ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

加東の風景-三草山古戦場

2011年11月30日 06時19分22秒 | Weblog
 源平合戦の一ノ谷の合戦の前哨戦として知られる三草山合戦(1184)の古戦場、三草山を加東市下三草の田圃の中から望んだ写真です。手前に圃場整備が行われ、きれいに区画された田圃が広がっていますが、義経の奇襲によって敗れた平氏がこのあたりまで逃げてきてきて、侍女らが悲しみのうちに池のほとりで水をのんで喉をうるおしたと伝えられる「かなし池」があった辺りです。私は、丹波の山道から播磨の平野への出口に堂々たる姿で横たわる独立の山、三草山の姿が好きです。今日もいい姿が望めました。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加東の人物-松尾新十郎

2011年11月28日 05時44分27秒 | Weblog
 佐保神社(加東市社)の境内、拝殿前の石燈籠に松尾新十郎の名が刻まれています。朝、参拝をすませて拝殿の階段を下り、西側に抜けるとき、必ず目に入ります。慶應四年九月と刻まれていますから、1868年(明治元年)、今から143年前のことです。
 燈籠の側面に碑文があり、松尾久林が先祖である松尾貞良の敬神の志を継いで奉献するといった内容が書いてあります。
 『新修加東郡誌』によると、松尾新十郎貞良は宝暦13年(1763)生まれで、天保15年(1844)にこの世を去っています。松尾家は北野(現加東市北野)の廻漕問屋で、新十郎の代にますます家業を広げてその名を知られたとのことです。新十郎は家業だけでなく、世のため人のために、公共につくしました。北播磨一円の神社仏閣への寄進、橋梁の架設、争いの仲介などを行い、佐保神社にも小宮、神刀、石燈籠などを寄進しています。晩年は蜷子野新田(現加東市稲尾)の再開発という大事業に取り組んでいます。還暦の祝いの費用を節約して米を近隣の村々の貧しい人々に分け与えたり、飢饉の時には代官所へ申し出て米を買い、ただ同然の値で貧しい人々に売り渡したといった話もあります。佐保神社の拝殿前の石燈籠に刻まれた松尾新十郎の名を見るたびに生涯を通して地域の繁栄と人々の幸福のために尽くした生き方に思いを馳せることになります。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加東の人物-村上代三郎

2011年11月27日 05時36分37秒 | Weblog
 加東市木梨の北の丘陵にある墓地に村上代三郎の墓碑があります。「村上木州翁之碑」と刻まれています。
 木州村上代三郎は幕末の蘭学者で、全国にその名を知られた人物です。『新修加東郡誌』の人物編に代三郎のことが紹介されていますが、適塾の塾長をつとめたこと、また、幕府講武所の蕃書取調で教えたこと、伊藤博文が新政府への出仕を進めに訪ねてきたことなどすごい人物だったことにあらためて驚きます。

 村上代三郎は文政6年(1823)、上福田村木梨(現加東市木梨)の三草藩の藩医の家に生まれ、幼少の頃から学問好きで村の学者の元で漢学や蘭学の手ほどきをうけていました。18才のとき、大阪の緒方洪庵の適塾に入門し、大鳥圭介や大村益次郎らとともに学問に打ち込みました。代三郎はこの適塾で塾長もつとめるほどの俊才でした。のちに江戸に出て蘭法医学を学び学識を深めています。嘉永4年(1851)、帰郷して蘭学塾を開いています。安政4年(1857)には、幕府講武所の蕃書取調師範として招かれ西洋兵学を教授しています。しかし、眼病を患い帰郷します。その後紀州藩や浜松藩に招かれていますが、しばらくして帰郷し、以後は木梨で私塾を開き、蘭学、西洋兵学を教えました。代三郎のもとには、新政府で活躍した江藤新平らが教えを乞いにやってきました。また、伊藤博文も代三郎に新政府への出仕をすすめるためにやってきています。しかし、代三郎は病気を理由に辞退しています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中世の山城址-小沢城

