ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

もうすぐ義士祭3

2010年12月09日 12時41分39秒 | Weblog
 昨日は義士祭の始まりを紹介しましたが、昭和50年代半ば頃、観音寺住職の尼僧から聞かせてもらった話を紹介します。

 この観音寺は江戸城松の廊下で刃傷に及んだ浅野内匠頭長矩が最後に建立した寺で長矩の思いが強かったといいます。また、夫人の瑶泉院の持仏十一面観世音菩薩を観音堂本尊としていたとも伝えられ、瑶泉院はこの観音寺によくお参りをしたということです。尼僧は、長矩の魂が境内の南の大木の上によく戻ってきていたという話もして下さいました。
 この話をビデオに撮れと言われたのですが、準備ができていなかったので実現せず、今となっては惜しいことをしたと思っています。また、父親ら青年団員が義士祭を熱心にやってくれていた、といった話も懐かしそうに話しておられたことを今もよく覚えています。

 この歴史ブログで、昭和30年の社町合併記念での義士に扮した父の写真も紹介したように、赤穂義士ゆかりの地であるということが郷土の誇りだったのです。私自身も社保育園に通っていた時には、義士の墓にお参りをして甘酒をいただいたこと、社中学の生徒だった頃には加東郡中学校駅伝大会に出場したこと、社連合区の役員だったころは義士奉賛会として福引きなどの接待をしたことなど、幼児の頃からこの義士祭に何らかの形で参加してきています。時代とともに少しずつ形を変えながらも世代を超えて義士祭が続けられていることに誇りを感じます。

 境内には、赤穂四十七義士の墓碑の配置図が掲げられています。その配置は、浅野内匠頭長矩を中心に、大石内蔵助、主税父子が脇に、それを取り囲むように義士の墓碑が並んでいます。300余りの時を超えて、今も主人にひかえているような忠義の心が感じられます。ぜひ、一つ一つの墓碑に刻まれた義士の名を見て、口に呼んでみていただきたいと思います。
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もうすぐ義士祭2

2010年12月09日 05時23分42秒 | Weblog
 加東市赤岸(家原)の観音寺に赤穂四十七義士の墓(墓碑)があり、毎年12月14日には、観音寺を中心に加東市赤穂義士祭が開催されます。
 忠臣蔵は日本人の魂に深く刻まれた国民的歴史物語といってもよいと思いますが、播州赤穂はその舞台として有名ですし、義士祭も盛大に行われ、メディアにもよく紹介されます。
 播州北播磨の加東市の義士祭は旧社町はじめ加東市周辺で地域的には知られていますが、やはり本場に比べると知名度が低いのは仕方ないのかも知れません。
 社町で義士祭が始まったのは、昭和の初め頃、昭和2年(1927)だったようです。本場赤穂では明治36年(1903)こ始まったとされています。この歴史ブログでも紹介したことがありますが、義士祭が始まった頃、青年団員が四十七士に扮装して祭を盛り上げたようです。写真は、その勢揃いしたところを撮影したものです。大高源吾に扮した若き藤本豊治(父)の姿も見え、当時の青年の気概が伝わってきます。
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