ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

河高の渡舟の思い出-「滝野つたえぐさ」より

2018年05月31日 05時51分15秒 | Weblog
 以前、加東市河高地区の歴史をめぐるウォーキングに参加した折りに、加古川を跨ぐ中国自動車道の橋の辺りで、昔はここに渡舟があり、対岸へ渡っていたということを教えてもらいました。
 『滝野つたえぐさ』(滝野町老連編、平成5年刊)に、「ここは河高、向かいは穂積」の題で、河高の大久保さんがその渡舟の思い出を書いておられました。
 河高地区は加古川の右岸、穂積地区は左岸ですが、左岸に河高地区の田圃や畑があり、対岸に渡るために渡舟があったということです。橋は上流の北野の大正橋か、下流の福田橋を利用せねばならず、渡舟は便利でよく利用されていたようです。
 「ここは河高 向かいは穂積 中をとりもつわたし舟」の串本節の替え歌もあり、よく歌われたとあります。また、小学生の頃、社の佐保座に映画を観に行き、終わって解散時は河高地区の子供は、家原から穂積を通って、この渡舟に乗って帰ったことも懐かしい思い出として書いてありました。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人力で行った農作業の頃-「滝野つたえぐさ」より

2018年05月30日 06時06分26秒 | Weblog
 梅雨入りも近づいた今日この頃、すでに田植えが終わった田圃が見られるようになりました。
 『滝野つたえぐさ』(滝野老連編、平成5年刊)に、下滝野の大久保さんが「猫の手も借りたい二期の秋」の題で、田植えの頃、稲刈りの頃の農作業のこと、暮らしを詳しく書いておられます。
 「朝は朝星を、夜は夜星を頂きながら必死に働き、時には部屋の上がり口で寝てしまうこともあった」と早朝から夜半までかかって田植えをしたこと、また、「遅れている家があれば近所の者が手伝い合いもした。まさに村中総出の田植えであった」とも書いてあります。
 田植えが終わったあとの「さのぼり」では、「若苗を三宝荒神さんに供えて豊作を祈った。若い嫁は家族に気兼ねなく、でしょ(実家)へしらむしやちまきを手みやげに、骨休めに帰った」そうです。
 機械化以前の農作業は、人力に頼り、老若男女を問わず、子供もそれぞれの能力に合わせて、家族全員が協力して行ったことがよくわかります。子供はこうした農作業体験を通して、体力、勤勉さと忍耐力、家族への思いやりや連帯感、責任感を養ったと述べておられます。
 そんな時代を小さい頃に体験をしたのが私たちの世代で、田植えの季節には、苗代で苗を取ったことや、牛のこと、田植え、稲刈りなどの場面を思い出します。そういう体験を持っていることを今は幸運だったと思っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社中央公園金屋谷池周辺の今昔ー半世紀の変化

2018年05月29日 04時45分59秒 | Weblog




 ここに2つの写真があります。昭和44年と現在の加東市社の社中央公園とその周辺の航空写真です。ほぼ半世紀の時が経っています。
 中央の池が金屋谷池です。昭和44年の写真には、池と田圃、そして、北側(上)の中三昧墓地が見えます。この墓地の中を通る坂道が私の社高校への通学路でした。
 半世紀後の写真には、社中央公園と中央図書館が写っています。墓地もきれいに整備されています。また、嬉野台地へ上がる道路(写真下部)も改修され、広く真っ直ぐになっています。中央の円形の広場はステラパーク。春と秋にはフェスティバル、夏には盆踊りが行われる市民の広場になっています。池の堤と田圃(写真の左側)は、傾斜のある公園に生まれ変わっています。
 こうしてみると、半世紀という時の流れは、町の姿を大きく変化させたことがわかります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青野原駐屯地創設42周年記念行事

2018年05月28日 05時47分43秒 | Weblog
    

 陸上自衛隊青野原駐屯地は、小野市、加東市、加西市にまたがる青野原台地にあります。戦前は陸軍の演習地、そして現在は自衛隊の駐屯地として、高射特科群が配置され、青野原といえば自衛隊というように親しまれています。
 27日(日)に駐屯地創設42周年の記念行事が行われました。記念行事は青野祭とよばれ、隊員家族やOBはじめ、地域住民、家族連れなど多くの人が参観し賑わいました。 式典、観閲、音楽隊演奏、格闘演技に続いて、恒例の訓練展示が行われました。
 青野原に敵部隊が侵入し、自衛隊がこれを掃討するという設定です。パトリオットミサイルや新中SAMなど、飛来する敵ミサイルを迎撃、長距離砲や装甲車、ヘリなどが展開して敵部隊を掃討しました。大音響と空気振動の大迫力でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加東市花と緑のまつり「花き盆栽展」の花と子供

