ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

八志路幼稚園-今昔

2014年01月31日 06時01分56秒 | Weblog


 上の写真は、加東市社にあった八志路幼稚園の園舎です。昭和10年代の写真ですが、昭和30年代、私が小さかった頃の記憶にある幼稚園の懐かしい風景と変わりません。
 八志路幼稚園は、大正3年(1914)、社町有志が御大典記念事業として創立したもので、はじめは三階旅館(加東市社)を借りて園舎とし、佐保神社の境内を遊び場として始まったそうです。園舎が上町に建築されたのは、大正7年のことで、清水寺が経営し昭和53年まで続いた私立幼稚園です。
 私は3年間社保育園に通いましたが、八志路幼稚園は家からすぐ近所だったので、よく遊びに行きました。田圃の畦を通って、生垣の隙間から園庭に入り、セミを捕ったりして遊んだ日々を懐かしく思い出します。
 現在、幼稚園があった場所には、下の写真のように5階建てのマンションになっています。
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社南本町商店街の今昔

2014年01月30日 06時59分40秒 | Weblog


 上の写真は昭和10年代の加東市社の商店街の南本町の風景です。夏の日差しの下、軒を並べる商店には幟があがり、書店の前には自転車が狭しと置かれています。
 下の写真は現在の同じ商店街の風景です。ほぼ同じ場所から撮したものですが、上の写真に比べてずいぶん変化しています。店構えはいわゆる近代化で新しくなっていますが、閉店したり、更地になったりしている店も多く、かつてのような活気はなくなっています。この間、80年の歳月がながれています。もうこの賑わいを取り戻すことはないのかもしれませんが、かつての姿を子供達にも伝えておきたいと思います。
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佐保神社ー今昔

2014年01月28日 05時17分19秒 | Weblog


 加東市社の街の中心に佐保神社があります。この歴史ブログでは一番多く紹介してきたのではないでしょうか。境内の建造物、石造物、秋祭りに加えて、戦前の郷土からの入営退営奉告祭の挙行など数えきれないほど取りあげてきました。
 その佐保神社ですが、上の写真は昭和10年代のもので、瑞神門と大石灯籠の間から舞殿や拝殿、本殿が見えます。これとほぼ同じ位置から撮影した現在の景色が下の写真です。70数年の歳月が2枚の写真には流れています。
 その景色は殆ど変わりがありません。境内へ入る通路の玉垣が取り払われ、拝殿の奧に民家が見えるようになった、瑞神門に鳥除けの金網が張られているぐらいでしょうか。地域の人々の信仰の中心として祈りと感謝の場であり続けているお宮さん。時代によって祈りはさまざまであったしょう。
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63年の歳月-街の景色も変わった

2014年01月27日 05時24分41秒 | Weblog


 街の風景の今昔をシリーズで紹介していますが、ごくありふれた身近な風景を昔の写真と比較してみると歳月の流れをしみじみと感じることがあります。
 家のアルバムの中に私が生まれる前の父の写真がありました。昭和26年、愛犬ジョンと一緒に撮ったものです。
 1951年ですから63年前です。場所は加東市社の旧社町役場の東隣、我が家の東隣の田圃です。写真には、右手に農業倉庫(納屋)、そしてトラック、刈り取られたあとの田圃、遠くに民家、さらに三草山が写っています。
 今は田圃は民家になっていますし、その向こうの田圃も宅地や貸店舗、銀行、郵便局、パン屋さんなどが建ち並び、もう田圃はなくなりました。小さい頃、この田圃の畦を走り回って遊んでいたことを懐かしく思い出します。三草山が見えていたんですね。
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田町通りにあった御大神宮さんの今昔

2014年01月26日 05時04分03秒 | Weblog


 加東市社の田町通りに御大神宮さんの祠がありました。写真は昭和初期のもので、田町通りにあった御大神宮さんの前で一人の少年が写っている貴重な一枚です。
 この御大神宮さんの由来はこれまでにもブログで紹介してきましたが、再掲します。

田町にあった御大神宮さん
 田町筋は、西から西田町、中田町、そして東田町と三つの町割があります。中田町と東田町の境を分ける路地と田町通りが交わる服部家の前に、昔、御大神宮さんの小宮がありました。
 今は佐保神社境内の西側に遷されて、その跡には何もありませんが、中田町の人々は、毎年7月25日に佐保神社の境内の小宮に参って、昔のままにお祭りをしています。
 さて、この小宮について、故・服部千代子さん(中田町)はこんな言い伝えを紹介しています。
 江戸時代のはじめの頃、ある日、空から御幣がひらひらと舞い落ちてきたので、人々は「これは勿体ないことだ。おろそかにできない」と、お金を出し合って家の前に小さな祠を建てたそうです。小さいながらも玉垣で囲って立派なものだったといいます。その後、昭和のはじめになって、田町筋(県道)を清水行や三田行の定期バスが通ることになり、幅5メートルほどの道の真ん中あたりまではみ出していた祠を移転することになりました。当時の町内会長さんが佐保神社の宮司さんに相談を持ちかけたところ、佐保神社の境内に移すことになったのです。
 服部さんの手記では、「遠い昔、江戸時代の初期だったかもしれません」と書いてあり、時期ははっきりしていません。「空から御幣がひらひらと降ってきた」から思い浮かんでくるのが、お伊勢参りとの関係です。伊勢信仰は江戸時代に絶頂を迎えます。全国各地から人々はお伊勢参りの旅にでかけました。その信仰を広めるために各地にお札を配っています。元禄時代にはお札を各地に降らしたという記録もあるそうです。中田町に降ってきた御幣もそうしたものだったかもしれません。

 下の写真は現在の田町通りの御大神宮さんの小宮があった服部家のあたりです。ちょうど車が止まっている辺りだけ道路が少しいびつに広くなっています。まさに祠があった場所なのです。今はかつての賑わいはありません。しかし、田町の歴史を物語る御大神宮さんは中田町の人々の心に刻まれています。

 
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関電社営業所の今昔

2014年01月25日 05時43分36秒 | Weblog


 加東市社の市街地のランドマークになっているのが関西電力社営業所のタワー。加古川の中位河岸段丘である社の市街地に立っており、周囲に高い構造物がないこともあって、遠くからでもこのタワーを望むことができます。
 さて、上の写真は昭和10年代のものです。関西電力は戦後の昭和26年に発足していますので、この写真は、前身である関西配電(昭和16年設立)時代のものか、あるいはそれ以前のものかもしれません。建物正面の上部に「中」の文字が見えます。これは中国合同電気株式会社の社章ではないかと思われますが、どなたか詳しい方はおられないでしょうか。
社における電灯事業の歴史を見ると、明治時代末(44年)に東播電気株式会社によって電灯が灯されたとされています。会社は、はじめ田町筋に設置されたようですが、大正10年、溜池(別所池)を埋め立てた現在地に移転し、さらに翌年、姫路水力電気株式会社(明治30年設立)に合併され、その東播営業所になっています。その後の電力事業の歴史がよくわかりません。播磨地方では、中国合同電気が姫路を中心に西播や岡山で事業を展開していたようです。
 下の写真は現在のものです。
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社の市場-今昔

2014年01月24日 05時54分24秒 | Weblog


 加東市社の市街地のほぼ中央から東へ延びる一筋の道があります。この道筋がかつて社の市街地で古くから一番賑わった田町筋です。現在では商店は激減し、昔ながらに営業している店舗もありますが、静かな住宅街に変化しています。

 田町には西から西田町、中田町、東田町の3つの町内会があります。私は真ん中の中田町に属していますが、長老から昔の賑わっていた頃の話を聞かされたものです。もちろん、私が小さい頃も商店が軒を並べていました。おもちゃ屋、豆腐屋、肉屋、歯医者、本屋・・・何でも揃ってしまうほどでした。

 この田町通りの真ん中より少し西より、通りの北側に駐車場や倉庫になっている一角があります。(写真下)
 かつて、この場所に市場がありました。市場の名称は「株式会社・社海陸物産定市場」で、塩、魚、乾物、青物、果実などの食料品が取り引きされ、この地方の食料流通拠点の役割を果たしていました。
 写真は昭和初期のものだと思われます。市場の前に勢揃いした当時の関係者のものです。前列中央には、社町長(旧社町:昭和の合併前の社町)になり、さらに日本運送を起こした大橋実次氏、また、のちに社町長(新社町)になる父、藤本豊治の若き日の姿も写っています。当時、父は市場に住み込んで働きながら文学にのめり込んでいたようです。
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360年の伝統の祭-善龍院の初庚申

2014年01月23日 05時55分15秒 | Weblog
 21日(火)、加東市社の善龍院で360年の伝統を持つ初庚申祭りが行われました。朝は曇ってはいましたが、境内には9時前から参拝の人が次々と訪れていました。

 善龍院は、涌羅野山慈眼寺善龍院の寺号をもつ真言宗のお寺です。赤穂の浅野氏の分家である家原浅野氏の菩提所として代々の領主の位牌が納められていることや、初庚申(年始の庚申日)には多くの人々が参詣し、庚申寺として知られています。

 庚申とは、「庚(かのえ)申(さる)」十干十二支の組み合わせで60日に一度めぐってきます。庚申堂の本尊の青面金剛大明王(しょうめんこんごうぞう)、すなわち庚申さまは、開運、厄除け、五穀豊穣、無病の守り本尊として昔から信じられています。

 9時頃に庚申堂にお参りし、「庚申お猿」をいただきました。布でつくられた猿のお守りですが、「災難を去る(猿)」ということで、このお守りをいただき、翌年奉納すると、ご利益があり念願がかなうといわれています。お参りしたあと、よもぎ団子と昆布茶の御接待を受けました。朝ご飯を食べてそんなに時間が経っていませんでしたが、甘さと昆布茶の味が格別でした。

 昼前には大般若経が奉読され、開運厄除、七難即滅、七福即生、福寿円満、風雨順時、五穀豊穣、交通安全、家内安全が祈念されるということでした。庚申堂の内部正面にはよく神社に祀られている鏡がありました。あれっと思いましたが、善龍院は明治維新までは佐保神社の社僧を務めていた関係ではないか、というお話を聞きました。その奧の秘仏は60年に一回の御開帳ということで拝むことができませんでした。

 昨日のブログで紹介した神姫バスの昔の車庫の向かいが善龍院です。

 
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神姫バス車庫の今昔

2014年01月22日 05時38分38秒 | Weblog


 加東市社の商店街の北端近く、下り坂にさしかかるあたりに善龍院があります。その向かい側に道に面して駐車場のように区切られた一角があり、かつて神姫バスの車庫があった面影を残しています。
 上の写真は昭和10年代の神姫バス車庫を撮影したもので、当時のバスや自動車が写っています。小さくて見えにくいのですが、バスの行き先表示は「二見行」と読めます。女性の車掌さんやシェル石油の給油施設も写っています。
 馬車や人力車に代わって自動車が登場したのは大正時代のことでした。社では、大正9年(1920)に社自動車運輸株式会社が営業を始めています。社から、加古川、天神、大門、相野などへの路線をもち、神戸に出かける商売人も多かったようです。
 しかし、火事で車庫や車が焼け、資金繰りが悪くなり、昭和3年に、神姫自動車株式会社(のちの神姫バス)に吸収合併されました。
 写真をくらべてみると、車庫のあたりは住宅に変わっていますが、区切られた一角はそのままのようです。
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明治橋今昔

2014年01月21日 05時42分07秒 | Weblog


 兵庫県最長の加古川の支流、千鳥川が加東市社の市街地の北を流れています。社と滝野方面を結ぶ旧国道175号線にこの千鳥川を跨いで明治橋が架かっています。
 明治橋の思い出といえば、小さい頃にお盆の精霊流しをこの橋の上から流れに投げ入れたことが浮かんできます。
 さて、上の写真は昭和10年代の明治橋です。右岸すなわち梶原側(滝野方面)から社方面を望んだ風景です。赤岸から社市街地あたりには松林が見えます。
 下の写真は同じアングルから見た現在の風景です。今もバスが通り、車の通行量が多く、小中高生の通学路にもなっています。
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社町役場跡-今昔②

2014年01月20日 04時43分22秒 | Weblog


 この写真(上)は、昨日紹介した社町役場(加東市社の市街地にあった建物)の北側で登校するために集合している社三区の中田町の小学生を撮影したものです。昭和30年代半ばのものです。
 役場の建物と車庫、そして左手にはまだ用水掘があった頃の写真です。同じ場所、同じアングルで撮ったのが下の写真です。
 すでに役場はなく、駐車場になっており、その敷地の一角に建つ店舗(今は閉店)が写っています。
 写真には9人の小学生が写っていますが、この中に私もいます(左から3番目)。当時は一つの町内会(中田町)だけでも10人近くの小学生がいたんですね。今では田町筋(西、中、東)と道池町内会の4町内会で男子が数人、女子は3人という減少ぶりです。
 冬にはこの場所で一斗缶に焚き火をしてもらいみんなで火にあたって温まったことを覚えています。半世紀あまり前の風景と今の風景を比べてみて下さい。
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社町役場跡の今昔

2014年01月19日 04時56分19秒 | Weblog


 写真(上)は加東市社にあった社町役場です。元社税務署の建物で、この写真は昭和10年代の税務署時代のものと思われます。
 現在は、その建物はなく、跡地は駐車場(社連合区)と社消防会館・社分団詰所と一部民家になっています。それが下の写真です。ほぼ同じ位置から撮してみました。右手の建物が消防会館で、左の箱のような建物が民家(店舗)です。

 もうすぐ加東市の新庁舎が完成しますが、現在の社庁舎は今から42年前の昭和47年(1972)に完成しています。それまでは市街地の写真上の建物が社町役場だったわけです。
 役場には中庭があり、よく遊びに行きました。また、北側に防火用水の池があり、そこに架けられた橋を渡って宿直室や中庭に行っていました。魚がぷかぷかと口を広げて泳いでいたことを覚えています。
 正面玄関は西向きで田町通りから社小学校に通じる通称「学校道」に面していました。道の向かいは関西電力の営業所との間の一段低くなったところに田圃がありました。
 この写真の役場で昭和の合併の調印式が行われたのです。旧社町と福田村、上福田村、米田村、鴨川村の1町4村が合併して社町が誕生したのです。59年前の昭和30年(1955)のことでした。
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山国の八坂神社の石灯籠

2014年01月18日 05時03分13秒 | Weblog
 加東市山国の観音堂の隣に八坂神社があります。同地区のグラウンドがあるこの地では夏に盆踊りや花火大会が開かれます。高台にあるため見晴らしがよく、澄み切った冬の空気の向こうに五峰山も望めます。
 さて、八坂神社の石灯籠は天保11年建立と刻まれていました。西暦1840年ですから174年前です。皇紀でいえば2500年です。その頃、どんな風景が広がっていたんでしょうね。
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成人の日の社交番-国旗が掲げられ

2014年01月17日 05時45分47秒 | Weblog


 1月13日は成人の日。加東市社の嬉野口交差点(社環状道路から学園道路へ入る交差点)にある社警察署の社交番が明るい日差しに白く光っていました。
 社中央公園をバックに八角の建物と屋根の上の時計台が目印になる交番です。ちょうどパトカーが止まっていました。嬉しかったのは交番に国旗が掲げられていたことです。写真では見えにくいのですが、交番入口にちゃんと掲げられています。
 この交番に隣接して植え込みがあり、その真ん中に一本の石柱が立っています。これは今上陛下の誕生を祝って昭和9年(1934)に当時の社町青年団社支部が建立した国旗掲揚柱の支柱で、公園ができる前から金屋谷池の堤に立っていたものです。
 今上陛下は昭和8年12月23日にお生まれになりましたが、待望の皇太子誕生を祝ったもので、当時青年団員だった父親の日記にもそのことが記されています。きっと高々と日の丸が掲げられていたのでしょう。
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加東市の新庁舎を見つめる少女像

2014年01月16日 05時49分32秒 | Weblog
 12日(日)の昼頃、加東市の新庁舎の近くを通っているとき、まるで新庁舎を眺めているようなポーズの若い女性の像が目にとまりました。
 オリンピアロード(姉妹都市のアメリカ合衆国ワシントン州の州都オリンピア市との友好を記念した名)の一角にありますが、これまでの工事もきっと見続けてきたのでしょう。もうすぐ新庁舎もオリンピアロードも完成します。メモリアルパークの西の入口付近です。ぜひこの角度からの景色も楽しんでみて下さい。
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