加東市社の田町通りは市街地中心部から東に向かって延びる道筋で、今は静かな住宅街になっていますが、かつてはさまざまな商店が軒を連ね、社で一番賑やかだった通りです。
明治の中頃、この田町筋に加東米穀取引所が設けられました。北播磨各地から米の取引客が集まり、大阪堂島の米相場からの情報が入り、取引が行われたとのことです。通りには旅籠や料理屋、検番もあり、客で賑わったとのことです。
堂島からの相場情報は、旗振りで行われたそうです。大阪から西宮の甲山→六甲山→須磨の旗振山→神出の雄岡山→志方の城山→社の田町と、計約76キロの距離を旗振りの回数や振り方で相場を伝えたということです。加古川市の志方の城山の旗振りが社から見えるかという実験をやったという話を聞きましたが、ちゃんと見えたそうです。当時の情報ハイウェイだったんですね。
現在の田町通りにはその名残はありませんが、佐保神社境内には「大阪堂島有志」の名が刻まれた日露戦役記念塔、加東米穀取引所と刻まれた御大神宮さんの小祠の玉垣にその歴史を偲ぶことができます。
今回、故上月輝男先生が遺されたメモをご子息の上月敏彰氏から見せていただきました。輝男先生がご健在の頃、直接教えていただいたことを思い出しながら紹介しました。