルピン特務機関長時代にナチスドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人難民約2万人にビザを発行して満州国への入国させ、救出しました。日独の友好関係下、樋口季一郎は軍人でありながら、人種平等観に基づき、自身の判断でビザを発行したのでした。また、終戦時、第五方面軍司令官として北方軍を指揮し、終戦の詔勅があった後、ソ連のやり口を知り抜いていた樋口は、北海道占領を目論み、終戦後も千島列島、南樺太に侵攻してくるソ連軍に武器をもって抗戦せよと命令し、侵攻を遅らせ、結果、ソ連の北海道分割占領を阻むことになりました。まさに信念の人であったといえます。

 神戸新聞では、ユダヤ人救出が大きく取り上げられていましたが、ソ連軍への抗戦命令にも少しだけ触れていました。昨年、淡路の伊弉諾神宮に樋口季一郎中将の銅像が建立されました。軍服姿の樋口季一郎の姿を仰ぎながら、人種平等、祖国防衛に貢献した軍人樋口季一郎の信念を貫いた生き方にあらためて尊敬の念が湧いたことを思い出します。

 

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平成26年の大日如来祭(大日ったん)の護摩焚きと火渡り

2023年08月23日 05時11分04秒 | Weblog

 

 

 9年前の平成26年(2014)2月11日。加東市上久米の東光寺では、大日如来祭、通称大日ったん(だいにったん)が行われました。

 かつては、牛馬の守り仏として播州一円から農家の参詣があり、北播三大祭りに数えられるほど賑やかな祭りだったそうです。今も本堂には牛用の草鞋がまつってあります。本堂で行われる僧侶による大般若経の転読は迫力があります。

 寺の前の田圃では、山伏さんが護摩焚きをされます。そして、その残り火を参詣者が歩いて渡る火渡りの行が行われます。一年の無病息災を願い、素足になってまだ火があり、煙が出ている中を渡っていきます。もちろん私も山伏さんに背中をぽんと押されて、渡りました。この年は、8回目でした。足は順番を待っている間に冷たい田圃の土で神経がなくなっているような状態にはなっているせいもあるのか火渡りで熱いと感じたことはありません。

 ここ数年は、法要の前にお参りをして、神戸で行われる建国記念の日の式典に出席しているために火渡りをすることができていません。それだけに9年前の写真が懐かしい思い出です。


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数年前から庭に白いユリが-外来種の高砂ユリ?

2023年08月22日 05時25分42秒 | Weblog

 

 今年も庭の片隅に白いユリの花が咲きました。一本だけですが、数年前から咲き始めました。今年のように雨も降らず、かんかん照りの日が続いても、枯れもせずに同じ場所で細い茎と葉っぱを伸ばして、咲いています。

 神戸への道沿いにも同じユリが群生している場所があります。車で走りながら、同じユリだなと思って見ていました。調べてみると、どうも外来種の高砂ユリ(台湾原産)のようです。なんと駆除対象と書いてありました。日本にはユリの種類が多くあることも知りました。それぞれ特徴があって美しいものでした。

 どこからか運ばれてきて、庭に自生したんでしょうが、2輪咲いた年もあったように思いますが、今年は1輪だけ咲いています。よく似たものに新鉄砲ユリがあるようですが、もう一度調べてみようと思います。わが家の庭は、住宅地の中のジャングルのようなもので、植えたものと、鳥などが運んできて自生したもの、その他など植えた憶えがないものもたくさん生えています。私が幼児の頃に父親が建てた家ですが、家は建て替えましたが、庭は池を埋めたぐらいで、70年近く前からのものです。

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加東市河高にぎわいプラザのマンホールー酔っ払った弁慶

2023年08月21日 05時11分20秒 | Weblog

 14日(月)の夜、加東市河高の交流センターで盆踊り大会が開催されました。台風7号がやってくる前で、地区の老若男女が楽しまれました。私も参加しましたが、その帰りに隣接のにぎわいプラザの観光協会のそばにあるマンホールに目が止まりました。

 弁慶と牛若丸(義経)が描かれているのですが、弁慶が酒瓶を抱いて酔っ払っています。これは、加東市下水道マンホールの義経シリーズで、源平合戦の一ノ谷の合戦の前哨戦となった三草合戦があった加東市の歴史にちなんだデザインになっています。市内には、義経、弁慶にまつわる伝承が数多く残っています。その弁慶が持っている酒瓶は、酒米の王様山田錦の産地として知られる加東市にちなんだものです。市内には、特A地区とよばれる最高の産地があり、全国各地の酒蔵が加東市産の山田錦でつくった日本酒をつくっています。加東市では山田錦の日本酒乾杯まつりが行われており、多くの日本酒ファンで賑わいます。そうした加東市の特色を描いたマンホールの一つでした。

