ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

嬉野台の紅葉

2013年11月26日 05時24分40秒 | Weblog
 23日(土)、県立嬉野台生涯教育センターの冒険の小川付近を車で走っていると、小川からさらに北の方角に三草山麓が遠望できる一角があり、思わず車を止めて写真を撮りました。ようやく紅葉が見頃になった北播磨。これからさらに色鮮やかになっていくでしょう。
 昭和57年(1982)に兵庫教育大学附属中学校が開校し、新入生のオリエンテーションをこの生涯教育センターで実施しました。当時の可愛い新入生も今では40過ぎの立派なお父さんお母さんになっています。冒険の小川での懐かしい思い出の一こま一こまが浮かんできました。紅葉を眺めながらほんの一瞬のことでした。
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山国原田池の夕日-ため池王国加東の絶景

2013年11月25日 04時47分10秒 | Weblog
 24日(日)の夕方、東条から嬉野台地を通って社へ帰る道から西南の方角に沈もうとしている大きな赤い夕日が見え隠れしていました。県道から山国へ通じる旧道にハンドルをきり、さらに下っていくと標高約100メートルの山国地区の東の上の台地面に出ます。視界は西に大きく広がり、夕日はまだ見えました。
 原田池から見る夕日は雄大でです。タイミングが合えば池面の向こうに沈む真っ赤な夕日を見ることができます。
 ところで、兵庫県は全国で一番ため池が多い県で約43000もの池があります。県内では淡路地域に次いで、北播磨地域が多く、7000以上も池があり、そのうち加東市には約1150あります。これはこの地方が全国的に見ても降水量が少なく、平均すると年間約1000ミリ程度ではなかったかと思いますが、そうしたことから昔から池をつくって農業用水を確保してきたわけです。
 ため池王国加東の絶景の一つ。台地の池から沈む夕日が好きです。
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夜明けの加東市新庁舎

2013年11月24日 04時43分19秒 | Weblog
 加東市の新庁舎が姿を現しました。平成18年(2006)の3月、加東郡三町が合併し加東市が誕生してから7年、新庁舎の建設が進められていましたが、最近覆いが取れて、その姿を見ることができるようになりました。現在の分庁舎からの引っ越しは来年2月末と聞いています。
 写真は夜明け前の新庁舎です。これまでランドマークだったJAみのりの本所ビルも一緒に取り込みました。茶色と白、これからは嬉野台地の西端にこの2つの建物が見えることになります。
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朝日に映える雲

2013年11月23日 05時42分12秒 | Weblog
 22日の早朝、ウォーキングから戻ってくると、西の空に茜色に照る雲の筋が出ていました。
 朝日が地平線を照らす前に西の雲の上部を染めているのです。
 昨日は関電タワーを西から見た風景を紹介しましたが、東からタワーを眺める位置から西の空に表れた朝日に染まる雲を撮りました。
 朝日が地上を照らす前のほんのしばらくの間の現象ですが、何かいいことに出会ったような気持ちになりました。
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秋のやしろ関電タワー

2013年11月22日 05時06分04秒 | Weblog
 いつも朝のウォーキングで夜が明けて明るくなる頃に通りかかるのが社市街地の西、新池の堤です。佐保神社から若宮神社を通り、持寶院大師殿へとつながる道ですが、東の空を見ると、関電社営業所のビル屋上の鉄塔が新池に映し出されて、まるで天地を貫く軸のように見えます。これまで何度もこのブログで紹介してきた風景ですが、私の好きな景色の一つです。
 この新池は、かつて舟を浮かべて人々は楽しんだと聞いています。今はその面影もありませんが、水面からは湯気が立ちのぼり始めていました。冷えこんだ朝に見られます。
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姫新線本竜野駅で小学生が応援歌