2011年11月26日 05時52分30秒 | Weblog
 加東市の中央に広がる嬉野台地の東端から東条谷への長い坂道を下ると、その左前方に小高い山の張り出しが目に入ってきます。山々の紅葉が一気に進んで、いつもの晩秋の色に変わってきました。
 この小高い山に中世の山城、小沢城址があったと聞いています。城主は依藤野(嬉野台地の東端一帯の呼び名)で自刃した依藤太郎左衛門、依藤氏の城だったそうです。依藤氏は中世に東条谷を支配していた豪族で、山には城の遺構があるそうですが、山に分け入らねばなりません。山へと続く道を辿っていったことがあるのですが、墓地で行き止まり、別の道を行っても行き止まりで、それなりの準備をして入らなければならないと思いました。小沢城の碑があるところへ行くには場所を知っている人と一緒でなければ、という話も聞きました。
 張り出した山を取り巻くように階段状に田圃が広がり、秋のまばゆい光に照らされて色づいた木々が燃え上がるように見えます。中世の景色はどうだったんだろうといろいろ想像してしまいます。自然豊かな加東市の中でもこの小沢城址のある辺りは美しい風景の一つです。これからの色の変化が楽しみです。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加東市で忠臣蔵サミット開催

2011年11月21日 06時07分44秒 | Weblog
 18,19日の両日、加東市で忠臣蔵サミット(第23回義士友好都市交流会議)が開かれました。社町時代に第11回目のサミットが開かれ、早籠にちなんで社の商店街で籠かき競走が行われたこともありました。今回は、北は北海道の砂川市、岩手県の一関市、南は熊本県山鹿市など、全国の義士ゆかりの地から14都市がサミットに参加して開かれました。
 18日の夜に行われた歓迎レセプションでは、社播州音頭踊保存会の皆さんによって、「赤穂義士外伝 神崎与五郎東下り」が披露されました。ゆったりしたリズムで歌われる一節は人々が義士の忠義のこころを偲んだ気持ちが伝わってくるようでした。与五郎といえば、このブログでも紹介したことがある「与五郎橋」が新町にあります。家原観音寺境内の四十七士の墓碑をはじめとして、加東郡代だった吉田忠左衛門ゆかりの聖神池(多井田)や状ヶ池(木梨)など市内には義士に関係する遺蹟が多くあります。
 12月14日には義士祭が行われます。昭和のはじめに地元の青年団員によって始められた祭は今も義士奉賛会に引き継がれて開催されています。義士のまち、として全国のゆかりのまちとの交流がさらに住民レベルで深まり広がっていくことを願っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝霧の学園道路

2011年11月16日 05時34分36秒 | Weblog
 秋が深まり、冷え込んだ朝には嬉野台地に朝霧が出ます。写真は県道社東条線、通称学園道路です。けやきの並木が朝霧に差し込む朝日にシルエットとなって浮かんでいます。暖かい日が続き、色づく間もなく急に枯葉となってしまった今年のけやきでした。
 嬉野台地は標高100~150メートルの丘陵です。晩秋から冬にかけて天気のよい日の朝には濃い霧が発生します。10時頃まで霧に包まれることもしばしばです。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冷泉為勝と依藤太郎左衛門自刃の地

2011年11月14日 04時45分22秒 | Weblog
 昨日紹介した県道社東条線の加東市小沢の道標から県道を嬉野台地へと走り、長い坂道を登り切ったカーブのその少し奥に冷泉為勝と依藤太郎左衛門の墓があります。今年の7月3日に投稿したこのブログで紹介しましたが、その手前の林の中にもう一本、石碑が立っています。これが、冷泉為勝と依藤太郎左衛門自刃の碑です。県道から別荘地への進入路の脇に立っているので車を止めて写真を撮りました。

 7月3日のブログの一部を再掲します。
 
 嬉野台地の東の一帯は依藤野とよばれています。これは、15世紀から16世紀にかけて東条谷を支配していた土豪の依藤太郎左衛門がこの地で討死したことから付いた地名だといわれています。
 依藤氏は小沢城(加東市小沢)、小田城(小野市小田)を本拠とし、東条川流域を支配する土豪でしたが、嘉吉の乱(1441)で将軍足利義教が殺されてから、播磨は不安定な状況になり、各地でこうした土豪が勢力を張り合っていました。
 16世紀の前半頃には、三木を支配していた別所氏が勢力を広げ、依藤氏は敵対していましたが、天正6年(1578)に別所長治が細川荘(三木市)の冷泉為勝を攻めたときに、依藤太郎左衛門は兵を率いて別所氏と戦い、戦さに敗れてこの依藤野の地で死んだということです。
 
 およそ430年前にこの地でそんなことがあったのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小沢の道標-へんろみち