 ちなみに観光協会には、加東市産山田錦をつかった日本酒がずらりとならび、販売されています。

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台風のあとのノウゼンカズラ

2023年08月19日 05時10分41秒 | Weblog

 

 庭のブロック塀にくっつくように生えているノウゼンカズラが台風のあと、また、花をつけました。というのもだいぶ前、7月の末に咲いたのですが、日照りが続いた間は花を見ることはありませんでした。しかし、先日の台風7号が通過したあと、だいだい色の花をたくさん付けていました。雨が降ったせいなのでしょうか。蕾もついています。

 毎年、秋の終わりには幹だけになるほど剪定をします。翌年には逞しく枝を伸ばし、ブロック塀を乗り越え、また、柿の木の枝にもたれかかりあがら枝を伸ばして、その先にこのだいだい色の大きな花を付けます。この花は華やかで夏、南の国を連想させてくれます。

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朝日を浴びて鳴く電柱の上のイソヒヨドリ

2023年08月18日 05時43分01秒 | Weblog

 

 夏の朝、時折り美しい鳴き声が聞こえてきます。イソヒヨドリです。胸から腹の部分が赤いというか、オレンジ色で、背中は水色がかった灰色のイソヒヨドリ。周囲を見渡せる高い所に止まって鳴き続けます。

 この写真は13日(日)の早朝に近所の電柱の天辺近くで鳴いているところを撮したものです。逆光だったのですが、腹の部分が朝日に光っているのが見えました。カメラを向けてもしばらくの間鳴き続けてくれました。

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昭和57年度兵教大附中の郷土史研究クラブ女子班「東条ダムと水路調査」

2023年08月17日 05時08分08秒 | Weblog

  

 15日(火)、自宅の資料を整理していた時、表紙が色あせた小冊子が目に止まりました。「東条ダムと水路調査〈1〉」と題し、ダムの写真が印刷されていました。筆者は、兵教大附中郷土史研究クラブ女子班で、4人の懐かしい女子生徒の名前が記されていました。

 郷土史クラブの指導は私でした。女子生徒らを連れて、鴨川ダム(東条ダム)に見学に行き、ダム湖(東条湖)畔の食堂「富久鶴」さんの経営者、藤原さかえさんから、ダム建設にまつわる土井部落立ち退きの由来の話を聞きました。今でも東条川疏水についての講演などでは、その時の写真(上)を使ったりしています。

 報告書は、4人の女子生徒が東条ダムの「水」になって、東条ダムから幹線水路に出て、水路橋やサイフォンで谷や川を渡り、ポンプアップで嬉野台地に駆け上り、水路を流れていく・・・といったストーリーで水の流れを追っていく形式でまとめられています。

 当時の中学生はもう50歳を超えていますが、私は今も東条川疏水にかかわって語ったり、書いたりしています。台風通過中で、自宅で見つけ田附中生の40年余り前のレポートをついつい読み込んでしまいました。

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朝の忠魂碑と佐保神社瑞神門のセミ

2023年08月16日 05時11分01秒 | Weblog

 

 昭和20年(1945)の終戦から78回目の8月15日、台風7号が兵庫県を瀬戸内海から日本海へと縦断ししていきました。午後2時30分頃には、その大きな目の中に入ったのか、雨と風がぴたりと止みました。小野市の西側を通過していったようです。いつもなら、朝、忠魂碑、佐保神社、大師殿にお参りし、戦没者の御魂に祈りを捧げ、夕方には精霊送りをし、滝野地域の盆踊りにという一日を過ごしますが、今日は一日を自宅で過ごしました。精霊送りも盆踊りも中止されました。いつも通りできたのは、仏壇の前でお経をあげたことだけでした。

 13日(日)の朝、忠魂碑と佐保神社にお参りしました。忠魂碑は、大正15年(1926)に建立され、敗戦、占領が終わり昭和28年(1953)に英霊尊名碑が建立されました。英霊尊名碑には、西南戦争以来の戦没者の名が刻まれていますが、大東亜戦争が最も多く、195柱の英霊の御尊名が刻まれています。私の母方の叔父2人の名もあります。

 佐保神社への参道を歩き、さあ、瑞神門で一礼をしようとすると、足下にアブラゼミが腹を上にしてころがっていました。このセミも最後のお参りをしたのか、などと思いながら写真を撮り、セミを大ケヤキの根元に移そうとそっと手で掴むと、なんと足で私の指をしっかりと掴み返すではありませんか。なんだ、まだ生きていたのか、と思い、しっかりと掴み直して、ケヤキの木に止まらせようとしましたが、飛んでいきました。最後の力をふりしぼったのか、それともただ寝ていただけなのか、それはわかりません。ほっとしたというか、よかったという思いが湧いてきました。

 戦前、郷土から出征していく兵士は、この佐保神社で武運長久を祈願していきました。今、本殿の修復工事が行われています。

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