2013年11月21日 05時28分28秒 | Weblog
 「ふるさと加東の歴史」ではありませんが、今日は嬉しかったことを紹介します。
 19,20日の2日間にわたり、県議会建設常任委員会で西播磨地区を訪れさまざまな事業の調査を行いました。その最後の視察が姫新線本竜野駅でした。調査の目的は姫新線の利用促進の取り組みについてですが、たつの市の顔でもある本竜野駅のまちづくりについても地元まちづくり協議会のこれまでの活動報告を受けました。たつの市は古い歴史をもつ城下町ですが、駅のある小宅(おやけ)地区は播磨風土記にその地名がある古い歴史のまちでもあります。協議会作成の「小宅歴史探訪」と題した散策マップには、古代から現代までの変遷が写真と説明でまとめられており、マップには地図と20の見学ポイントが写真と説明とともに記されおり、ふるさと小宅の歴史が一目で分かるように工夫されています。こうしたマップを手に散策をしてみたくなります。
 さて、嬉しかったこととは、私達が乗ったバスが本竜野駅に着くと、小学生が待ち構えて歓迎してくれました。地元小宅小学校4年生の約150人です。就任8日目の栗原一新市長、校長先生、地域づくり協議会の皆さんがこの小学生と一緒に出迎えて下さったのです。調査先でこうした歓迎を受けるのは初めての経験でしたが、委員会の古参議員も今まで経験したことがない、と言っていました。
 子供達は歓迎の気持ちを込めて、姫新線応援歌を歌ってくれました。幟も手作り、歌に合わせた振り付けもあり、明るく、元気よく歌ってくれました。駅のすぐ近くに学校が見えました。駅には童謡「赤とんぼ」の歌詞にある「とまっていたのは竿の先」を表現した銅像のモニュメントもあり、町あげて姫新線、本竜野駅、小宅地区を大切にしていこうとする意欲が漲っていました。
 ふるさとのことを知り、大切に、誇りに思うような子供を育てる。そうしたことが実現していることが何より嬉しいことでした。写真は子供達です。私達は本竜野駅から隣の太市駅まで乗車しました。車窓から景色を眺めながら、子供達の歌う姿を思い出していました。小宅小の皆さん、ありがとう。そして、皆さん、姫新線に乗って西播磨の秋を楽しんでみてはどうでしょう。
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加東伝の助くんと小寺彦兵衛さん

2013年11月19日 05時06分54秒 | Weblog
 17日(日)、加東市滝野総合運動公園でふれあい球技大会が行われました。霧の中での開会式には加東市のマスコットキャラクターの加東伝の助くんも登場し、出場者を激励しました。くまもんやふなっしーほど全国的なスターではありませんが、加東市民をはじめ多くの人に愛され親しまれています。そこで、記念写真を撮りました。
 16,17日に東条湖おもちゃ王国で開かれたマスコットキャラクターまつりでも「伝ちゃん大好きです。そやかて可愛いもん」と仰る伝の助ファンのご婦人にも出会いました。
 ところで、市外から加東市のイベントなどに参加された方から、「伝の助て何ですのん?」とよく質問されます。あらためて、ここの伝の助くんについて紹介します。伝の助の公式な紹介は次の通りです。

○名 前・・・加東伝の助(かとうでんのすけ)
○出身地・・・加東市社50番地 
○生年月日・・平成20年11月5日(水)PM8:30
○年 齢・・・ずーっと15歳前後(変わりません)
○趣 味・・・多くの人にいろんなことを伝えること
○好きな言葉・・夢と元気
○尊敬する人・・小寺彦兵衛さん
○チャームポイント・・髪型が加東の「か」
 加東市に「釣り針」を伝えた「小寺彦兵衛」さん。
 その技は加東市だけでなく市外、県外へと伝えられ
 ていきました。
「加東伝の助」はその「彦兵衛」さんの想いを受け
 継いで誕生しました。
 「伝の助」は伝統文化を今に伝えます。
○昔の伝統文化を今に伝えます。
○今のいいものを未来に伝えます。
○いろんな情報を伝えます。
○夢と元気を伝えます。


 加東市下久米の三草坂には小寺彦兵衛翁を顕彰する塚があります。塚は大正8年(1919)に建立され、90年経って傷みも激しくなり、平成22(2010)に兵庫県釣針協同組合によって玉垣や敷地が修復整備されました。
 小寺彦兵衛さんは下久米村(現加東市下久米)の庄屋で、釣針製造技術を土佐(高知)から学んで地元に伝え(幕末の頃)、現在の地場産業の基をつくりあげた郷土の偉人です。彦兵衛さんの偉さは自分の習得した技法を公開し、こころよく教えたことであると伝えられています。
 ふるさとにこうした偉人を有するということは幸せなことだと思います。なぜなら、その偉人をふるさとの共通の先人として仰ぎ、誇りとし、懐かしみ、学び、語ることができるからです。彦兵衛さんは釣針製造関係者や下久米地区の人だけではなく、今や加東市民共通の先人となっています。そして、加東市の人気者のマスコットキャラの加東伝の助くんのモデルになっているのです。
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加古川線の河高の踏切で

2013年11月18日 04時25分35秒 | Weblog
 今年、JR加古川線は開通百周年を迎えました。夏には社町駅で記念の行事も催されましたが、17日(日)の朝、社町駅の北、加東市河高地区の田圃の中の踏切でちょうど下り電車に出会いました。薄い霧がかかり、コスモス畑に残った赤や白の花の中を一直線にのびるレールを青い電車がライトをつけて走ってきます。何気ない風景ですが、車から降りてシャッターを押しました。この鉄道の開通によって加古川舟運が終焉を迎えたのです。
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’64東京オリンピック馬術競技に郷土出身の勝本正則氏が出場

2013年11月17日 05時19分28秒 | Weblog
 16日(土)、加東市金婚式が行われました。昭和39年(1964)に結婚されたうちの約50組のご夫婦が出席されました。昭和39年度といえば、私は社小学校の5年生でした。式には社小学校におられた先生のお顔も見えました。この年、東京オリンピックが開催され、10月10日、開会式のようすを小学校の校長室にあった観音開きの扉のついたテレビで視ました。赤のブレザーに白のズボン姿の日本チームが日の丸を先頭に整然と入場する姿が鮮やかでした。カラーテレビだったのです。6年生が修学旅行に行って留守だったので校長室の掃除当番がまわってきたというわけで、幸運でした。そのオリンピックに郷土出身の選手が馬術競技に出場していたことを金婚式で知りました。
 その選手とは社町上久米出身の勝本正則氏です。当時31歳。米田小学校6年生まで上久米に在住、滝川中学校を経て関西学院大学を卒業されたそうです。当時の「公報やしろ」に勝本選手を応援しようと紹介されています。
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郷土出身の柴崎恵次中将-靖国神社遊就館で

2013年11月15日 06時20分54秒 | Weblog
 14日(木)、前日から上京していました。空気は透明で冷たいのですが、日差しはやわらかく清々しい朝を迎え、九段の靖国神社に参拝しました。
 上京の折には時間をつくって参拝し祈りを捧げるのが常になっています。今回は宝塚市の中学校が靖国神社の遊就館を見学したことを市教委が不適切と判断したことが問題になったこともあり、あらためてじっくりと遊就館の展示内容を見学しました。
 ところで、遊就館には、わが郷土出身の柴崎恵次海軍中将が「マキン・タラワの戦い」のコーナーで写真とともに展示されています。この歴史ブログでも4年前に紹介しましたが、再掲して紹介したいと思います。

 この戦いは中部太平洋における日米戦の中でも最も激しいものだったと言われています。その「マキン・タラワの戦い」で上陸してくる数倍の米軍を相手に、日本軍は大きな損害を与える奮戦をし玉砕たのですが、この戦いで日本軍を指揮したのが柴崎恵次海軍少将(戦死後中将に特進)です。
 柴崎中将は加東市森(旧東条町)出身の軍人です。パネル写真には兵庫県としか書いてありませんが、明治27年(1894)、加東郡上東条村森(現加東市森)に生まれ、小野中学校から江田島海軍兵学校に進んで海軍士官となっています。軍人らしい清廉な生き方、部下や家族思いの人情家であったと聞いています。

 パネルには、激戦の続く中、負傷兵の手当のために作戦司令室を使用するようにという指示を出し、自らは塹壕へと移動する最中に敵弾に当たり戦死、と書いてありました。部下思いの柴崎中将ならではの行動だったわけですが、その後も将兵は中将に続けとよく戦い続けたとありました。靖国神社へご参拝の折りにはぜひ遊就館を見学され、柴崎中将とお出会いして下さい。
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播磨国原穂波も豊か-兵庫県立社高校校歌

2013年11月12日 04時18分57秒 | Weblog
 昨日は兵庫県立社高等女学校の校歌を紹介しましたが、今日は県立社高等学校の校歌を紹介します。創立百周年記念式典では式の最後に出席者全員で斉唱しましたが、春の選抜高校野球に出場し、甲子園で声高らかに校歌を歌ったときの感激は忘れられません。また、昭和44年入学のとき、式が始まる前に教室で担任の先生から教わった社高校の校歌の一番と三番の出始めの一節、「播磨国原穂波も豊か」と「祖国の真中目路もはるばる」の雄大さがとても気に入ったことと「真中」を「もなか」と読むんだということを知ったことをよく覚えています。
 写真は校舎よりはるかに高く背を伸ばし、天を衝くように嬉野台に屹立しているメタセコイヤです。遠くからもこの木々が見えるほどになりました。


