加東市の歴史研究グループの一つに、やしろ歴史民俗研究会があります。会員は約80名。月に一度程度の学習会と年に2回の研修旅行が主な活動です。毎年その年度のテーマを決めて、学習会や研修旅行もその趣旨にあった内容で構成されます。今年は原点に立ち返り郷土の歴史を概観しようということで、今回は東条地域の歴史、中世を中心に学びました。講師は、東条の歴史を掘り起こそう会の邦近従宏会長。播磨風土記に記された端鹿里(はしかのさと)、鎌倉時代から伝わる大般若経、掎鹿谷薬師堂、秋津の薬師堂、黒谷の若宮八幡宮や柱祭、そして嘉吉の乱と安国寺など中世の歴史が今なお伝えられる貴重な歴史、伝統などについて教えていただいた。初めて知ることも多く、スライドを見ながら機会があれば訪れてみたいと思うことも。
稲刈り、秋祭りの頃になると早朝ウォーキングも半袖半パンでは寒いと感じるようになりました。日の出も6時を回ったころになり、季節が急ぎ足で変わっていくのを実感します。
午前5時半頃、ちょうど夜明け前。東の空がほんの少し明るくなる頃が一番神秘的です。加東市社の市街地の東の入口にあたる道池交差点。田町(たまち)通りの東端にあたりますが、商店街のゲートがあります。ゲート、信号の赤、向こうには百旗墓地のシルエットが浮かび上がっています。
午前5時半頃、ちょうど夜明け前。東の空がほんの少し明るくなる頃が一番神秘的です。加東市社の市街地の東の入口にあたる道池交差点。田町(たまち)通りの東端にあたりますが、商店街のゲートがあります。ゲート、信号の赤、向こうには百旗墓地のシルエットが浮かび上がっています。
昨日紹介した加東市藤田の木梨神社参道、県道西脇三田線に沿って広がる酒米山田錦の田圃の排水路の道路側の法面に彼岸花が午後の低い太陽の光の中で真っ赤に咲いています。彼岸の中日から一週間ほど遅く彼岸花の赤い色があちこちで目に飛び込むようになりました。
彼岸に少し遅れて黄金色に色づいた秋の田の畦に彼岸花の赤がまぶしく映えています。加東市藤田の県道西脇三田線沿いの木梨神社の鳥居の近くに彼岸花が咲きます。まだつぼみのものもあり、いつもより少し遅咲きなかと思いながら車を降りてシャッターを押しました。
神社参道の鳥居のすぐ脇に今年は山田錦と書かれた黄金色の法被を着けた案山子が立っていました。酒米の王様、山田錦の特産地である加東市ならではの風景です。グレードアップ山田錦の幟とともに豊かに実った稲田を見守っていました。
神社参道の鳥居のすぐ脇に今年は山田錦と書かれた黄金色の法被を着けた案山子が立っていました。酒米の王様、山田錦の特産地である加東市ならではの風景です。グレードアップ山田錦の幟とともに豊かに実った稲田を見守っていました。
今日も引き続き父の創作ブックから作品を紹介します。無産階級、プロレタリア文学を志して市場の2階に住み込んで創作に打ち込んだ青年。時代は昭和3年。
十九の春で
將來社會主義者を
夢見てゐる男が
三〇錢飛ばしてキネマの
ラブシーンを見て
”おらあーにもあんなに
旨くラブが進まないものかなあ”
とチラツク寫眞を身乍ら
叫んでゐた。
一九二八・五・二三
太陽と長屋
三錢の風呂賃と
七錢のバット代と
コップ一杯二錢の酒とで
日給は終はつてゐた。
太陽が輝いて
バラツクの長屋には
辛の錢布を握つた奴
ばかりだつた。
一九二八・五・三〇
十九の春で
將來社會主義者を
夢見てゐる男が
三〇錢飛ばしてキネマの
ラブシーンを見て
”おらあーにもあんなに
旨くラブが進まないものかなあ”
とチラツク寫眞を身乍ら
叫んでゐた。
一九二八・五・二三
太陽と長屋
三錢の風呂賃と
七錢のバット代と
コップ一杯二錢の酒とで
日給は終はつてゐた。
太陽が輝いて
バラツクの長屋には
辛の錢布を握つた奴
ばかりだつた。
一九二八・五・三〇
今日も「父の創作ブック」から詩を紹介します。19歳の市場に住み込みで働いていた貧しい青年だった父は、文学を通して無産階級の叫びを表現しようとしていました。昭和初期の生活や街のようすも伝わってきます。
陽の照らぬ
長屋の路地で
臭い塵箱から紙屑を
撰つてゐる色黒の女は
車力にボロを積んで
