21日(水)日付の神戸新聞に「兵庫の知られざる空襲ー米軍の機密文書に記載 太平洋戦争末期、加東で住民2人犠牲」という記事が掲載されました。
昭和20年7月24日に鶉野飛行場を攻撃するために飛来した米軍機が下滝野を空襲し、住民2人が犠牲になったことが、『社町史第2巻き本編2』にその記述があり、このことが米軍の機密文書にも記録されていることが調査によって判明したというものでした。
ふと、父の日記(手帳)にそんな記述があったことを思いだし、あらためて調べてみました。7月24日の項に次のように書かれていました。
24日 晴 火
昼ヨリ空襲アリ.P51及小型戦闘機10機来襲 瀧野町国民学校へ機銃掃射。
父の手帳には、7月30日にも「空襲アリ」とあります。6月、7月には何度も「空襲アリ」と書き込まれていますが、具体的な場所などは記されていません。
昭和28年生まれの私はもちろん戦争体験はありませんが、父や母、叔父、先生らから戦争の話はよく聞きました。鉄兜や軍刀などもあり、まだ戦争が体験者の話を通して身近にありました。母は、グラマンが飛んできて、バラバラと機銃掃射をする中を逃げたという話をよくしていました。
また、「ゼロ戦レッド」「紫電改のタカ」などの戦記漫画を読み、戦闘機や戦艦などを描いていました。プラモデルもそうした戦闘機、戦艦、戦車などでした。