2018年05月27日 05時52分24秒 | Weblog






 26,27日の2日にわたって、加東市社の社中央公園ステラパークを会場にして、加東市花と緑のまつり「花き盆栽展」が開催されています。
 会場にはさつきの盆栽や山野草の寄せ植えが展示され、訪れる人々の目を楽しませてくれています。丹精込めてつくられたさつきの盆栽には見事な花が咲いて、おもわず立ち止まり、感嘆の声をあげてしまいます。盆栽は今や世界語にもあり、愛好家は世界中に広がっています。自然を人工的につくりあげて人間の側において楽しむという、こういう文化が日本にはあり、それを外国の人々も楽しんでいるということです。
 盆栽の前では、子供達が写生をしていました。会場中央には市内のいろいろな団体・グループが出店を出しています。恒例となっている更正保護女性会の皆さんによる昔遊び体験コーナーでは、牛乳パックを使った竹とんぼや風船、ドラえもん人形づくりなどに挑戦する子供の姿もありました。
 ステージでは兵庫教育大学の学生による音楽演奏や子供達のダンスなどの発表も行われて、まさに田植え前の好季節に花と緑を楽しむ素晴らしいまつりになっていました。そして、そこに子供の姿があるということがいいなと思うところでした。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トンボ、サツキ、苗

2018年05月26日 05時25分02秒 | Weblog
 



 25日(金)の昼頃、事務所から自宅へ戻るとき、路地に入ったところで、トンボが飛んでいるのに気づきました。体は黒に黄色。何と呼んでいたのか思い出せません。ブロック塀に止まったので、しばらくじいっと眺めていましたが、ポケットからカメラを出して(ほぼいつも持っている)構えると飛んでいき、庭木に移りました。少し上でしたが、ズームにしてシャッターを押しました。
 事務所に後援会長さんがサツキの盆栽を持ってきて下さいました。毎日開く花が増えています。25、26日は加東市の「花き盆栽展」が開かれます。
 そして、近所の先輩の家の裏ではキヌムスメの苗が朝の光を浴びて順調に育っていました。6月のはじめには田植えでしょうか。この中に我が家の田圃に植えられる苗も入っています。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨上がりの朝-光に満ちて

2018年05月25日 06時34分21秒 | Weblog


 24日(木)、雨が上がって朝日がまぶしいなか、社中央公園の金屋谷池の遊歩道を歩くと、青い空に向かって飛び出していくような感じに包まれます。
 雨上がりで、庭の木々の緑も朝日に映えていました。葉や花には水滴がつき、光っています。ブドウの小さな粒にもう一つ透明なつぶがくっついているように見えました。すがすがしい朝の時間です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「四大節」には小学校で祝賀式-「滝野つたえぐさ」より

2018年05月24日 05時53分03秒 | Weblog
 

 『滝野つたえぐさ』(滝野町老連編、平成5年刊)の第5章「思い出」の中に「四大節(祝日)」と題した思い出が掲載されています。
 四大節とは、四方拝(1月1日)、紀元節(2月11日)、天長節(4月29日)、明治節(11月3日)をいい、その他の大祭日とあわせて、国の休日としてお祝いし、お祭りをしていました。
 筆者の藤井初男さんは、「これらの祝祭日には、高岡のどの家家にも日の丸の国旗を掲げて、お祝いをし、国の祭をしのんだ。日の丸の旗が、ひらひらと朝日に映えるようすは、どの家もどの家も、日本国民として生まれた喜びを洗わしていた」と当時(戦前)を思い出しておられます。
 四大節には、小学校で祝賀式が行われ、小学生は登校していました。式では、教育勅語の奉読が行われ、小学生は勅語奉答歌を奉唱し、続いて校長先生のお祝いの話、さらに祝日の歌を奉唱したと書かれています。四方拝の式のあとには、一人一人にみかんが配られ、それが今でも(70年後)忘れられない思い出になっているとも。
 文には、教育勅語や祝日の歌の歌詞が書かれています。そして、終わりに「国の祝日でも、国旗を掲げる家は少なく、人々の心から祝う気持ちが少なくなった」、「平和で暮らせる幸せと、日本国に生まれた有り難さを祝日ごとに国旗「日の丸」を掲げて祝うことは、いつまでも継承されて、実行されるようになることを願ってやまない」と締めくくられていました。
 今でも我が家では、祝祭日には玄関に国旗を掲げます。加東市社の市街地には街灯に日の丸の小旗が掲げられています。折りたたみ式のマイ国旗(日の丸)も持っています(写真)。携帯に便利な国旗です。東京オリンピック・パラリンピックもあり、国旗に対する関心も高くなっていくと思いますが、国旗に対するマナーもしっかりと身につけておく必要があります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河高の小字名に鑪鞴(たたら)も-『滝野つたえぐさ』より

