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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

米相場で栄えた社の田町通り

2020年09月30日 05時30分40秒 | Weblog
 

 加東市社の田町通りは市街地中心部から東に向かって延びる道筋で、今は静かな住宅街になっていますが、かつてはさまざまな商店が軒を連ね、社で一番賑やかだった通りです。
 明治の中頃、この田町筋に加東米穀取引所が設けられました。北播磨各地から米の取引客が集まり、大阪堂島の米相場からの情報が入り、取引が行われたとのことです。通りには旅籠や料理屋、検番もあり、客で賑わったとのことです。
 堂島からの相場情報は、旗振りで行われたそうです。大阪から西宮の甲山→六甲山→須磨の旗振山→神出の雄岡山→志方の城山→社の田町と、計約76キロの距離を旗振りの回数や振り方で相場を伝えたということです。加古川市の志方の城山の旗振りが社から見えるかという実験をやったという話を聞きましたが、ちゃんと見えたそうです。当時の情報ハイウェイだったんですね。
 現在の田町通りにはその名残はありませんが、佐保神社境内には「大阪堂島有志」の名が刻まれた日露戦役記念塔、加東米穀取引所と刻まれた御大神宮さんの小祠の玉垣にその歴史を偲ぶことができます。
 今回、故上月輝男先生が遺されたメモをご子息の上月敏彰氏から見せていただきました。輝男先生がご健在の頃、直接教えていただいたことを思い出しながら紹介しました。
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27日の夕日-社中央公園ステラパークから

2020年09月29日 05時21分53秒 | Weblog
 

 27日(日)の夕方、社中央公園から夕日を眺めました。地平線に落ちていく夕日を見ていると、今日も一日が終わるという実感に包まれます。空と大地と、その間の私たち人間、そして、太陽に宇宙の広さを感じる一時です。公園では散歩をする外国人の若者グループやボール遊びをする幼児を見守る母親の姿がありました。みんな今日という一日の終わりをこの公園で過ごしているのでした。
 金屋谷池に面したステレパークの縁は港の波止場のような雰囲気に作られています。立ち並ぶ旗の掲揚柱の綱が風に鳴っています。青野原に沈む夕日をカメラで見ると、異様に大きく見えました。手前の送電線の鉄塔がミニチュアのようでした。
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網戸のカマキリ

2020年09月28日 05時22分01秒 | Weblog
 庭に出ようとしたとき、網戸の内側にカマキリがいるではありませんか。えっ、なんで外側じゃなくて内側なのか、と思いながら、遊びに来ていたもうすぐ2歳の誕生日を迎える孫に見せました。カマキリ、と指さして教えると、カマキリと反復していました。もっと見えやすいようしてやろうとカマキリの首の辺りをつかむと、その鋭いカマを背中側にまわして私の指を攻撃してきました。痛っ。結構強い力でした。これは孫には触らせられません。見るだけ、と孫を抱き上げしばらく観察しました。首をくるりと回して背後の人間を威嚇するカマキリ。でも、なぜ内側に?の疑問は解けませんでした。カマにやられながら、網戸の外側にくっつけてやりました。しばらくすると、その姿は消えていました。
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彼岸花と稲穂ー加東市の新定と藤田で

2020年09月27日 06時41分24秒 | Weblog
  

 今年は彼岸花を見ることが少ないと思っていたのですが、車で走っていると、ようやく田圃のあちこちに赤い花の塊を見かけるようになりました。
 26日(土)、加東市新定地区の県道を走っていると、田圃の畦に赤と白の彼岸花がさいているのが目に飛び込んできました。「ほんまもん山田錦」の幟の立つ田圃には、色づきはじめた山田錦の稲穂が波打つ海のようになっていました。さらに、藤田地区を走る県道では、木梨神社の参道へ入ると、「獺祭」の幟の立つ田圃の畦に赤い彼岸花が咲いていました。まだ開いていないものもあり、これからが見頃なのかなとも思いました。日本一の酒米「山田錦」の産地の秋は、やはり真っ赤な彼岸花がよく似合います。今日は曇っていたので鮮やかさに欠けますが、彼岸花に出会えてほっとしました。
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朝の雨の学校道と、雨上がりの夕日

2020年09月26日 05時28分25秒 | Weblog
 

 25日(金)、今日は朝から一日雨でした。夜明け前から強い雨音が聞こえるほどで、久しぶりに本格的な雨降りになりました。朝の社小学校の登校見守りも合羽を着ての見守りでした。学校道には、長い傘の列が伸びました。雨の日は傘と長靴と相場が決まっていると思うのは古いのでしょうか。長靴を履いているのは低中学年の児童が多く、高学年の男子は運動靴が目立ちました。
 午後6時前に、三木市内での用を済ませ、国道175号を加東に向かって走っていると西の地平線にちょうど日が沈むところでした。信号待ちで止まっている間にその光景を写真に収めました。西の空は晴れてたなびく雲の縁が夕日に照らされ光っていました。
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東条ダムの語り部-藤原栄さんと中学生(昭和50年代末)

