ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

生まれ変わった学校道

2012年03月24日 05時16分48秒 | Weblog
 何日か前に加東市社の田町通りから社小学校に通じる「学校道」の舗装工事を紹介しましたが、22日の卒業式、23日の終業式を前に「文」の字のマークに緑の色が塗られて完成しました。これで、この道が「学校道」として新生したわけです。
 私も通った、子供も通った、そして多くの人がこの「学校道」を通って社小学校に通いました。戦時中には社小学校で戦死者の葬儀が行われたので、この学校道を遺骨が凱旋した記録もあります。今、カラーで「文」の字が描かれ生まれ変わりました。これからも社小学校がある限り、この道を子供達が通り過ぎていくことになるでしょう。そして、これからも朝だけですが見守りを続けていくことになるでしょう。
 
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山国熊野神社-寛政五年の石燈籠

2012年03月22日 04時12分00秒 | Weblog
 加東市山国の熊野神社境内の石燈籠は、寛政五年の建立です。今から219年前のことになります。寛政の改革で知られる松平定信が老中をやめた年です。ヨーロッパではフランス革命が起こり(1789)、ルイ16世がギロチンで処刑されたのが1793年です。
 その頃、この熊野神社に石燈籠が建てられ、以来、200年余りの年月が経ったということです。時代はこのあと、外国船の出現が頻繁になり、やがて、幕末へと向かっていきます。200年余りの間、この石燈籠は参拝する人々を迎え続けてきたんですね。
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卒業前に学校道装い新た

2012年03月21日 05時22分57秒 | Weblog
 3月22日は加東市内の小学校では卒業式が行われます。その卒業の日の前に、子ども達が毎日通学で通る道がきれいに舗装されました。
 私は、毎朝、7時30分から約20分間ほどの見守りに立っています。加東市社の市街地、田町通りから社小学校までほぼ一直線の道がありますが、この道を地域の年輩の人達は「学校道」と呼んでいます。社小学校の児童がこの学校道を登下校しています。現在では、社二区、三区、四区、五区、田中、松尾、出水地区の児童が通学班で並んで登校します。
 私が立っているのは自宅のすぐ近く、関西電力社営業所と社消防会館の交差点です。私が小学生だった頃には社町役場があった場所です。私も社三区の中田町(なかたまち)の通学班でこの場所に集合してから登校していました。
 その学校道がこの度、舗装工事が完成して、交差点にはカラー舗装、そして「文」の白文字が大きく描かれました。明日卒業する6年生は卒業前に装い新たになったこの学校道を通って最後の登校をします。
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天理教社大教会

2012年03月20日 04時52分12秒 | Weblog
 17日(土)、天理教社大教会創立120周年記念の行事が開催されました。明治25年(1892)に社に天理教の教会ができてから120年という記念の年にあたります。昭和15年(1940)社大教会となっています。
 大教会は社の市街地(社一区)にありました。私の家のすぐ近くだったのでよく覚えています。昭和35年(1960)に現在地に移転しています。旧神殿も移築されています。
 昔は開拓農家の他は何もない嬉野の広大な松林でしたが、今では付近に兵教大宿舎や住宅、そして国道372号社バイパスが通るなど都市化しています。写真は現神殿です。
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源平合戦ゆかりの地-義経お手植えの松

2012年03月19日 05時16分12秒 | Weblog
 加東市社の市街地に山氏神社があります。「やまうじ」神社が正しい呼び名ですが、社の人々から「やもりさん」と呼ばれ親しまれています。境内は駐車場になっていますが、私が小さい頃はサーカス小屋が建ち、興業が行われていました。保育園から抜け出して小屋の中に入ると、網の球の中を轟音を響かせながらオートバイがぐるぐる回っていたのを今でも鮮明に覚えています。
 山氏神社の氏子は、広野屋(ひろのや)と号する肥田氏一族で、肥田氏の氏神とされています。肥田氏は広野屋の屋号があるように、「広野」とよばれた社の原野を支配してきた古い豪族です。伝説によれば、多田氏の娘、八重が義経にお茶を出したことがきっかけで、義経は家来の土肥弥太郎遠平と結婚させ、土肥の肥と、多田の田をとって肥田の姓を名乗らせたといわれています。
 ちなみに「ひろの」とは、社市街地の東側に広がる原野をさし、「ゆらの」は西側一帯の呼び名だったようです。「ひろの」も「ゆらの」も社の古い地名ですが、今も地名や公共施設、あるいは屋号などに使われて歴史を伝えています。
 そんな山氏神社の境内には、けやきやむく、くすのきの大木が生えていますが、その中に玉垣に囲まれた特別な一角があります。その中に一本の石柱が立っており、「九郎判官源義経公お手植えの松」と刻まれています。玉垣の中にはまだ幹の細い若い松が数本生えています。何代目になるのか分かりませんが、元はここに天を衝くような松の大木が生えていたのです。
 義経が一ノ谷の合戦の前哨戦となった三草山合戦で平家を破り、逃げる平家を追って社まで来たときに植えた、と伝えられています。この歴史ブログで、その松が写っている昭和初期の写真を紹介しています。(2006年7月20日投稿)
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早春の三草山遠望

