夏の日の夕暮れ時、一日の終わりを告げるかのように庭のセミが鳴きます。そして、夜を過ごす場所を定めたかのように木の幹やムクゲの細い枝にもセミが止まっています。クマゼミはカメラで近寄っても逃げることなくその姿をさらけ出していました。ナンキンハゼのアブラゼミも静かに止まったままです。
早朝、庭に面した窓のカーテンを開けると、目の前に黒い物体がいくつも。クマゼミです。数匹が網戸にしがみついて夜を明かしたのでしょう。突然の出現に一瞬どきっとします。
庭の南京ハゼの幹にはアブラゼミがついていました。夏はセミ。こうしてセミの鳴き声を聞き、姿を観て数十年が過ぎました。セミの命は一夏。地面に落ちて、蟻の命の糧になっている光景も見てきました。
昭和20年(1945)の父の小さな手帳の8月15日の項に「12時 敵国ニ対シ降伏ノ詔勅 陛下ヨリ放送アリ 仕事手ニツカズ」と書かれています。当時父は36歳。社(現加東市社)の田町通りにあった社市場で働いていました。手帳には、食料の入荷や手配などのメモや防空壕の修繕や町の常会などの関するメモが書き込んであります。
終戦後の日々のメモにも市場関係の記入が続いていますが、9月1日の項には次のように書き込んでありました。
9月1日 雨
漸く210日来る。敗戦国の悲惨日に募る。
8月30日にはマッカーサーが厚木に降り立ち、9月2日にはミズーリ艦上で降伏文書調印、と日本の降伏、占領が始まります。そうした中での感情を手帳に記したものと思います。この年から76年が経とうとしています。
セミは朝6時30分頃になると鳴き始めます。クマゼミです。小さい頃からこのセミをシャブと呼んでいますが、鳴き声がシャブシャブシャブ・・・からそう呼んでいるのでしょう。10時過ぎぐらいまで鳴き、飛び回りますが、それ以降暑さがピークの昼間はピタッと鳴き止みます。
夕方になると、またセミの鳴き声がします。その主はアブラゼミです。ガラガラガラという鳴き声に聞こえるので、ガラと呼んできたと思います。クマゼミは黒く、アブラゼミは茶色です。シャブはセミの王様で、ガラは飛車のような存在でした。庭の木の幹や枝のあちこちにその茶色い体がついています。
夏真っ盛りの日が続いています。木々が茂る我が家の庭は朝からクマゼミの鳴き声が渦巻き、何か特殊な周波数の音に包まれたエリアと化します。毎日、無数の幼虫が地中から這い出て木や草などによじ登り羽化していきます。
やってきたもうすぐ3歳になる孫は、生きて鳴くクマゼミはまだ恐い存在で、小さなチーチーゼミでも動くのは敬遠の対象です。興味の矛先は抜け殻と地面に点々と開いた穴、そして、ダンゴムシです。虫メガネを片手にそうした対象を覗き込みます。庭のエビネランの花のあとの茎の先で羽化した抜け殻を見つけてじっとのぞきこんでいました。観察し終えると、その手でつかんで虫かごに入れ、満足そうな笑顔で今度は虫かごをのぞきこんでいます。
25日(日)、日が西の地平に沈もうとする頃、加東市社の佐保神社境内の西に並んだ小宮の真ん中辺り、御大神宮さんの祭りが行われました。
お祀りするのは、加東市社の田町通りの真ん中の中田町町内会の人々です。私もその一員なのですが、16戸の小さな町内会がこの小宮をお祀りしているのは、かつて田町通りにこの小宮があり、昭和時代のはじめに県道拡張のために佐保神社境内に遷されたという経緯があるからです。
毎年7月25日の夕方に町内会の人々がお参りします。年行事役の交代や会費の集金や諸連絡もこの時に合わせて行われます。今年は、新たに3軒の町内会入りの方が紹介されました。私が小さい頃は田町商店街も賑わっており、軒数も30軒ぐらいあったと思いますが、その後は商店街が住宅街に変わり、また、高齢化も進んで軒数は減少の一途を辿っていました。
この御大神宮さんにまつわる謂れは、これまでにも紹介してきましたが、江戸時代に通りに御大神宮さんの神札が降ってきたことから当時の人々が祠を建ててお祀りしたと伝えられています。家内安全と町内の繁栄を願う人々の祈りが移転後も今日まで伝えられています。
子ども達もお参りします。我が家の子ども達もそうして大きくなりました。同じ町内に住んでいても普段は出会う機会も少なく、こうした場が情報交換であったり、相談の場であったり、子ども達の成長を確かめ合ったりする機会ともなります。派手な祭りはできませんが、祭りだけは続いています。2人の中学生も来ていました。もう受験生だといっていましたが、ついこの間まで小学校に通っていたのに、と思うと同時によく来てくれたねとその成長ぶりに頼もしさを感じました。涼しい風が吹き渡り、ヒグラシの声も聞こえてくる境内でした。
昭和20年7月24日にあった加東市下瀧野への米軍機による空襲とその犠牲者について調査した神戸新聞の記事がきっかけで、同年の父の手帳を読み返すことになりました。
8月15日の終戦の日の項には、次のように記されていました。
15日 火
防空壕修繕
12時 敵国ニ対シ降伏ノ詔勅、陛下ヨリ放送アリ
仕事手ニツカズ
もうすぐ、この年から76回目の8月15日を迎えます。
神戸新聞に掲載された昭和20年7月24日の米軍機による下瀧野への空襲の記録に触発され、あらためて父の手帳を読んでみると、6月から7月にかけて「空襲アリ」の記述がありました。
場所などが記されていないので詳細は判りませんが、7月7日には明石空襲の敵機が社上空まで飛来していた思われます。
6月15日 金 雨 空襲アリ
6月22日 金 晴 大空襲アリ 機銃掃射有リテ 傷我人有之
6月26日 火 晴 大空襲アリ
7月7日 土 3時30分頃迄大空襲 明石辺空真赤 社上空敵機旋回
7月24日 晴 火 昼ヨリ空襲アリ P51及小型戦闘機10機来襲 瀧野町国民学校ヘ機銃掃射
7月30日 月 晴 空襲 午前中ヨリ
22日(木)の午後6時過ぎ、帰宅すると孫(2歳10ヶ月)が来ていました。セミの抜け殻集めに凝っているので、庭の木の枝や家の壁についている抜け殻を集めました。その数全部で30匹を超えました。目がいいのか、すぐに見つけます。クマゼミはもちろん、ニイニイゼミも生きているのは恐いようで触れません。
孫が生きて動いている幼虫をみつけました。枝の先端近くまできているのでそろそろ固定して、羽化を始めるはずです。しばらく経ってからもう一度見に行くと、背中が割れてセミが出てきていました。まだ薄い肌色と緑の縮んだ羽、そして黒い目が見えます。孫が食い入るように見ていましたが、すぐに下に目線を落としてダンゴムシに手を伸ばしました。
今夜も真夏の夜の神秘的な生命の営みが行われています。心地よい風が吹いてきました。夜の間に羽を伸ばし、色も黒く逞しくなって、朝には飛び立っていくのです。
21日(水)日付の神戸新聞に「兵庫の知られざる空襲ー米軍の機密文書に記載 太平洋戦争末期、加東で住民2人犠牲」という記事が掲載されました。
昭和20年7月24日に鶉野飛行場を攻撃するために飛来した米軍機が下滝野を空襲し、住民2人が犠牲になったことが、『社町史第2巻き本編2』にその記述があり、このことが米軍の機密文書にも記録されていることが調査によって判明したというものでした。
ふと、父の日記(手帳)にそんな記述があったことを思いだし、あらためて調べてみました。7月24日の項に次のように書かれていました。
24日 晴 火
昼ヨリ空襲アリ.P51及小型戦闘機10機来襲 瀧野町国民学校へ機銃掃射。
父の手帳には、7月30日にも「空襲アリ」とあります。6月、7月には何度も「空襲アリ」と書き込まれていますが、具体的な場所などは記されていません。
昭和28年生まれの私はもちろん戦争体験はありませんが、父や母、叔父、先生らから戦争の話はよく聞きました。鉄兜や軍刀などもあり、まだ戦争が体験者の話を通して身近にありました。母は、グラマンが飛んできて、バラバラと機銃掃射をする中を逃げたという話をよくしていました。
また、「ゼロ戦レッド」「紫電改のタカ」などの戦記漫画を読み、戦闘機や戦艦などを描いていました。プラモデルもそうした戦闘機、戦艦、戦車などでした。
昼間は猛暑。夕方になると涼しい風も吹き、空にはまだ白い上弦の月が光っています。玄関脇の生け垣の枝の先に2匹のクマゼミの幼虫がいるのが目に入りました。動いています。もう1匹は早や羽化を始めていました。
これから羽化という1匹をしばらく見ていると、体を固定し、ピタッと動かなくなりました。いよいよ始まるぞと思いきや、背中に割れ目の筋が入りました。次第にその割れ目が広がり、緑と薄い肌色が膨らんできます。
殻を破ってほぼ体が出てきた時は頭が下で逆さまにぶら下がった状態です。羽は小さく巻いた状態で両側に耳のようにくっついています。体は全体的に薄い肌色で、羽や足の部分が薄い緑色です。両目と、後頭部の一部だけが真っ黒です。腹の側を向けており、折りたたまれた足などが精確な左右対称の模様のように見えます。つくづく生命の神秘を感じる一時です。
朝には逞しい黒色の大きなクマゼミの姿に変わり、日の出とともに飛び去っていきます。跡には、割れ目に白い糸のようなものがついた抜け殻だけが残っています。実は毎年繰り返される我が家の庭でのクマゼミの羽化を観察しながら、人間の生と死を考えてしまいます。人が死ぬときもこうして羽化するごとく生命が姿を変えて新たな世界に飛翔いていくのでは、などと。
19日(月)、加東市内を車で走っていると、田圃で育つイネの緑が濃さを増して鮮やかでした。
加東市牧野では、酒米の王様山田錦の田が広がってまさに地上は緑一色でした。遠く、五峰山の山並みが連なって濃い緑の帯となり、空は青く浮かぶ雲は白く、まさに夏空の景色でした。田を吹き渡ってくる風を感じながら、しばし、この雄大で豊かな景色を楽しみました。
17日(土)、梅雨が明けました。今年は早い梅雨入りでしたが、結局例年と同じような時期に梅雨明けとなりました。クマゼミはよく知っています。何日か前から庭や家の壁などで羽化が始まりました。
夜9時30分頃帰宅すると、玄関の門柱の天辺近くで一匹が抜け殻にしがみついているのを発見しました。羽の色はまだ緑です。生け垣でも羽化していました。
子ども達が小さい頃は、夕方に地面から這い出て、木に登り始めた時点から観察を始め、体を固定し背中が割れて、出てくるところ、さらに抜け殻にしがみついてじっと体が乾いて、羽が伸びていくのを時間をおきながら観察したものです。
今は妻と二人で観察しています。今日はもうすぐ3歳になる孫が来ていたので目をくりくりしてみていました。まさに生命の驚異を感じます。
ここのところ、クマゼミの羽化の投稿が続いていますが、昨日紹介した通学路のクマゼミの抜け殻のあった交差点の角の家の庭のロウバイの木の一角に数匹の抜け殻が集中していました。なぜそこなのか?と思いながら写真を撮りました。一気に這い出てきたんですね。
我が家の壁でも羽化したばかりのクマゼミを発見しました。確か、去年も同じような場所で羽化していました。もうすぐ飛び立つのでしょう。明日あたり梅雨明けかなと思わせる朝でした。
梅雨の朝の通学路。午前7時30分から15分ほどの間に10の通学班が通っていきます。昔の人は「学校道」と呼んでいる社の市街地の田町筋から社小学校に通じる道路です。
その学校道の元旧社町役場があった交差点で登校見守りに立っています。角の家の庭の花、そして木にクマゼミの抜け殻がついていました。まだ、鳴き声は聞いていませんが、我が家の壁や門柱でも羽化しています。
もうすぐ夏休みがやってきます。梅雨が明け、まぶしい真夏の太陽が照りつけることでしょう。