ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

まち風景-社の老松町あたり

2011年07月31日 05時21分10秒 | Weblog
 この写真は加東市社の市街地、一区の八坂神社の角から北方面を写したものです。カラー舗装された道路が鮮やかです。両側に緑の歩道帯、交差点には茶色が塗られています。左に見えるのが八坂神社で7月には祇園さんの祭りが行われます。この朱色に塗られた塀の一部にコンクリートの色がそのままの部分があります。かつて生えていた松の大木(老松)を取り込んで塀が造られ、やがて老松の跡をセメントで塗った部分が色違いで残ったということです。この辺りの町内は「老松町」といいますが、松の大木が多く生えていたことから名がついたと言われています。
 写真の右手奥に白い建物があります。現在はコミュニティーセンターになっており、神戸新聞の北播総局が入っています。かつて、この辺りに県事務所がありました。明治の郡制施行で、加東郡役所が置かれ、昭和時代には加東地方事務所、その後は財務事務所など県の地方機関が置かれました。郡役所の前の道路はいち早く舗装されたということもあったようです。
 八坂神社の角を左に入っていくと慈眼寺持宝院があります。加東四国八十八ヶ所霊場の八十八番仕上げの霊場である大師堂があり、日本一木造大師像が安置されています。
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懐かしの半鐘-鐘とサイレン

2011年07月30日 05時29分50秒 | Weblog
 写真は加東市社の旧役場裏にあった社の半鐘です。今は役割を終えて撤去されてありませんが、わが家の屋根越しに写した懐かしい半鐘です。
 この半鐘には幼い頃から多くの思い出があります。小学生の頃、2年続けてわが家の南にあった風呂屋が火事になりました。正月の間だったと思いますが、夜、激しい半鐘の鐘の乱打が家族の団らんを破りました。真っ赤に燃える風呂屋の大屋根と鐘の音。今も忘れません。消防団員になってからはさらに縁が深くなりました。ホースを干すためにはこの半鐘の上の台まで梯子を上らねばなりません。結構高く、しかも上に行くほど揺れるのです。できるだけ下を見ないようにして上り、上の台に立つとその見晴らしの良いことに爽快感を味わうことができます。四隅の突き出した棒にホースを引っかけます。櫓の途中に上って待ち受けた団員が鉄骨にホースをからませて風でぶらぶらしないようにします。そんな作業を今では懐かしく思い出します。
 ある休日の夕方近く、作業をして早めの風呂に入っていると、ばちばちという音が聞こえてきます。火事の音だと思い、飛び出ると、半鐘のすぐ横の家屋が激しく燃えていました。空家になっていたので心配だったのですが、本当に火事になってしまったのです。先輩団員が櫓の途中まで上って2階へ放水する勇姿は今も目に焼き付いています。
 この写真はホースが干してあります。そして、櫓の真ん中あたりに黒く写っているのがサイレンです。昔は土曜日の昼にこのサイレンが鳴っていたように思います。低い音からゆっくりとウ~と鳴り出すのですが、腹の底から何か恐怖心が湧いてくるようでした。空襲の時にも成っていたんじゃないでしょうか。昼でも夜でも社町内で火事があれば鳴っていました。このサイレンの音を聞いて長靴をはいて詰所まで全力で走って出動していました。
 今ではその詰所がわが家のすぐ隣の旧役場跡に移転してきています。櫓は撤去され、コンクリート柱のホース干し台に変わりました。サイレンは相変わらす設置されて鳴っています。
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社の農会倉庫