2020年09月25日 05時59分39秒 | Weblog
 この写真は、今から約40年近く前の昭和58年頃(1983)のもので、東条ダム(鴨川ダム)湖畔で食堂を経営しながら、ダム建設の由来を語っておられた藤原栄さん(故人)とダムの学習のためにダムを訪れた兵庫教育大学附属中学校の生徒の写真です。
 藤原さんはダム建設のために湖底に沈んだ土井の方で、ダム建設と立ち退きの由来を写真や自ら書かれた由来記を食堂の壁に掲示して熱心に語っておられました。当事者だけにその思いがよく伝わってきました。藤原さんには、学校にもお越しいただき、生徒に話をしていただきました。
 藤原さんのことは、この歴史ブログでも何度も紹介をしてきましたが、今、東条川疎水ネットワーク博物館としてダムと疎水、地域の文化について地域の貴重な宝としてその価値を再発見し、未来に繋げていこうと取り組みが進められています。藤原さんは40年前にすでに「語り部」として活動をしておられたのです。
 藤原栄さんと出会ったのは、附属小に勤務していた昭和56年に「ダムと嬉野台地の開拓」の学習に取り組んでいた時でした。約40年経った今でも、藤原さんの甲高い張りののある声と笑い声が今でも耳に残っています。
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昭和56年-兵庫教育大学附属小2年目の景色

2020年09月24日 05時25分36秒 | Weblog
 

 この2枚の写真は、昭和56年(1981)、兵庫教育大学の附属小学校が新校舎で迎えた2年目の風景です。
 1年目は、旧嬉野公民研修所(現在は加東みらいこども園)の建物を使用していましたが、2年目は、現在地に新校舎が完成し、本格的な教育活動が始まりました。といっても児童は学年進行で1,2年生と4,5年生しかいなかったのですが、新しい学校づくりへの意欲に満ちていました。1枚は運動場での体育の授業場面。運動会の練習ではないかと思います。
 向こうに見えるのは大学の官舎ですが、当時はフェンスだけで、まだ植栽の木が見当たりません。もう一枚は、雨の日、まだ区画されただけの校舎と運動場の間に出ている子供の姿です。校舎の2階教室から写したものですが、何もないようで、実は子供にとっては、絶好の遊び場であり、学びの創造の場であったのです。映っている児童はその後、附属中学校でも教え、今では社会人として活躍しています。この附属小学校の場所は、実は、元社町立社中学校があった場所で、昭和40年代はじめに私が過ごした場所でもありました。懐かしい附属小草創期の風景でした。
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秋分の日の朝の八郎町池と薬師堂

2020年09月23日 05時33分46秒 | Weblog
 

 秋分の日の22日の日の出の頃、自転車で社の市街を走り抜け、田圃を見に行ったついでに近くの八郎町池の方まで農道を走りました。
 この池は東条川疏水のため池(登録番号10号) で、イオン社店の南に広がる田圃の中、田中地区の集落の北にあります。朝日に照らされ、水面や堤が光っていました。その向こうにお薬師さんのお堂が見えます。このお薬師さんは昔から「ハメよけ薬師」として知られています。また、加東四国八十八ヶ所霊場の第八十五番霊場になっており、仕上げに近い霊場です。
 池の堤に白一点、シラサギの姿がありました。今日の朝日はまさに真東から昇っていきました。
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シラサギとアオサギ-大池の朝

2020年09月22日 05時23分41秒 | Weblog
  

 21日(月)の早朝、社の市街を歩き、大池まで来ると、朝日の光が池面や堤を明るく照らしていました。その中に一点の白が目に入りました。シラサギです。静かにカメラを取り出し、ズームしてみると、鏡のような池面にその優美な姿が映り、天地が分からなくなるほどでした。しばらく見ていると、ふとその手前に動くものが目に止まりました。アオサギでした。堤の草にとけ込んで姿に気づかなかったのです。アオサギもシラサギも忍び足で歩きながら、時折りくちばしを水の中に入れては、また、歩いていました。朝食の時間だったのですね。
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網戸のヤモリ

2020年09月21日 05時46分19秒 | Weblog
 

 涼しくなって庭では秋の虫の音が聞こえてきます。夏の庭の主役だったセミから交代です。カーテンを開けると網戸に白いものが。ヤモリです。体をくねらせ、白い腹を見せています。驚いて一瞬動きましたが、そのあとはじっとしていました。網戸を少し開けて腕を伸ばして外側からも写真を試みました。やもりの表と裏の写真です。
 小さい頃、もう今はありませんが、古い家の磨りガラスにヤモリの影をよく見ていたことを思いだします。ヤモリは光に集まる虫を待っていて食べるんだと教えてもらったことも忘れません。目の前の小さなヤモリも食卓の光に誘われて網戸に来るのを待っていたのでしょう。
 
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東条西小128年の歴史に最後の運動会

2020年09月20日 05時52分54秒 | Weblog
 

 19日(土)、加東市立東条西小学校で運動会が行われました。128年の歴史がある同校ですが、来年、東条学園小中学校が開校するため、今年が西小としての最後の運動ということになりました。東条中学校ブラスバンド部の演奏で49名の児童が堂々の入場行進を行い、自主参加の東条中生が運動会の補助員をつとめていました。
 コロナ対策のために規模も縮小され、午前中10種目で行われました。リレーのバトンや手袋も自分持ちで臨んだということでした。1番目に行われた赤組、青組の応援合戦ではリーダーの指揮の下、1年生まで全員が声を合わせ、手振りを揃えての迫力ある応援を繰り広げました。審査があったのですが、まさに甲乙つけ難しの出来映えでした。また5番目の全校児童による表現種目「よさこいソーラン」は運動場いっぱいに広がって躍動する西っ子の心意気を披露してくれました。
 空は青く澄み、白い雲が流れ、心地よい風が吹いて最高の運動会日和の下、西小最後の運動会は同校伝統の「開魂精神」が発揮された素晴らしい運動会でした。
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義経が通った道を探る-平成9年に兵庫教育大附中生と

2020年09月19日 05時49分38秒 | Weblog


 加東市内には源平合戦の三草山古戦場をはじめ、義経・弁慶に関する伝承が数多くあります。三草合戦は、有名な一の谷の合戦の前哨戦で、京都から播磨へと入り、一の谷に向かった義経勢が三草山に陣取る平資盛率いる平氏を奇襲した戦いです。その義経が駆けた道を辿りながら、郷土の歴史を探る学習「義経は社に来たか」をテーマに兵庫教育大学附属中学校の生徒が取り組みました。三草山合戦場、社の山氏神社、源ヶ坂などを自転車で巡り、現地で、地形や遺物、伝承を調べたのです。
 写真は、三草山麓の国道372号線沿いのモニュメント、弁慶のなぎなた石、かなし池跡辺りで調べる生徒のようすです。23年前ですから、私もまだ若かったんですね。この生徒たちはもう35、6歳になっているはずですが、ふるさとの歴史や伝承を友人や子供たちに語り伝えている姿を想像しています。
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昭和57年夏-まだ赤土の校地でキャンプ兵庫教育大学附属中

2020年09月18日 05時37分21秒 | Weblog
 昭和57年(1982)の7月、その4月に開校し、第1期生が入学した兵庫教育大学附属中学校(開校当時の正式な名称は兵庫教育大学学校教育学部附属中学校という17文字の長い名前でした)では、夏休み前の7月に学校の敷地でキャンプを行いました。赤土がむき出しのまだ整地されていない場所で、現在は武道場が建っている辺りです。
 この日、長崎県では豪雨となり、大水害が起きました。夜遅く、雨が降り出し、急遽、校舎内に避難することになりました。男子のテントでは、すぐに荷物をまとめて避難しましたが、女子はなかなかすぐには避難できませんでした。理由は、持ち物などを片付けるのに手間取ったためでした。「これ、あんたの」「それは、私の」などとテント内で整理をしている堂々たる様子に、思わず笑ってしまいそうでした。1期生も今では50歳になっています。
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できたばかりの兵庫教育大学附属中学校校舎-昭和57年

2020年09月17日 06時20分22秒 | Weblog
 昭和57年(1982)、加東市山国の一角に兵庫教育大学の附属中学校の校舎が完成しました。その前年の56年は、隣にある附属小学校に勤務していましたが、中学校の工事を見ながら完成を楽しみにしていました。完成とともに附属中学校に異動し、新しく誕生した学校づくりに参画することになり、まさしくゼロからの学校づくりを体験することになりました。はじめの仕事は机や椅子を運び込む作業だったことを憶えています。
 この写真は、完成したばかりの真新しい附属中学校の校舎です。まだ、植栽がされておらず、シンボルの欅の大樹もありません。ここから歴史が始まり、38年。この景色がどう変わったのでしょうか。
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日没後の空に関電タワー

2020年09月16日 05時16分28秒 | Weblog
 15日(火)、日が沈み、空から光がだんだん消えていく頃、家に帰り着きました。車を降りて、西の空を見上げると、関電タワーの鉄骨が黒い線となって浮かび上がっていました。手前の電柱、電線も空に描かれた黒い線となって、太線、細線、波線・・・。空には、黒い線だけが描かれていました。毎日、見慣れている景色ですが、何か、一枚の絵を見ているような感じを受けました。
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