2018年05月23日 05時47分32秒 | Weblog
 『滝野つたえぐさ』(滝野町老連編、平成5年刊)に、河高地区の小字名についての一文が掲載されていました。河高地区は加古川の西岸にある歴史の古い地区ですが、小字が約90ほどあるそうです。投稿者の大久保さんは、子供の頃に古老から聞いた話と自分の推理を組み立てて小字名の由来を述べています。
 小字名は、地形や池、寺社などに由来すると思われるものの他、黒い石がころがっていることから黒石といったものがあります。その黒石の隣に鑪鞴(たたら)の地名があり、播磨地方に行われていた製鉄に関係するものではないか、と推理しています。河高地区は加古川の中流に位置しますが、さらに上流の多可郡では製鉄が行われていたことや、河高の高は多可とも通じるなど、想像は広がっていきます。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加東四国霊場巡拝のことも-『滝野つたえぐさ』に

2018年05月22日 06時01分50秒 | Weblog
 『滝野つたえぐさ』(滝野町老連編、平成5年刊)に加東四国八十八ヶ所霊場巡りの思い出が掲載されています。
 加東四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八か所霊場を加東郡内(旧の加東郡で現在の加東市と小野市域)に写したもので、大正7(1918)年につくられました。江戸時代にもあったようですが、明治維新の頃に消滅し、新たにつくられたものです。今年は100年目にあたります。
 思い出を寄せたのは河高地区の方で、当時は大阪や神戸など遠方からのお遍路さんもあり、札所では、近くの農家がぼたもちやおはぎ、かきもちなどの「せったい」をしたり、遅い時間にお参りのお遍路さんを家に泊めたりしたことが記されています。
 大正時代に復活した加東四国霊場巡りも支那事変が起きた頃(昭和12年、1937)から徐々に消えていったということです。
 今、加東市内各所にあるお堂、そして道標には「加東四国霊場」の文字が刻まれており、観光協会や観光ボランティアの皆さんによって巡拝ルートを辿る催しも行われています。明治維新150年、加東四国霊場100年の節目の年です。この地域の宝を大切にしたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川の渡し場今昔-滝見橋の工事

2018年05月21日 05時24分17秒 | Weblog
 『滝野つたえぐさ』(滝野老連編、平成5年刊)の348頁に「渡し舟」の題で、加古川沿いの新町の方が思い出を寄せています。
 滝見橋ができる前は、新町と対岸の上滝野を結ぶ渡し舟があり、その操船の仕方や運賃、舟守の呼び方などがいきいきと書かれています。「おーい」「待っとれよ」の声が聞こえてきそうです。
 現在、市道建設のために新しい滝見橋の架橋工事が行われています。滝見橋の下流側に橋脚が建てられており、新橋の上部はまだの段階です。
 かつて、加古川を上り下りする高瀬舟の舟運で栄えた上滝野や新町。その新町の川港の岩場には、釣り人の姿がありました。写真は上滝野側から新町側を見たものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子供も働き紡ぐ家庭の絆-「滝野つたえぐさ」より

2018年05月20日 05時35分54秒 | Weblog
 今日も『滝野つたえぐさ』(滝野町老連編、平成5年刊)から心に残った文を紹介します。大正時代の後半に少年期を過ごされた方の思い出で「家庭の絆」(第5章思い出、242頁)と題された一文です。
 私の父も明治43年生まれで、同じ年代に少年期を過ごしています。
 「少年時代、子供ながらに、家庭経済の一面を担った。親と共に仕事に打ち込み、よく働いた。」の一節から始まり、牛の世話を一通りしてから学校へ。下校した跡も、牛の飼料の草刈りから夏には水田の水かえ、牛の世話をする。夜は暗い電灯の下で勉強。農繁期はまた格別に忙しかったことが記されています。どの家でも子供の労働力は必要だったのです。
 「親と共に助け合いながらする仕事は、一面張り合いも元気も出、親の気持ちは痛い程汲みとれた。こうした中で、自分は家族の一員であるという、家への自覚と責任は自然と養われ、親子・兄弟の絆は一段と強くなったのではないかと思う」と。
 大正時代の人は強かった、とよく言われます。私の父も母も大正時代に少年少女期を過ごしています。昭和時代の前半、すなわち戦争の時代に青年期、戦後は敗戦からの復興の第一線で働いたのもこの時代の人でした。芯がしっかりしていたのだと思います。
 今、こうした子供時代の労働による家族の一体感、絆をつなぐことはありません。むしろ、家族と一緒に遊ぶことが一体感をつくる場になっているように思います。
 小さかった頃、農繁期に母親の実家に泊まって、田植えの手伝いをしたことや牛にえさをやったことを懐かしく思い出すことがあります。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『滝野つたえぐさ』2-女子報国隊の手記

2018年05月19日 06時45分11秒 | Weblog
 昨日に続いて、『滝野つたえぐさ』(平成5年刊、滝野町老人クラブ連合会編)の中から紹介します。
 頁をめくっていると、佐保神社(加東市社)の境内の日露戦役記念碑の前で撮影した記念写真が目に止まりました。昭和18年(1943)に神戸市の小泉製麻株式会社に勤労奉仕に出られた女子報告隊の皆さんが故郷に戻った際に撮されたものでした。
 寄宿舎での生活が綴られていましたが、この歴史ブログで小泉製麻に関する記事を投稿したことを思い出し、ブログを探してみると、平成21(2009)8月15日付の投稿ブログ、「昭和18年-勤労奉仕隊員家族の慰安映画会」の題の記事がありました。小泉製麻株式会社が勤労動員隊員の家族を招き慰安映画会を加東郡公会堂(現明治館)で開催するという案内でした。
 『つたえぐさ』の手記には、筆者が空腹でひもじい思いをしたこと、なんきん虫に悩まされたことなどが記されていました。戦争が長引き、銃後の生活では、物資や食糧が不足し、女子学生もこうした勤労奉仕に動員されていた当時の体験談ですが、その世代が少なくなり、こうした手記や史料によって時代のようすを知ることができました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高岡のはねつるべ-『滝野つたえぐさ』から

2018年05月18日 06時40分50秒 | Weblog
 

  滝野老人クラブ連合会編の『滝野つたえぐさ』(平成5年刊、380頁)は、滝野東小学校に勤務した平成17年度、3年生から6年生までの総合学習を担当したときに教材研究でずいぶん参考にさせてもらった冊子です。
 8章から構成され、「神事・神社」「仏事・寺院」「歴史・部落史」「暮らし」「思い出」「産業・なりわい」「戦記・従軍史」「伝承・歌謡等」の各項目で、老人クラブの会員さんの文が掲載されています。
 一旦読み始めると、その内容に引き込まれて、次々と読んでしまいます。実体験をもとに書かれており、また、それぞれ筆者の思いが込められているので、心が伝わってきます。
 267頁に「水替え」の題で、高岡の長谷川良雄さんが、はねつるべを使って水を汲み、田圃に水を入れていた子供の頃の農作業の思い出を寄せています。はねつるべは水の乏しい台地にある高岡にあった井戸のことで、一方におもりをつけた天秤につるべを井戸の底に入れて、6,7升の水を汲んで田圃に流していくというものです。特に大正13年の大干ばつの年のことも記してあり、真っ白になってしまった田圃の稲の株にやかんで水をかけたことも書いてありました。それも焼け石に水だったと。
 「こない苦労して作った米も、楽々に出来た米も、一升の銭は一緒だ」という筆者の父親の言葉が紹介されていました。今ではダムから送られてくる水が高岡の田圃を潤しています。昔の米作りの苦労を伝える「つたえぐさ」。貴重な一冊です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川流域につたわる俗信-たきの婦人学級編

2018年05月16日 05時39分12秒 | Weblog
 

 自宅の書棚の奥に小冊子がありました。「加古川流域につたわる俗信」という表題で、たきの婦人学級の編によるものです。47頁にわたって、天然・自然、生活、冠婚葬祭、民間療法、農作業、動物・植物の各分野に分類された言い伝えが収録されています。
 発行年は平成2年となっており、婦人学級で吉田省三先生(故人)の指導で編集に取り組まれたようです。
 「つばめが低く飛ぶと天気がわるくなる」とはよく聞きます。虫が低いところを飛ぶからツバメもその虫をつかまえるために低く飛ぶのだと聞いたことがあり、実際に雨の前には低く飛んでいるのを見ます。今では天気予報はつばめを見ずとも細かい所まで知ることができますが、そんな情報がない昔は自然の現象を言い伝えて予想していたのでしょう。
 「いぼ」の所に、「多井田(おいだ)のお薬師さんの線香の灰をつけるといぼがとれる」というのがあげられています。加東市多井田にある薬師堂のことで、このお薬師さんは、皮膚病によく効くとして知られており、地元のお年寄りはお参りをして、線香の灰を持ち帰ってイボに塗るとイボがとれると実際に話しておられるのを聞きました。
 そんな俗信が約500ほど収録されています。言い伝えの理由を考えると想像がふくらみ時間の経つのを忘れてしまいそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする