昨日は義士祭の始まりを紹介しましたが、昭和50年代半ば頃、観音寺住職の尼僧から聞かせてもらった話を紹介します。
この観音寺は江戸城松の廊下で刃傷に及んだ浅野内匠頭長矩が最後に建立した寺で長矩の思いが強かったといいます。また、夫人の瑶泉院の持仏十一面観世音菩薩を観音堂本尊としていたとも伝えられ、瑶泉院はこの観音寺によくお参りをしたということです。尼僧は、長矩の魂が境内の南の大木の上によく戻ってきていたという話もして下さいました。
この話をビデオに撮れと言われたのですが、準備ができていなかったので実現せず、今となっては惜しいことをしたと思っています。また、父親ら青年団員が義士祭を熱心にやってくれていた、といった話も懐かしそうに話しておられたことを今もよく覚えています。
この歴史ブログで、昭和30年の社町合併記念での義士に扮した父の写真も紹介したように、赤穂義士ゆかりの地であるということが郷土の誇りだったのです。私自身も社保育園に通っていた時には、義士の墓にお参りをして甘酒をいただいたこと、社中学の生徒だった頃には加東郡中学校駅伝大会に出場したこと、社連合区の役員だったころは義士奉賛会として福引きなどの接待をしたことなど、幼児の頃からこの義士祭に何らかの形で参加してきています。時代とともに少しずつ形を変えながらも世代を超えて義士祭が続けられていることに誇りを感じます。
境内には、赤穂四十七義士の墓碑の配置図が掲げられています。その配置は、浅野内匠頭長矩を中心に、大石内蔵助、主税父子が脇に、それを取り囲むように義士の墓碑が並んでいます。300余りの時を超えて、今も主人にひかえているような忠義の心が感じられます。ぜひ、一つ一つの墓碑に刻まれた義士の名を見て、口に呼んでみていただきたいと思います。
この観音寺は江戸城松の廊下で刃傷に及んだ浅野内匠頭長矩が最後に建立した寺で長矩の思いが強かったといいます。また、夫人の瑶泉院の持仏十一面観世音菩薩を観音堂本尊としていたとも伝えられ、瑶泉院はこの観音寺によくお参りをしたということです。尼僧は、長矩の魂が境内の南の大木の上によく戻ってきていたという話もして下さいました。
この話をビデオに撮れと言われたのですが、準備ができていなかったので実現せず、今となっては惜しいことをしたと思っています。また、父親ら青年団員が義士祭を熱心にやってくれていた、といった話も懐かしそうに話しておられたことを今もよく覚えています。
この歴史ブログで、昭和30年の社町合併記念での義士に扮した父の写真も紹介したように、赤穂義士ゆかりの地であるということが郷土の誇りだったのです。私自身も社保育園に通っていた時には、義士の墓にお参りをして甘酒をいただいたこと、社中学の生徒だった頃には加東郡中学校駅伝大会に出場したこと、社連合区の役員だったころは義士奉賛会として福引きなどの接待をしたことなど、幼児の頃からこの義士祭に何らかの形で参加してきています。時代とともに少しずつ形を変えながらも世代を超えて義士祭が続けられていることに誇りを感じます。
境内には、赤穂四十七義士の墓碑の配置図が掲げられています。その配置は、浅野内匠頭長矩を中心に、大石内蔵助、主税父子が脇に、それを取り囲むように義士の墓碑が並んでいます。300余りの時を超えて、今も主人にひかえているような忠義の心が感じられます。ぜひ、一つ一つの墓碑に刻まれた義士の名を見て、口に呼んでみていただきたいと思います。