2011年11月13日 05時01分35秒 | Weblog
 加東市のほぼ中央部には嬉野台地が広がっています。その台地を社と東条を結んで県道が走っています。この県道を東条川に沿って走る県道小野藍本線から西に向かって走ると、しばらくして小沢の公民館が右手に見えます。銀杏が色づいて秋の光にまぶしく輝いています。さらに左右にゆっくりくねりながら走り、行く手に嬉野台地の東端と坂道が見えます。この辺りは加東市小沢と栄枝の村境になり、右手には中世の山城、小沢城があった小高い山が見えます。
 これから紅葉がこの山里にも訪れ、目を楽しませてくれるはずです。さて、この県道のすぐ脇の旧道との交差点に一本の道標が立っています。これまでまったく気づきませんでした。余りにも見晴らしが良すぎて気づかなかったのでしょうか。車を旧道に入れて見てみました。
 表面に刻まれた文字はよく判別できません。それでもしばらく見ていると、「へんろみち」と読めます。帰宅して調べてみると、加東四国八十八ヶ所霊場巡りの道標であることがわかりました。かつては巡礼の人々が歩いてこの旧道を通ったのでしょう。今は県道を車が疾走していきます。今日、この道標に出逢えたことが何だか嬉しくなりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嬉野に刻んだ30年の歴史-兵教大附属中

2011年11月12日 04時47分56秒 | Weblog
 加東市社の中心部から東に広がる嬉野台地に向かって学園道路が延びています。黄色く色づいた銀杏並木の道路の両サイドには、市立社中学校、そして県立社高校、さらに兵教大附属幼稚園、小学校、中学校、県立教育研修所などがあり、学園道路の名にふさわしく一帯が教育ゾーンになっています。
 かつては不毛の台地とよばれていた嬉野台地が先人の血のにじむような努力によって開墾され、昭和池や東条ダムからの用水が引かれ豊かな農地に変貌しました。また、戦前にはこの地に青年学生錬成場が解説され、グライダーの滑空訓練も行われましたが、戦後は嬉野公民研修所に生まれ変わって県下の青年、婦人の研修のメッカとなりました。また、新制の社中学校が建設され、さらに県立社高校が現在地に移転し、まさに嬉野台は教育のメッカへと姿を変えてきました。
 昭和55年、附属小学校は公民研修所跡の施設を仮校舎として開校しました。私は、翌56年に社中学校跡に新築された附属小学校に転勤してきました。そして、57年4月に開校した附属中学校の教員となったのです。以来平成15年3月末まで20年余りを附属中教員として過ごしました。
 その附属中学校が今年創立30周年を迎え、記念式典が行われたのです。嬉野に日本で一番新らしい附属中学校が誕生して30年が経ちました。校舎玄関のケヤキの木も校歌の歌詞のとおり大樹に成長し、嬉野の風景に校舎とともにとけ込んでいます。感慨一入です。写真は草創の頃の弁論大会のようすです。当時の中学生は今は40歳をこえています。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

持寶院境内の朝

2011年11月11日 05時49分52秒 | Weblog
 朝、ウォーキングの途中に持寶院(加東市社)の大師堂に参拝します。大師堂は加東四国八十八ヶ所霊場の根本道場で日本一木像大師像が安置されています。大師堂を出て朝日のさす方角を見ると、境内は静かな空気に包まれていました。光とともに生気が満ちてくるようでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柿とり

2011年11月10日 05時23分14秒 | Weblog
 秋の朝、鳥の一団が飛来して柿の木にとまり激しく鳴きながら色づいた柿の実をつついています。庭に出て大きな音を出しておどかすと、すぐ上の電線まで後退して鳴き続けます。もう一度大きな音をたてておどかすとどこかへ飛びび去っていきました。この朝は30分ほどして再び飛来し、同じことを繰り返しました。一団は朝の食事にやって来るのです。色づいた実に嘴をたてておきます。その実はそこから熟しはじめます。それを食べにくるのです。一羽二羽ならくれてやろうという余裕も出るのですが、数十羽でやってくるものですから追い払います。
 この庭の柿の木は、子どもの頃から毎年実をつけています。種類は冨有柿でしょう。木登りを覚えたのもこの木です。何度か枝から地面に落ちたこともあります。柿の木の枝はポキンと折れるのです。柿の実にはビタミンCが豊富だとか。秋にたくさん食べておくと風邪をひきません。もぎ取った柿をよく拭いて、というか磨きあげると本当にいい色に光ります。
 東京で学生生活を送っていた頃、母が箱一杯に柿を送ってくれました。みんなに分けなさい、と。母はどうやってこの柿をとっていたんだろうと思いながら今年も柿をとります。食べ頃になったものから急がずに。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若宮神社の石燈籠

2011年11月09日 04時32分03秒 | Weblog
 佐保神社(加東市社)を参拝し、境内を北の方角に抜けると、その先に若宮神社があります。若宮神社には、佐保神社の御祭神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)の子である天押雲命(あめのおしくものみこと)、その子の天種子命(あめのたねこのみこと)が祀られています。若宮神社の名前の由来もそこにあるようです。
 この若宮神社の境内の手水場の隣に古い石燈籠があります(写真左)。「御神燈」、「寛政十二年」と刻まれています。西暦でいうと1800年、今から200年余り前に建立されたものです。その頃、ロシアやイギリスの船が日本に現れ、幕府も北方開発を行っています。伊能忠敬が蝦夷地の測量に向かったのもこの頃です。
 灯明を灯す部分がなく、台石の上に屋根にあたる部分がそのままのっています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加東の人物-浅野長祚と薦誠碑

2011年11月08日 05時36分54秒 | Weblog
 加東市家原の赤岸交差点にある観音寺は赤穂義士の寺として知られています。境内奥には、赤穂藩浅野氏四代の藩主と四十七義士の墓碑があります。東京の泉岳寺、赤穂の花岳寺ともう一つ、この観音寺の三ヶ所に四十七義士の墓碑があるのです。この墓碑は弘化4年(1847)に義士の150回忌を迎えるにあたり、義士の忠義を讃える人々や近郷の村々の寄付により建立されたものです。
 その墓碑域の入口の階段脇に大きな石碑が建てられています。これが薦誠碑です。この碑は家原浅野氏七代の浅野長祚(ながよし)によるものです。長祚は文化13年(1816)江戸に生まれました。浦賀奉行、京都町奉行など幕府の役目に就き、安政の皇居炎上では、造営掛として再建に尽くしました。その後、江戸町奉行の要職にも就いています。慶應2年(1866)、役職を辞して、余生は学問や文芸の分野に多くの業績を残しています。赤穂浅野家は断絶しましたが、家原浅野家はこうして明治維新まで続き、長祚は明治13年に没しています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郷土の誇り太鼓屋台を描く-児童の絵画

2011年11月07日 05時37分44秒 | Weblog
 加東市秋のフェスティバルの企画の一つに市内の幼稚園から中学生までの絵や書道の作品の展示がありました。学校ごとに作品が展示されており、運動会や秋祭りなどの絵が多く、それぞれに躍動感が溢れていて鑑賞する者も楽しい気分になりました。
 写真はそのうちの一枚。高岡地区の太鼓屋台を描いたものです。この他にも獅子舞を描いたものが目立ちました。祭り、屋台、獅子舞等々、郷土の伝統文化そのものです。きっと描いた子どもたちの心に郷土の誇りとして深く刻まれていることだろうと思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加東の人物-小寺彦兵衛さん

2011年11月06日 05時50分28秒 | Weblog
 加東市秋のフェスティバルが市役所社庁舎やステラパークを会場に5,6日にわたって開催されています。初日は生憎の雨になりましたが、会場には多くの人が訪れ、菊花展や加東市の物産、味を楽しんでいました。
 庁舎北側では釣り堀が特設され、あまごやますを釣りあげてその場で焼いて食べることもできます。これは地場産業の釣針製造の兵庫県釣針協同組合のみなさんが毎年行っており、人気のコーナーです。
 テントの中にまげ姿の人物がありました。播州針で知られる釣針製造の祖、小寺彦兵衛さんに扮した土肥芳郎さん(前組合理事長)でした。小寺彦兵衛さんは市内下久米村の庄屋さんで、土佐で釣針製造の技術を学び、村に帰って技術を広め、その後、地場産業に発展する釣針製造の基礎を築いた人物です。
 加東市のマスコット、加東伝の助のモデルはこの小寺彦兵衛さんですが、土肥さんは小寺彦兵衛さんの研究を続ける一方、ミュージカルや歌などをつくり、その偉業を顕彰しています。写真は特設釣堀をバックに彦兵衛さん(針屋彦兵衛)に扮した土肥さんと私です。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする