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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

東条川疎水ネットワーク博物館の道標-依藤野

2014年02月27日 03時53分52秒 | Weblog
 加東市のほぼ中心に広がる台地、嬉野台地の東部は依藤野とよばれています。兵教大の附属小に勤務していた昭和56年に「東条ダムと台地の開発」という授業づくりに取り組んだ時、依藤野の松田さんから開拓当時の苦労話をお聞きしたことがありました。ダムからの水をポンプアップして台地に上げ、水路を通して田圃に水を入れることができたのです。
 その依藤野の公民館前の交差点に東条川疎水ネットワーク博物館の道標が立っています。この博物館は東条川疎水のダムと水路と池と田の壮大な水のネットワークを博物館に見立てたもので、台地に張り巡らされた用水路の目印になっています。
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ろうばい、水仙、小学生

2014年02月26日 04時26分03秒 | Weblog
 2月もあと3日。春の足音が聞こえてくるように日は長くなり日差しは明るく、植物が動き出す。
 登校見守りに立ちました。加東市社の消防会館の交差点。社小学校へ通じる学校道を子供達が通学班で列を組んで通り過ぎて行きます。ふとろうばいに目がいきました。厳寒の頃から咲き続け、今もその黄色い花びらを散らすことなく満開状態で咲き誇っています。その根元で水仙が花を開いて子供達を見守っているようです。
 黄色い帽子が通り過ぎていきます。朝、子供達の笑顔や声に出会うと元気が出ます。20分ほどの間に10班ほど通って行きます。大きくなった6年生はあと一月もすれば卒業です。
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加東市新庁舎が竣工-ライオンズC寄贈のモニュメントも

2014年02月25日 04時38分08秒 | Weblog




 24日(月)、待望の加東市新庁舎の竣工式典が行われ、業務がスタートしました。平成18年3月の社町、滝野町、東条町の加東郡3町の合併から8年にして合併のシンボル新庁舎が竣工し、加東市の新たな歴史の幕が開きました。玄関前には加東ライオンズクラブによって贈られたモニュメント「円と方」が、新庁舎竣工を祝うかのように朝日にまぶしく光っていました。
 モニュメントの記念碑には次のように刻まれていました。

「○」(えん)と「□」(ほう)により上昇する造形によって人々の「縁」を育み、地域の「宝」を活かし成長する姿を表現しています。
               2014 下山 肇                   
 国道372号に面し、嬉野台地の西端に聳える白亜の新庁舎。加東市の未来を拓く子供達が社小学校へ登校していく列が見えました。やがてメモリアルパークをはさんだ旧社庁舎が解体され駐車場に変わると新庁舎からの南方への眺望はさらに開けることでしょう。 
 
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冬から春へ

2014年02月24日 05時28分01秒 | Weblog


 
 2月も最終週に入って春が近くなってきたと感じることも多くなりました。関東では大雪の影響で困難な状況が続いているようですが、あらためて雪の怖さを知らされました。
 わが家の庭は冬から春へ、と季節が変わりつつあることを花が知らせてくれます。鮮やかな赤の山茶花、純白の水仙、そしてもうすぐ開こうとしている梅の蕾です。日に日に光の量が増してきたようにも感じます。
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昭和12年-海軍志願兵入団奉告祭

2014年02月23日 06時03分46秒 | Weblog
 NHK朝の連ドラ「ごちそうさん」で西門家の次男活男が海軍に志願しました。西門家の人々に見送られて活男は家を出て行きました。
 さて、この歴史ブログでは戦前の陸軍への入営、海軍への入団の通知などを数多く紹介してきましたが、ドラマでそうした場面が出てくると、実際の様子はこうだったのかなあと思いながら視ています。
 今日は昭和10年(1935)に海軍志願兵の入団と帰休除隊の奉告祭の通知を紹介します。

 昭和十年五月二十七日
                社町長  大橋實次

町会議員
区  長  殿
各種団体長

  海軍志願兵入団
           奉告祭挙行ニ関スル件
  帰休除隊(凱旋兵)

標記ノ件左記要領ノ通リ両日ニ亘リ入団者及帰休除隊凱旋兵ノ奉告祭ヲ挙行致スベク候条御多忙中トハ存候ヘ共万障御繰合ノ上御参列被下度此段及通知候也
 追而 区長各種団体長殿ヘ
   両日共御部内一般ヘ多数参列相成様御配慮相煩度願上候

   記

海軍志願兵
 一、志願兵  藤本義雄(松尾)
 一、日時   五月三十日午前八時
 一、場所   佐保神社前

帰休除隊凱旋兵
 一、除隊兵  歩、上、宮崎忠司(野村)
 一、社駅着  五月三十一日午後零時三十分
 一、奉告祭  同日午後一時
 一、場所   佐保神社前
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昭和18年-家庭用砂糖の配給

2014年02月21日 05時37分58秒 | Weblog
 NHKの朝の連ドラの「ごちそうさん」で、戦時下の食料品配給シーンがよく出てきます。この歴史ブログでは、当時の配給に関する通知などを多く紹介してきましたが、ドラマで配給の場面を映像でみることができ、実際はああいう風にしていたのかなあと、当時の様子をうかがい知ることができます。
 今日は昭和18年当時の社町(旧社町、今の社小学校区域)の砂糖配給の通知を紹介します。ちなみに64匁は240グラム。角砂糖1個が約4グラムとして60個分にあたります。

 昭和十八年三月十九日

              社町長  合田常蔵
各区長殿


 三月分一般家庭用砂糖配給ノ件通知

三月分一般家庭用砂糖ヲ明二十日ヨリ前月ト同様指定所ニ於テ配給致ス可ク候条一般ニ伝達相成度候

二伸
本月分ニ限リ一人当リ六十四匁宛配給致ス可ク一般ニ指示相煩シ度候
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大畑の地蔵堂

2014年02月20日 05時07分16秒 | Weblog


 県道神戸加東線は北播磨の中心部、社と神戸を結ぶ主要道です。三木市との市境の桃坂に向かって車を走らせていくと、大畑川が流れる大きな谷の両側に続くなだらかな山の風景が心を和ませてくれます。
 薮へ抜ける三叉路から少し行ったところの左手(東側)の山の中に小さなお社、そして、もう少し行ったところにお堂が見えます。
 いつも気になりながら、車を止める場所がなく通り過ぎていましたが、昼間は交通量も少なく、いいチャンスだと思って路上駐車をして坂を上ってみました。階段を上ると右手に池(チゴ岩池)があり、少し平らになった場所に小さなお社がありました(写真下)。しかし、どのような神様がお祀りされているのかわかりませんでした。階段の最上段の石に「山之谷・・」と刻まれていました。
 このお社から少し行ったところにお堂があり、地蔵堂と書いた札がかかっていました(写真上)。いつも県道を往来するだけでしたが、この大畑の谷筋に暮らす人々の信仰の拠り所であろうお社と地蔵堂に一度はお参りできてほっとしました。
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厳寒に梅の蕾ふくらむ

2014年02月19日 05時38分05秒 | Weblog
 関東では大雪のために孤立集落が相当数にのぼっていることが伝えられています。また、交通が各所で遮断され物流にも大きな影響が出ています。
 この春先の南岸低気圧と寒気が組み合わさると太平洋側でも大雪になるということはこれまでにもよく経験してきましたが、それでも数年に一度といったことではなかったかと思います。数センチも積もれば播磨地方の交通は止まってしまいます。教員だった頃、2月中旬の私立高校の入試の頃に大雪で困った経験もあります。
 さて、そうした厳寒の中にあって、庭の梅の蕾がだんだん膨らんできて、白い花びらの部分が少し見えてきました。この梅は亡き母が正月用の梅の寄せ植えの飾りにしたものでそのまま植えて20余年。今では大きく成長しています。わが家の庭には、この梅の他にも父や今は家を離れて暮らしている息子や娘が植えた木があり、季節季節に実をつけたり鮮やかな色の葉で楽しませてくれます。今は梅の蕾がいろいろ教えてくれます。
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昭和初期の社の町-父の創作から

2014年02月17日 05時07分39秒 | Weblog
 昨日に続いて、今日も父の創作ブックの作品を紹介します。以前にもこの詩を紹介したことがあるのですが、再度読んでみると、昭和初期の社の町のようすが描かれているなと思います。
 「窓から」とは、父が住み込みで働き、創作に取り組んでいた市場の2階の窓のことでしょう。南向きの窓から「いくつかの棟を通して」見える劇場とは佐保座のことでその大屋根に立つ避雷針のこと。その避雷針の「西に黒く立つてゐる松の木」とは方角から山氏神社の大松で義経お手植えの松のことでしょう。このように読んでいくと、当時、父が田町通りの市場の2階の窓から、冬の日の夕方の社の町の景色を眺めながら詩を書いたようすが浮かんできます。
 写真は昭和10年代の社の町を東の嬉野から見渡したものですが、よく見ると、裁判所の大屋根、その向こうに社警察署の白い庁舎、その向こうの大屋根が佐保座です。写真左の松林の中で抜きんでて大きな松が山氏神社の松です。瓦屋根の続く社の町を写真でいうと、右手の奥に田町通りがあり市場がありました。そこから眺めていたんですね。



窓から

木枯が吹いて通る頃になつた。
小さい間中窓からいくつかの棟を通して
儼然と避雷針を青い空に突きあげてゐるのは町の劇場だつた。淋しい太陽が名殘の光りを避雷針に告げると
うすやみにうかんだ避雷針の西に黒く立つてゐる松の木が聲出して沈む夕陽を慰める。
ほんのり燒けた空を灰色の固まつた浮雲が東の方へ避雷針と松をすかして走つて行く。
                              ー一二.一九ー
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父のブックより-昭和4年の音楽会

2014年02月16日 04時31分29秒 | Weblog
 父が19歳の青年だった頃、文学を志し、小説や詩を書き込んだ創作ノートを時々開いて読むことがあります。手帳大のノートに小さな字でぎっしり書き込んであります。
音楽会でのニヒルな青年を表現しているのだと思いますが、会場は社小学校の講堂でしょうか。それとも社高等女学校でしょうか。社小学校の講堂は2階にありました。階段を上って講堂に入ると、正面に舞台があり、重々しい造りだった記憶があります。女学校の校舎は知りませんのでわかりません。当時、社小学校では納涼音楽会が開かれていた資料もあります。Y女学校は県立社高等女学校のことでしょうが、こうした音楽会は町の若い男女のときめきの場でもあったのでしょう。
 写真は昭和29年(1954)のものですが、私が在籍していた頃の記憶にある社小学校の講堂と同じです。おそらくその25年前も同じではなかったと思います。
 『社小学校創立百年誌』には、昭和2年に講堂が完成したと記されています。東北播磨に例をみないモダンな建物であったようです。

創作ノートから
       
 田舍にしては珍しい木筋建の大講堂の二階で今晩はある會の主催で音樂會が開かれた。
 凡ての設備が現代式に出來てゐる。
 中央から正面には御眞影が安置され右と左とが階下へ行く梯子口。凡そ二百餘名の觀衆が揃ふと音樂會はプログラム通り開かれてゐく。
 若い女の人、男の人、高い壇上に上る度びに大喝采を受けて笑みに迎へられる。
 Y女學校の寄宿生と町のハイカラな青年二十人餘りと小學生が多く竝んだその後の小さな椅子に腰を下ろして餘程神經質な圓顏に、眉をひそめ乍ら皆が拍手しても笑つても感心しても少し笑はねば拍手もせねば隣に竝んだ青年に話さぬ二十才前後の青男がゐた・・・。                      
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社の裁判所-今昔

2014年02月15日 07時12分39秒 | Weblog





 社の裁判所の今昔を写真で紹介します。上の写真は昭和10年代のもので、今、法務局の建物がある場所にあったものです。
 2段目の写真は県立社高等女学校跡に建てられた裁判所、その下が構内に建てられていた高女跡の石碑です。4段目の写真は昭和10年代の社高等女学校の校舎の写真です。
 そして最下段の写真2枚が現在の裁判所の建物です。
 明治時代に社に裁判所が設置されてから、現在の裁判所まで明治、大正、昭和、平成の4代にわたり、時代と共に場所と建物は変わってきましたが、裁判所のある町として今に続いています。
 裁判所前の道路が補修され、美しくなりました。
  
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日露戦争従軍記念碑ー東光寺境内

2014年02月14日 04時29分57秒 | Weblog
 加東市上久米の東光寺では2月11日に伝統の祭り「大日たん」(だいにったん)が行われました。山伏による護摩焚きが始まる前、本堂では僧侶による大般若経の転読法要が行われました。その様子を境内の東の少し高いところから拝観しておりますと、墓地の一角にある石碑に目が止まりました。
 石碑には「日露戦役従軍紀念」と刻まれていました。そして、その下に23名の氏名が刻まれています。建立年は大正12年(1923)、関東大震災が発生した年です。建立者は上久米邑青年と刻まれています。
 日露戦争は明治37年(1904)に起こりました。日本の運命をかけた大戦争でしたが、上久米村からもこのように23名という多くの人が出征されたんですね。村の歴史、国の歴史を伝える石碑が今もこうして寺の境内にひっそりと立っていました。
 
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大日たん(だいにったん)-加東市上久米の東光寺で

2014年02月13日 05時06分08秒 | Weblog


 2月11日(火)、建国記念の日。加東市市では2つの伝統の祭りが行われました。一つは昨日紹介した河高八幡神社の厄除け祭り。そしてもう一つが、上久米の東光寺の大日如来祭、通称大日たん(だいにったん)です。

 「大日ったん」についてはこれまでにもこの歴史ブログで紹介してきましたが、社町時代の「広報やしろ」第10号(昭和35年3月5日発行)に紹介されている文を再掲します。