2012年03月18日 05時01分22秒 | Weblog
 三草山(標高423メートル)は加東市のシンボル的な山です。この歴史ブログでも何度も紹介してきました。源平合戦の古戦場としても知られています。
 この山は独立の山塊で、南西の平野部から見ると、屏風を立てたように中央に山頂部、両側に尾根が広がっています。小野市からもよく見えます。播磨から丹波への入口、丹波から播磨への入口になる位置にあるため、軍事的にも重要な地点になっていました。源義経や足利尊氏らがその麓を駆け抜けていった歴史の舞台でもあります。
 嬉野台地から望む早春の三草山です。
 
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皇紀2600年記念碑-山国青年団

2012年03月17日 06時31分01秒 | Weblog
 加東市山国の熊野神社の境内に1本の石柱が立っています。この石碑には、「皇紀二千六百年記念碑」、側面に「昭和十五年十二月十一日 山国青年團建之」と刻まれています。
 皇紀2600年は昭和15年(1940)のことです。今から72年前に山国の青年団がこの記念碑を建立したのです。この歴史ブログで紹介しましたが、加東市市立社小学校の築山にも社青年団が建立した2600年記念碑があります。その記念碑には青年団員の刻まれており、父の名前もありました。
 当時の山国青年団員の方もおそらく90歳を越えておられるのではないでしょうか。県庁3号館の近くにも皇紀2600年記念碑があります。今年は皇紀2672年です。大東亜戦争の敗戦、占領の時代を乗り越えて屹立する石碑よ、永遠なれと祈りました。
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山国熊野神社の手水石

2012年03月14日 05時03分42秒 | Weblog
 加東市山国(やまくに)は加東市のほぼ中央、嬉野台地の西部に位置する広大な面積をもつ地区です。標高100メートルから120メートルぐらいの高台にあり、西を望むと、加古川の流れる平地、さらにその向こうには青野原台地、そして播磨平野の平坦な風景が広がっています。そのために山国から見る夕日が美しい。地平線にゆっくりと沈む夕日、夕焼けは雄大です。
 さて、その山国の集落の西の端に熊野神社があります。社の市街地が下川の流れる谷の向こうに望める台地の端に玉垣に囲まれた杜が熊野神社です。
 境内には石燈籠、百度石、狛犬などの石造物がありますが、手水場の盥石は立派なもので、刻んである字を見ると、「明和四年」とありました。西暦1767年、今から245年前、江戸時代の享保、宝暦のあとです。田沼意次という老中がいましたが、そういう時代のものです。
 手水石には水道が引かれていますが、この石そのものは約250年もの間、参拝する人々の手を見てきたことでしょう。
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加東市の義経伝説が一目で

2012年03月12日 06時27分57秒 | Weblog
 しばらく投稿をさぼってしまいました。投稿は早朝のいわば、「行」のようにやっているのですが、ここしばらくその時間がとれませんでした。
 さて、先週の土曜日、やしろ歴史民俗研究会の役員会に出席しました。その折りに、メンバーの方から一枚のパンフレットをいただきました。
 
「丹波道を駆け抜ける 義経伝説~加東と京都~」と書いてあり、鎧武士姿の義経と仁王立ちする弁慶が山道(義経道)の写真に描かれています。開いてみると、加東市を北東から南西に横切る京街道(丹波道を軸として点在する義経伝説の地と伝説が紹介してある。

 丹波から順に紹介すると
不来坂(こぬさか、このさか)篠山市
只越峠(ただごえとうげ)篠山市
清水寺・・・弁慶の碁盤、大塔(跡)
御所谷(平家谷)
弁慶の力石(弁慶が薙刀を突いた跡)
三草山(三草山合戦)
平家本陣跡( 々 )
いくさ野・悲し池(逃げる平家の女性が水を飲んだ)
薬師堂
宝蔵寺(喜田)
百旗立(源氏が百本の白旗を立てた場所の地名)
義経お手植えの松(山氏神社)
佐保神社
下川・源氏橋・源ヶ坂(源氏にちなんだ地名)
東実の佐保神社
弁慶の投桜(弁慶が投げた桜の枝がやがて大木に)
朝光寺
掎鹿寺(一ノ谷に向かう源氏)
渡瀬(三木市)
  となる。
岩、石、木、地名などに源平にちなんだ伝承が残っています。車で回ってもよし、ウォーキングを楽しんでもよし。これからがいい季節です。ぜひ、義経伝説を訪ねて加東市にお越し下さい。
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