兵庫県立社高等学校校歌
   斉藤清衛作詞
   下総皖一作曲

一 播磨国原穂波も豊か
  昇る朝日をまともに受けて
  高く聳ゆる我等が学舎
  いざや守らん学徒の使命

二 瀬の音さやかに滝野の流れ
  銀鱗おどる若人の宗
  高く聳ゆる我等が学舎
  いざやたどらん輝く希望

三 祖国の真中目路もはるばる
  さみどりにおう社嬉野
  高く聳ゆる我等が学舎
  いざやかかげん久遠の理想
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愛と誠の精神(こころ)-県立社高等女学校校歌

2013年11月11日 04時38分31秒 | Weblog
 

 兵庫県立社高等学校の創立百周年を祝う記念式典が去る9日に挙行されました。その式典で社高等女学校の校歌が女子生徒の斉唱で披露されました。
 「愛と誠は 我等がしるしよ」の一節に女学校の純潔さと誇りが込められているようでとても美しい響きの校歌でした。歌詞を紹介します。写真は高女時代の校舎と運動会での記念写真です。


 兵庫県立社高等女学校校歌
         伊藤静子 作詞
         斉藤仙司 作曲

一 名もゆかし 社の野辺に
  日ごと集ふ 若き乙女子
  愛と誠は 我等がしるしよ
  いざやつまなん 教えの小草

二 月の影 さやけき夕
  うちあふぐ 姿も清し
  愛と誠は 我等がしるしよ
  いざや磨かなん 心の鏡

三 かがよへる 光をあびて
  あの日の 天地もほほゑむ
  愛と誠は 我等がしるしよ
  いざや進まなん 久遠の理想に
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社高校創立百周年-歴史と伝統の重みを感じる新正門

2013年11月10日 05時32分08秒 | Weblog
 9日(土)、兵庫県立社高等学校の創立百周年記念式典が挙行されました。大正2年に小野実科高等女学校としてその沿革の淵源をもち、その後、大正11年に社町に移転、県立社高等女学校となり、戦後は新制の県立社高等学校となって、昭和35年に現在の嬉野台に新築移転して今日に至っています。
 私は昭和40年代半ばに在籍した24回生です。地域の諸先輩から社への移転に際しての当時のようすや高女時代のことなどを聞く機会こともありました。写真でしか見たことの無かった社高女時代の校舎や正門でしたが、百周年を記念して当時の煉瓦造りの正門をモデルにした新しい正門が造られました。夏に披露があったわけですが、百周年記念式典の日、あらためてその正門と校舎を背に写真を撮りました。歴史と伝統の重みを感じさせてくれるこの新正門。在学当時何もなかった嬉野台地に新しい名所が一つ誕生したような気がします。
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早朝の街角-みなと銀行社支店、元社警察署跡地

2013年11月06日 05時13分49秒 | Weblog
 早朝ウォーキングが日課になっています。人も車もまだ動き出す前の街は静寂そのもの。この写真は加東市社の銀座街にあるみなと銀行社支店前の四つ角です。
 元は社警察署があった場所です。昭和のはじめ、この地に社警察署の庁舎が新築されました。この辺りを東条町といいます。社の市街地で、東の方向、すなわち東条方面に向かう道にあたるのでこの町名がついた、と聞いています。
 警察署、裁判所、法務局があった、いわば加東郡(今の加東市、小野市域)の司法の中心だったところです。社警察署は移転しましたが、今も近くに裁判所、法務局が新しい庁舎に建て替えられて存在しています。
 
 
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学校創立以来職員室に-日番の三角柱

2013年11月05日 04時41分29秒 | Weblog
 先日、兵庫教育大学附属中学校の公開研究発表会が行われ、久しぶりに元の職場である同校を訪れて授業を参観しました。
 元同僚の先生に挨拶をと思い職員室に入ると、机の上に懐かしい物がありました。それは三角柱の木製の日番の印です。黒地に白く、「日番」「兵教大附属中」の文字が書かれています。懐かしいその字は紛れもなく、昭和57年4月に開校したときに私が書いたものに間違いありません。底面に日付がはっきりと書いてありました。当時は開校したばかりでこうしたものは教官の手作りが多かったように思います。三角柱といってもよく見ると実は正三角柱になっていません。そこがまた味があるところです。
 「日誌」とともに机の上に置かれていました。職員室、附属中では教官室と呼んでいましたが、机が増えた分狭くなったように感じました。それでも学校創立以来、教官室で毎日毎日教官の机を移動しながら歴史を刻んできたと思うと何だか威厳さえ感じるようでした。私は昭和57年4月の創立から平成15年3月まで同校で勤務しました。
 創立から31年。31年分の値打ちが積み重なって存在感を増していました。世の中何でも新しいものが次から次に出現してきますが、時を経たものに値打ちがあるのです。頑張れ日番印。
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