 「郷土の探究」(8)
 社町にも北播三大祭の一つとかぞえられるものに、上久米にある東光寺の恒例祭とされている「大日如来祭」がある。
 昔から牛馬の守り仏として有名で毎年二月二十八日には播州一円の農家が参拝し、境内せましと思わせる。この日北播一帯の青年有志大相撲が展開されるとともに参道に列をなす植木をはじめ農機具などの多くの露店は、まさに社町のなかでの最大の祭りでもあり、北播三大祭の一つでもある。

 今日も80歳になられる地区の方が、この田圃のすぐ下(南)には、米田村役場、小学校、駐在所などがあったことや参道には露店が立ち並び、参詣の人並みが続いた賑わいを懐かしそうに話してくださいました。
 毎年この日は寒い。寒くなければならないように寒くなる。今年も白いものが散らつきましたが、護摩焚きの頃になると冷たい強風が吹いて、もうもうと立ち上る煙がまるで龍が天に昇るように渦を巻き、方向を回転しました。
 火渡りでは、今年も無病息災を願ってまだ火がいこるなかを多くの人が素足になって渡っていきました。もちろん私も渡りました。これで8回目です(写真下)。
 今日の祭りの次第は次のとおりです。

東光寺大日法会
一、午後一時
   大般若経転読
一、午後二時
   大護摩
一、午後三時
   餅配り

日照山東光寺 護摩供養次第
一、法螺 三声
一、山伏問答
一、法弓作法
一、法剣作法
一、法斧作法
一、願文
一、点火
一、導師作法
一、古札供養
一、火生三昧(火渡り) 以上
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河高八幡さんの厄除け祭-山上で伝統の行事

2014年02月12日 04時23分12秒 | Weblog


 2月11日(火)、建国記念の日、冷たい風が吹いているものの好天に恵まれて、加東市河高の八幡神社で厄除け祭が行われました。
 この歴史ブログでも毎年紹介してきましたが、祭では、地元出身の成功者や厄年の人たちがお金(硬貨)をまいて、それを子供たちが拾うという行事が行われることでも知られています。
 今年も本殿に参拝したあと、本殿脇の坂道を登って山上の祠に向かいました。山上は、広場のようになっており、むき出しになった大きな岩盤があり、その真ん中に巨岩が天に向かってそそり立っており、その頂上に小さな祠が安置されています。巨岩には注連縄が張られ、この一画が神聖な場所であることをさらに強調しています。この山頂は加西との境にもあたる場所でもあります。
 巨岩の前の広場には法被姿の子供たちが群れています。そこへ袋やお盆にお金やお餅、お菓子などを持った人たちが現れ、巨岩の上の祠にそれをお供え、拝んだあと、子供の方に向かってお硬貨やお菓子をまきます。子どもたちは歓声をあげながらそれを拾って用意した自分の袋に入れていきます。周囲では子どもの親御さんや家族がその光景を微笑みながら見守っています。

 この河高八幡の厄除け祭について毎年紹介している文を今年も再掲します。

 河高八幡さんは、今から約470年前の天文4年の創立とされ、「厄除けの霊験頗る顕著」なお宮さんとして知られ、厄除けのお祭りが毎年一月十九日に行われていました。この日には旧加東郡や加西、多可郡から多くの人が参詣したと聞きました。また、地区の子どもたちはこの日ばかりは学校を休んでお祭りに出たということでした。年輩の方の話では、前夜から友達と連絡を取り合い、午前三時頃から山の上に向かつたそうで、親も寝ておれなかった、ということです。戦後の一時期、女の子も参加したようですが、今は地区の男の子だけが参加できることになっています。この祭りを「奇祭」とよび、子どもがお金を拾うという行為を好ましくないなどという観点から一部の批判があったことは確かで、毎年新聞でそのようなコメントが付けられていました。しかし、このお祭りは厄除けの祭り、伝統文化、地域社会などの観点から見るとそのような表面的な見方だけの批判は的はずれといわざるを得ません。子ども達は拾ったお金を特別なお金として大切に使い方を考えたと聞くきました。また、拾っている姿を見ていると、年長の者が年少の者に配慮しながら拾っている姿もありました。成功した人が地域に感謝の気持ちを示すというこうした姿勢をこの子ども達がまた継承していき、地域の維持発展につながることになると思います。
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雪のやしろステラパーク-12星座モニュメント

2014年02月09日 04時49分44秒 | Weblog


 雪が降りました。子供のように嬉しくなって車でやしろステラパークへ。12星座のモニュメントが雪をかぶっていました。誰の足跡もありません。モニュメントの一つ。きっと牡牛座でしょう。角が雪をかぶっています。隣は双子座でしょうか。真っ白な雪の公園で寄り添う二人。静かな静かな雪のステラパークでした。
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