2011年07月28日 05時09分55秒 | Weblog
 昨日は町内のラジオ体操が行われている地区の集会所前の路地の風景を紹介しました。そこに建っている木造の倉庫は社農会の倉庫だった建物ですが、今は使用されていません。昨日も書いたように、この場所は倉庫も含めた区画が家畜市場でした。市場が現在の社郵便局、駐車場の場所に移転したあとに、映画館ができました。その映画館がなくなり、あとには住宅や店舗などが建ったのですが、こうして時代とともに風景が変わってきました。今、農会の倉庫がぽつねんと残っていますが、やがてこの倉庫も取り壊され、風景の中から消えていくことでしょう。
 この倉庫の2階に地区の子ども樽神輿が納められ、秋祭りの前には役員が集まって倉庫前で組み立てをしたこと、溝普請や道普請のあと、倉庫の中の畳の部屋で落ち着きをやり、今は亡き先輩からいろいろ教えてもらったことなどが走馬燈のように浮かんできます。しかし、そうした懐かしい過去の記憶も留めておかないかぎり、消滅してしまいます。
 ラジオ体操の子ども達がやがて大人になった頃、この地の風景はどのように変わっているだろうか。このブログに何でもないまちなかの過去の記憶を伝える建物を残しておきたいと思います。
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夏休みのラジオ体操

2011年07月27日 05時46分37秒 | Weblog
 夏休みといえば、朝のラジオ体操。毎朝の登校見守りがラジオ体操に変わりました。今年も私の地区では、集会所の前で十数人の子ども達が参加しています。大人はおじいさん、お母さん、そして見守りのおじさんである私の3人が参加しています。
 この集会所がある場所は、私が小さい頃、昭和30年代は牛市場がありました。その後、映画館になり、といった具合に思い出多い場所です。今は社三区東田町(ひがしたまち)の集会所や住宅になっています。写真の左側に写っている木造の建物は社農会の倉庫です。今は使われていませんが、この倉庫の中の和室で農会の溝普請や道普請のあとの落ち着きをして先輩からいろいろ話を聞いたものです。また、三区の子ども樽神輿もこの倉庫に格納してもらっていました。
 今の子ども達が大人になったとき、この集会所や倉庫はあるのだろうか。この路地でラジオ体操をした小さい頃を懐かしむことができるだろうか。そんなことを思いながら、体操をしています。
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町内会で守る御大神宮さん

2011年07月26日 06時04分30秒 | Weblog
 7月25日(月)、佐保神社(加東市社)境内にある御大神宮さんのお祭りが行われました。
 御大神宮さんは社地区の中田町(なかたまち)町内会がお祀りしている小宮さんです。佐保神社の広い境内の西側に数社の小宮さんが一列に並んでいるのですが、その真ん中あたりに御大神宮さんがあります。天照皇大神宮と染め抜かれた幟が立てられ、幕が張られた祠に町内の老若男女がお参りし、家内安全、町内繁栄の祈りを捧げます。
 この御大神宮さんは元は社市街地の田町通りに鎮座していたものですが、昭和の初期に県道である田町通りにバスが通るというので、拡幅のために佐保神社に遷されました。祠に張られた幕には昭和十二年十月と奉納年が染められています。田町通りは社地区ではもっとも古くから繁栄し、商店が軒を連ねていた商店街ですが、今はさびれてしまっています。中田町はその通りの真ん中あたりの町内会で、かつては40軒ぐらいあったのですが、今は十数軒の小さな町内会になってしまいました。それでもこの御大神宮さんを大切に守っています。新しく町内に越してこられた家族も参加され、少し賑わいが出てきました。
 毎年7月25日と決まっているこのお祭りをいつまでも伝えていきたいものです。
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長谷の祇園祭-夏の踊りが始まる

2011年07月11日 06時00分29秒 | Weblog
 9日(土)、加東市長谷地区の大歳神社境内で祇園祭が行われました。祇園さんは毎年7月6日と決まっていたのですが、今年は雨になり9日に延期されたということでした。公民館、グラウンドが同じ場所にあり、グラウンドには踊りのやぐらが建てられ、提灯が飾られ、加東市の夏の踊りの幕を開く一番早い踊りが行われます。この長谷の祇園さんから始まり、9月2日の天神地区八朔祭までの約2ヶ月の間、市内各地で夏まつり、盆踊りが続きます。
 区長さんのお話では、今年は地区だけで行う初めての祭りということでした。これまで市内の各地区と交流を行っており、他地区からのお客さんも多かったようです。8時頃から踊りが始まり、消防団が開く店には子どもたちが集まり、賑わいが出てきました。一踊りした頃、境内では子ども相撲が行われました。地区の小学生男子だけがこの神事相撲に出ることが許されます。ただ、少子化で今年の取り手は5人。3回やっても全取組の数は10戦ぐらい。昔は子どもの多い地区だったということですが、ゆくゆくは女子の出場も考えなければ成り立たないなとの感想でした。そんな大人の心配をよそに、賞金をもらって嬉しそうな子ども達の笑顔にこちらの気持ちも和みます。
 
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清水寺-弁慶の碁盤

2011年07月07日 05時10分57秒 | Weblog
 また清水寺の話題を一つ。清水寺が日本最初の観音霊場として、天皇や将軍などが堂塔を建立するなど信仰が厚かったことはこれまで紹介してきました。それだけでもすごいなと思いますが、この寺にはすごい宝物があるのです。
 弁慶の碁盤もその一つです。弁慶は清水寺で僧を相手に囲碁をよくしたらしく、負けた口惜しさに自分の黒石を碁盤に押し込んだといわれています。弁慶の怪力にちなんだ伝承は数多いと思いますが、実際にその碁盤を見たことがあるのです。古い碁盤の隅の方に黒石が押し込まれたように碁盤の中にめりこんでいるのです。とても人間業だとは思えませんが、弁慶の超人性がこの碁石一つで感じられます。
 教師時代に社会科の歴史の授業で地元の郷土史の先生をゲストにお招きしたことがあります。その折りに教室に持ち込んでこられて見せていただいたのです。
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夏の笠石ーやっぱり不思議な風景です

2011年07月06日 05時12分28秒 | Weblog
 7月5日(火)、加東市吉馬の県道を走っていると、田圃の稲もずいぶんと株も増え、丈も伸びて緑が濃くなっていました。窓から入ってくる風も心地よいものでした。
つい先日は隣の稲尾地区の虫おくりの行事もあったばかりですが、ほんとうにいい所だなあと思いつつ、ふと山側に目をやると、稲が植わっていない田の中に例の雨乞いの笠石が立っていました。
 今年はよく雨がよく降っているので今は出番がありませんが、梅雨が明けてこれから真夏がやってくると出番があるかもしれません。
 そんなことを思っているのかどうかわかりませんが、強い日差しの下で、きれいに耕され、乾いた土の中にぽつねんと立っている笠石を撮りました。笠石の根元の土の下には大きな岩があると言われています。しかし、やっぱりこの風景は不思議なもんですねえ。
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さねもり人形ー稲尾

2011年07月05日 04時51分16秒 | Weblog
 昨日紹介した加東市稲尾の虫送りの行事で、列の先頭を行ったのは「馬に乗ったさねもり(実盛)人形」でした。
 細い縄で作られたさねもり人形は3年前に見たときよりも精緻というか、洗練されているように見えました。嶽の上に飾られており、私たちは下から仰ぐように人形を見上げることになりますが、松明や幟を従えて行列の先頭をいくさねもり人形は、その掛け声の如く、まさに上洛する斉藤実盛を彷彿とさせます。
 写真は八幡神社の拝殿前に置かれたさねもり人形と幟です。斉藤実盛は平安時代末期の武将で、元は源氏、のちに平氏に従って戦いましたが、木曽義仲追討のために加賀の国で戦っている際に、実盛が乗った馬が田の稲の切り株につまづいて倒れたために討ち取られてしまったということです。
 江戸時代になって田の害虫は実盛がその怨念で虫になったという言い伝えが広がり、虫送りの行事となったということです。12世紀末の武将の死を害虫駆除に結びつけて地域の行事として今も行うことができるのはやはり稲作が行われているからですね。
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稲尾の虫送り-実盛さんのご上洛

2011年07月04日 05時44分49秒 | Weblog
 3日(日)夕方、加東市稲尾に向かう道の所々に白地に「稲尾の虫送り」と赤字で染め抜かれた幟がたてられていました。稲尾の鎮守である八幡神社の森に通じる道にも幟が立てられ、遠くから賑やかな声が聞こえてきます。
 朱塗りの鳥居の立ち並ぶ参道のトンネルを抜けて八幡神社の境内に入ると、杜の木立に囲まれてぽっかりと広がる空間があり、すでに多くの人が集まり和気藹々とした雰囲気に包まれて、虫送りの行事が始まるのを待っていました。
 3年前にもこの虫送りの行事に参加しましたが、この2年間は用事が重なり参加できなかったので今日は楽しみにしていました。
 稲尾地区では戦前の昭和初期まで行われていた「虫送り」の行事を復活し、地域おこしのきっかけにしようということで平成15年に取り組みが始まりました。地域の崩壊、地域力の衰退といった言葉で表現されるように、地域に元気がなくなり住民同士の関係も希薄になっているなか、地域の再生を伝統行事の復活という地区住民の共同作業によって実現しようという試みだったと聞いています。今回で9回目。区長さんや地域の住民の皆さんのそうした思いを今日も実感することができました。今年はオープニングとして水龍会の太鼓が披露されました。八幡神社は加古川筋一揆の起点となった神社でもあり、太鼓の激しい響きを聴いていると特別なパワーを感じました。

 神事に続いて、松明に火が付けられ、虫送りが始まりました。先頭はわらで作られた「馬に乗った実盛(さねもり)人形」、これに「虫送り」「豊年祈願」などの言葉が書かれた幟、長い竹の松明、そして一人ひとりが持つ短い松明、そして太鼓や鉦の鳴り物の列が揃うと神社を出発し、もう暗くなった地区の田の中の道を歩きます。
 「実盛さん」とは斉藤実盛のことで、戦いの最中に田の稲株に足をとられてころび、これが原因で敵にやられてしまったということで、その霊が田の虫となって被害をもたらすという言い伝えがあり、その実盛さんの名を呼びながら田の虫を松明の灯で誘い出して追い出すということです。ただ、「サネモリ」は実盛の名であるというほか、早苗、さなぼり、早乙女などの田に関係する「早」「サ」という音、言葉によるものという話も聞きました。わらでつくられた実盛人形は地区の方がこの人形に詳しい人から教えてもらって作ったそうですが、今年の人形は一層緻密に作られているように見えました。
 虫送りの列は真っ暗になった稲尾地区をぐるっと回り、南の高いところにある池の堤で終わりました。わらの実盛人形が火で燃やされ、虫とともに空に上がっていきました。「さねもりさんと上洛せい!」のかけ声とともに。


 


 
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戦国時代の歴史を伝える依藤野の墓

2011年07月03日 06時55分35秒 | Weblog
 加東市の中央部に広がる嬉野台地。この台地を東西に貫く県道を社から東条に向かって走っていると、兵教大前の交叉点を過ぎ、自動車教習所を右手に見ながら道路は大きく右に左にカーブをしながら東条谷に下る長い坂道に入ります。その直前のカーブの右手に2基の墓石があります。
 これが冷泉為勝と依藤太郎左衛門の墓です。嬉野台地の東の一帯は依藤野とよばれています。これは、15世紀から16世紀にかけて東条谷を支配していた土豪の依藤太郎左衛門がこの地で討死したことから付いた地名だといわれています。
 依藤氏は小沢城(加東市小沢)、小田城(小野市小田)を本拠とし、東条川流域を支配する土豪でしたが、嘉吉の乱(1441)で将軍足利義教が殺されてから、播磨は不安定な状況になり、各地でこうした土豪が勢力を張り合っていました。
 16世紀の前半頃には、三木を支配していた別所氏が勢力を広げ、依藤氏は敵対していましたが、天正6年(1578)に別所長治が細川荘(三木市)の冷泉為勝を攻めたときに、依藤太郎左衛門は兵を率いて別所氏と戦い、戦さに敗れてこの依藤野の地で死んだということです。
 道路脇に車を止めて撮影しました。今から430年余り前、この地にそんな歴史があったことを伝えてくれる墓碑です。
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清水寺⑫-南朝忠臣赤松氏範の最後

2011年07月02日 05時52分55秒 | Weblog
 赤松勢は鴨川で細川軍を思う存分切りまくり山上に引き上げました。しかし、境内ではご本尊に恐れがあると、艮の方へ引き去り、最後の酒宴を開きました。平らな岩の上に氏範が腰掛け、4人の息子を左右に立たせ、一族郎党137人が車座になって、樽のかがみをぬき、酒を汲みかわしました。
 氏範は、寺僧を招いて篭城以来の礼を述べ、今こそ最後ぞと腹を十文字に掻き切ると、息子たちも切腹し、郎党もさしちがえたり、腹を切ったり、首に刀をかけたりして思い思いに続きました。
 こうして赤松氏範は、一族でただ一人南朝への忠義を尽くし、最後まで心変わりなく、山名、細川の大軍を引きうけ、再三の戦いでひけを取らず、敵を討ちやぶりながら味方を失わず、心静かに自害し果てたのでした。
 清水寺の使僧が細川の本陣に赤松主従一人残らず今朝自害し、山には敵は一人もいないと知らせました。細川勢はこれも赤松のわなかもしれないと警戒の声も出ましたが、検分に行かねば臆病といわれる、と細川頼元が先頭に立って山にのぼり検分しました。赤松の自害を確かめた細川頼元は、氏範父子5人と郎党137人という小勢だったことに驚き、その勇猛な戦いぶりを天晴れと賛嘆しました。
 寺の衆徒は氏範はじめ郎党を葬りたいと申し出ましたが、細川勢からは「憎き敵なれば、首を切って獄門にさらすべきだ」との声があがりました。しかし、細川頼元はこれを押しとどめるように氏範を武士の手本と称え、許しました。清水寺では赤松父子と郎党の死骸を葬り、懇ろに弔いました。

 以上が南朝忠臣赤松氏範の最後にいたる清水寺での戦いの話でした。あらためて、清水寺が太平記の時代のすごい戦いの舞台だったんだなということに驚きました。もう一度、清水寺に登り、赤松氏範父子、一族郎党の墓にまいりたいと思いました。

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清水寺⑪-南朝忠臣赤松氏範-最後の戦い

2011年07月01日 05時32分32秒 | Weblog
 清水寺に立てこもった赤松勢が手強く,細川勢が攻め落とせないので、京都、津の国、そして、播磨口から援軍が送られることに決まりました。
 氏範はこれを聞いて、「これまで足利勢とこれだけ花々しい戦いをしてきたのでもう思い残すことはない。討手の中には播州の赤松勢も向かってくるだろう。そうすると同じ血をあらう戦いとなる。しかも三方を塞がれては兵糧もつきる。これまで敵は我らを大軍と思い間違えていたいたからこそ、一騎も討たれずにきたが、この上は鴨川の細川の陣へ夜討ちをかけて、いさぎよく腹かき切って清水の土とならん」と一族郎党の覚悟をきめたのです。
 元中3年(1386)9月1日夜、氏範と一族郎党は最後の戦いと決め、鴨川の細川の陣に夜討ちをかけました。細川勢はもうすぐ援軍も到着するだろうと、その夜は何の用心もせず、みんな百姓の家に入って寝ていました。赤松勢は、土を焼いて作った爆裂弾に火をつけて家の中に投げ込むと同時に鬨の声をあげて攻め入りました。細川勢は大混乱。赤松勢は思う存分に敵を切りまくりました。大軍が攻めてきたと思った細川軍はただひたすら逃げるばかりでした。赤松勢は「最早これ以上罪をつくるな」と山上に引き上げました。これが赤松氏範の最後の戦いになるのです。   つづく 
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