ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

新町の道標

2007年03月29日 04時57分42秒 | Weblog
 加東市新町の旧市街の南端に近いところ、古い民家の倉庫のそばに立派な道標が立っています。
 明治45年1月(1912)建立と刻まれていますから、今からおよそ90年余り前に立てられたものです。
 三面には「左 やしろ 明石 高砂」「右 きたの 大門 粟生」「右 多可郡丹波 丹後」と大きな文字で深々と刻まれています。
 何と雄大な道標でしょう。この旧道が北は日本海(山陰)から南は瀬戸内海(高砂)まで、南北を貫通する幹線道路であったことを知ることができます。
 新町は加古川舟運の河岸として栄えた町で、かつてのにぎわいを今も残る古い民家や広い道路などが伝えています。その一画にこの堂々たる道標が今も立ち続けていることに嬉しさを覚えます。
 
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多井田のお薬師さん

2007年03月28日 06時29分36秒 | Weblog
 加東市多井田の集落のほぼ中心、高台に「多井田のお薬師さん」と呼ばれ親しまれている薬師堂があり、薬師如来像が安置されています。お堂は、平成17年に約300年ぶりに再建されたお堂はまぶしいぐらいまっさらです(写真)。

 このお薬師さんは、皮膚病によく効くとして知られています。地元のお年寄りはお参りをし、線香の灰を持ち帰ってイボに塗るとイボがとれると話しておられました。また、多井田にはこのお薬師さんのおかげで大病をする人がなかったともいわれ、地域の方が熱心に守ってこられたということでした。
 
 多井田のお薬師さんは、蝮除けに効く加東市田中のお薬師さん、眼病に効く多可町加美区の金蔵山のご本尊とあわせて三薬師として有名です。この三薬師の本尊は役の行者が笠形山の霊木で刻んだ「一木三体薬師」だといわれているそうです。

 お薬師さんのある境内には、公民館、お宮さんがあり、地域の人々の交流の広場そのものといった感じがあります。 
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上鴨川の道標

2007年03月26日 22時31分44秒 | Weblog
 加東市上鴨川の集落の東、国道372号線沿いに一本の道標が立っています(写真)。背の高い道標に深々と大きな文字が刻んであるのでよく目立ちます。
 「左 京 いせ ふるいち ささやま」「右 きよ水 三田 大阪」「左 ほつけ山 や志ろ たきの」と刻まれています。字の一部がもう一つの面の字とつながって、穴があいて、向こうが見えています(写真では、「右」の文字のはらいの部分の先)。建立は大正3年(1914)ですから90年あまり前のことです。
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『社町商工会史』が刊行される

2007年03月24日 06時50分23秒 | Weblog

 3月22日、『社町商工会史』が発刊されました。今年4月加東市商工会の発足に伴って、社町商工会がその幕を閉じることになり、46年の歴史をこの一冊にまとめたものです。私も学識経験者の一人として執筆をさせていただいていたので完成を楽しみにしていました。
 内容の構成は、「商工会50年の歩み」で社町商工会50年の通史を、「社の歴史と産業」で社の歴史を、「青年部、女性部35年の歩み」で両部の歩みが書かれています。
 特色は、商工会の歩みだけではなく、「社の歴史と産業」という一章を設けて、古い歴史をもつ社町の歴史を紹介していることです。この章は、「古代から近世の社」、「近代から現代にいたる社町域の産業」、「ア・ラ・カルト社町」の3節から構成されています。
 私は「ア・ラ・カルト社町」を執筆させてもらったのですが、この郷土史ブログでも紹介してきた社の身近な歴史を14項目あげました。珍しい写真も多く紹介していますので、郷土史に興味のある方はぜひご一読をお勧めします。
 
  
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稲尾のへんろ道

2007年03月23日 06時08分56秒 | Weblog
 加東市稲尾を東西に走る道沿いに一本の道標が立っています。
 道標の上の方に人差し指で行き先を示した手が浮き彫りにしてあり、「へんろみち」「加東四国」の文字が読みとれることから、加東四国八十八ヶ所霊場巡りの道標であることがわかります。
 この指さしの浮き彫りのある道標は市内各所で見かけます。霊場巡りの遍路道を知る手がかりとなります。
 また、道標の下の方に施主の名が刻まれています。そこには遠く美嚢郡三木町の人物名が刻まれています。加東四国霊場巡りが盛んだった頃のようすがうかがえます。
 
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上三草の道標

2007年03月22日 06時03分37秒 | Weblog
 加東市上三草の公民館から少し南、道路脇に一本の道標が立っています(写真)。
 自然石の前を削って平らにし、字が刻んであります。「右 大さか」「左 きよ水」と読めます。この道を車で走ることも多く、いつも気になっていたのですが、天気もよく時間のゆとりもあったので、車を止めて写真を撮りました。
 上三草は京街道と大坂街道の交差するところだったので、このような道標が建てられたのでしょう。コンクリートで地盤が固められ、これからもずうっと立ち続けるでしょう。
 
 
 
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日の出

2007年03月20日 06時55分41秒 | Weblog
 今朝、加東市社から木梨方面に向かって伸びる道を走っていると、東の空に一条の光の筋が立ちのぼっていました。やがて、オレンジ色に輝く光の筋の根元をきらきらとまぶしい光に変えながらぐぐーんと太陽が昇ってきたのです。日の出の荘厳な光景に思わず立ち止まり、そしてシャッターを切っていました。三草山の姿もくっきりと望めます。
 
 
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社のランドマーク

2007年03月19日 06時22分32秒 | Weblog
 加東市社の中心、市街地にあって、ひときわ高くそびえ、遠方からでもよく見えるのが関西電力の鉄塔です。写真は市街地の新池の堤から撮影したものです。
 加古川の東には、河岸段丘の地形が発達しており、市街地は中位段丘とよばれる台地になっています。昨日紹介した鳥居などの地区がある平面より一段高くなっており、嬉野台地との中間にある台地です。
 この台地にある市街地に関西電力社営業所のビルがあり、そのビルの上に鉄塔がそびえているので、低位面の位置から見ると、一層高く見えるというわけです。
いわば、社のランドマークになるこの鉄塔。社市街地の道案内の目印にされることが多いのですが、意外にその高さは知られていません。
 関西電力にお聞きしました。ビルの屋上までの高さが15.07メートル。鉄塔の高さが29.53メートル。地上から鉄塔のてっぺんまでの高さが44.6メートルになっているそうです。約45メートルなんですね。

 ところで、営業所正面玄関の脇の大きな石に古歌が刻まれています。

 愛しき 小目の小竹葉に
 霰ふり 霜ふるとも
 な枯れそね 小目の小竹葉

 この歌は、昔、応神天皇が播磨を巡幸されたときに、穂積の里(ほづみのさと:今の加東市穂積を中心とした広い範囲の地域)の小目野(おめの:今の加東市野村の小部野か)で、詠まれた歌とされています。播磨風土記に出てくる穂積の里、小目野の地名に因んだ古歌がこのランドマークの直下にこのような形で紹介されていることに驚きと新鮮な感じを受けました。
 
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西八丁の道標

2007年03月18日 05時49分00秒 | Weblog
 加東市鳥居にある石造鳥居を紹介しましたが、その一画に道標が立っています(写真)。

 「東社マデ八丁」と刻まれていますので、この鳥居の位置を示していることは間違いありません。また、「右 きよみず」「左 ほつけ山」と刻まれており、京街道筋にあったことも示しています。

 今では国道372号線が鳥居集落の南を東西に走っていますので、旧街道は静かな通りになっています。やがて国道は社サイエンスパークの北を走るようになり、今よりさらに南へと移ります。
 また、南北には国道175号線が走り、鳥居集落の東で二つの主要国道が交差する北播磨の交通の要となっています。

 石造鳥居、そして道標。旧街道からひっそりと時代の変化と繁栄ぶりを眺めているようです。
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佐保神社西の鳥居

2007年03月17日 06時42分25秒 | Weblog

 加東市鳥居の集落の西端に近い旧道脇に大きな石の鳥居が立っています(写真)。この石造鳥居が「鳥居」という地名の由来になったといわれています。

 鎌倉時代、尼将軍といわれた北条政子は佐保神社の社殿を造営し、八丁四方、一里四方に計八基の檜木造の鳥居を建立したと伝えられています。その西八丁の鳥居が今の鳥居地区にあったとされているのです。

 石造鳥居は約200年前の文化六年(1809)に再建されたものです。ところで、八丁四方の鳥居の他の三ヶ所はどこなのでしょう。
 東八丁の鳥居は社村のうちの鳥居町にあったとされています。しかし、今、鳥居町という地名はなく、不明です。南は松尾、北は上中にあったといわれています。

  
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立明明神さま

2007年03月16日 06時32分00秒 | Weblog
 加東市西垂水の集落から少し南に行ったところに小さな祠があります。圃場整備のために場所が変わり今の地に移された(昭和56年)と聞きましたが、元は西垂水の集落の東にありました。
 この祠は立明明神(たちあかしみょうじん)といいます。この名の由来は、社の佐保神社の由来に深い関係があるのです。

 佐保大明神は元は加西の鎌倉峰に天降って鎮座していたのですが、小部野(おべの:今の加東市野村)の住人で、鴨国造(かものくにのみやつこ:古代の北播磨にあった鴨国の長官)の子孫である阿部三郎太夫(あべのさぶろうだゆう)が、神託によって佐保大明神を遷すべく、明神を背負い、鎮座の地をさがして一晩立ち明かしたところが、今の西垂水だったということなのです。
 一晩立ち明し、夜が明けるころ、東方にうっそうと松がしげる丘が朝の光の中に浮かびあがった。三郎太夫はそこを遷座の地と決めたということなのです。
 三郎太夫が加古川に竿をさして釣りをしていたところ、佐保大明神がその竿をつたって川を渡って東にうつってきたという話や洪水の時に竿の先にかかってきたとかいう言い伝えもあります。それで竿先大明神というという話もあります。

 確かに西垂水から東を望むと平坦な土地が広がっており、その向こうに社の台地が見えるという、言い伝えの通りの地形になっています。
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善龍院もう一本の道標

2007年03月13日 06時10分03秒 | Weblog
善龍院
 加東市社の善龍院には旧社町で最も古いとされている道標があります。寶暦12年(1762)の建立で、「右きよみず」「左ほつけさん」と刻まれています。
 そばにもう一本、円柱の道標が立っています(写真)。同じように、「右きよみず」「左ほつけさん」と刻まれています。ともに西国三十三ヶ所札所巡りの御嶽山清水寺と法華山一乗寺を目印として街道筋に建てられていたものでしょう。
 旧社町には百本余りの道標があるといわれています。道路がつけ替えられたりして、元の場所とは違った場所に移されたり、あるいは一ヶ所に集められたりして保存されているものも少なくありません。
 しかし、旧街道などに変わることなく立ち続けている道標を見つけると、思わず立ち止まってしばらく見てしまいます。威厳さえ感じることもあります。
 
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東実の道標

2007年03月12日 05時30分54秒 | Weblog
 車を走らせていると、道路脇に立っている石柱や石灯籠、石鳥居などが目に飛びこんでくることが多い。今日も加東市東実の村の中の道をゆっくりと走っていると、曲がり角に小さな道標を見つけました。さっそく車を止めて、写真を撮り、刻まれている文字を読みました。
 「すぐ 三木 明石」「すぐ 小田 東条」「すぐ やしろ」「すぐ □□」と四面に地名が刻まれています。この村の中の四つ角がかつて各地を結ぶ道の交わる地点であったことを示しています。
 建立年は文久3年(1863)と読めるのですが、はっきりしません。もしそうなら、約140年前のもので古い道標です。幕末、薩英戦争が起きた年であり、アメリカでは南北戦争、リンカーンが奴隷解放宣言をした年ということになります。
 
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上中の道標

2007年03月09日 00時40分20秒 | Weblog
 加東市上中(かみなか)は隣接の喜田とともに滝野社インターの南、旧社町側に位置する地域で、急速に市街化が進んでいます。
 年輩の人は上中を中村と呼びます。この中村がかつてこの地方の中心に位置した村であったことがわかります。
 県道西脇三田線と旧国道175号線が交わる交差点から少し東の地点で、南北に走る旧道と交わっています。これを北に向かって村中の狭い道を行くと、四つ角に出くわします。中村の中心にあたる四つ角ですが、ここに一本の道標が立っています。
 建立年は文久3年(1863)ですから、今から約140年前のものです。高さは約120㎝。その四面には、「左 きたの 下たきの」「すぐ きよみづ」「すぐ やしろ 小野 三木 あかし」「右 志ん町 たき乃 多可郡 たんご」と刻まれています。
 この道が、丹後から明石まで、すなわち日本海から瀬戸内まで結ぶ主要ルートであったことを今も伝えて立っているこの道標。ふるさとの歴史遺産として大切にしていきたいものだと思います。
 
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貞守の石灯籠

2007年03月08日 06時12分52秒 | Weblog
加東市長貞の貞守地区に石灯籠が高くそびえています。
日も沈み、薄暗くなってきた頃だったので、昔はここに灯が入れられ、道行く人の目印になっただろうか、などと思ってしまいました。
しかし、なぜ、このようなところに石灯籠があるのかと思い、近くにお住まいのご老人にたずねてみました。
曰く、圃場整備で道路が変わってしまったが、かつては灯籠の立っている脇の道が県道であり、住吉神社への参道でもあった。だから灯籠があるんだ、と。
なるほど納得しました。民家の横を抜けている狭い道がかつての主要道であり、その先には橋も架かっていたそうです。
そのご老人は小さい頃、この石灯籠に登って遊んだことも懐かしそうに話して下さいました。建立年は分かりませんが、「御領主様武運長久」と刻んであるように読めました。
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