歩いて行く男に
”よけいに集つたかいー”
と ドンゴロス袋を肩にして、言ふと、
”今日はないよ。”
女は返事はなかつた。
蠅の飛び立つ塵箱の
紙くづを眺めながら
だまつてゐた。
××階級の人は、二人が
夫婦である事を
知らなかつた。
一九二八・五・三一
長屋の細道で
塵箱をあさる屑やの老人と
ドンゴロス袋を肩にした
紙屑買の女とは
白い眼と、赤い眼を
向け合つた。
晝の太陽が笑つてゐた。
陽の照らぬ
長屋の路地で
臭い塵箱から紙屑を
撰つてゐる色黒の女は
車力にボロを積んで
歩いて行く男に
”よけいに集つたかいー”
と ドンゴロス袋を肩にして、言ふと、
”今日はないよ。”
女は返事はなかつた。
蠅の飛び立つ塵箱の
紙くづを眺めながら
だまつてゐた。
××階級の人は、二人が
夫婦である事を
知らなかつた。
一九二八・五・三一
長屋の細道で
塵箱をあさる屑やの老人と
ドンゴロス袋を肩にした
紙屑買の女とは
白い眼と、赤い眼を
向け合つた。
晝の太陽が笑つてゐた。
今日も父の創作ブックから作品を紹介します。昭和3年(1928)父19歳。市場に住み込み、文学を志し創作に取り組んだ日々。年頭に亡き母親の墓に参った折りの詩です。父は今、自分の歳を過ぎた息子が墓参りした姿を地下三尺で見ていることでしょう。
◇
昭和三年十九歳の年頭にあたって
久し振りに母の墓に參つた。
去年植木した青木が二十本小さく
偉勢よく青々としてゐた。
私は靜かに叫んだ。
地下三尺に眠る母よ。
私は十九になった。この體躯を
今母に見せたくてならない。
それすら見ることの出來ない
母よ。
私もいつか母の樣に地下三尺に眠つて
こんな言葉を言つてもらへるだらう。
ー一九二八・一・二九・
◇
昭和三年十九歳の年頭にあたって
久し振りに母の墓に參つた。
去年植木した青木が二十本小さく
偉勢よく青々としてゐた。
私は靜かに叫んだ。
地下三尺に眠る母よ。
私は十九になった。この體躯を
今母に見せたくてならない。
それすら見ることの出來ない
母よ。
私もいつか母の樣に地下三尺に眠つて
こんな言葉を言つてもらへるだらう。
ー一九二八・一・二九・
今日も父の創作ブックから作品を紹介します。昭和初期の社の町のようすを垣間見るようです。Y女学校・・・県立社高等女学校のことでしょう。
窓から
木枯が吹いて通る頃になつた。
小さい間中窓からいくつかの棟を通して
儼然と避雷針を青い空に突きあげてゐるのは町の劇場だつた。淋しい太陽が名殘の光りを避雷針に告げると
うすやみにうかんだ避雷針の西に黒く立つてゐる松の木が聲出して沈む夕陽を慰める。
ほんのり燒けた空を灰色の固まつた浮雲が東の方へ避雷針と松をすかして走つて行く。
ー一二.一九ー
◇
田舍にしては珍しい木筋建の大講堂の二階で今晩はある會の主催で音樂會が開かれた。
凡ての設備が現代式に出來てゐる。
中央から正面には御眞影が安置され
右と左とが階下へ行く梯子口。凡そ二百餘名の觀衆が揃ふと音樂會はプログラム通り開かれてゐく。
若い女の人、男の人、高い壇上に上る度びに大喝采を受けて笑みに迎へられる。
Y女學校の寄宿生と町のハイカラな青年二十人餘りと小學生が多く竝んだその後の小さな椅子に腰を下ろして餘程神經質な圓顏に、眉をひそめ乍ら皆が拍手しても笑つても感心しても少し笑はねば拍手もせねば隣に竝んだ青年に話さぬ二十才前後の青男がゐた・・・。
窓から
木枯が吹いて通る頃になつた。
小さい間中窓からいくつかの棟を通して
儼然と避雷針を青い空に突きあげてゐるのは町の劇場だつた。淋しい太陽が名殘の光りを避雷針に告げると
うすやみにうかんだ避雷針の西に黒く立つてゐる松の木が聲出して沈む夕陽を慰める。
ほんのり燒けた空を灰色の固まつた浮雲が東の方へ避雷針と松をすかして走つて行く。
ー一二.一九ー
◇
田舍にしては珍しい木筋建の大講堂の二階で今晩はある會の主催で音樂會が開かれた。
凡ての設備が現代式に出來てゐる。
中央から正面には御眞影が安置され
右と左とが階下へ行く梯子口。凡そ二百餘名の觀衆が揃ふと音樂會はプログラム通り開かれてゐく。
若い女の人、男の人、高い壇上に上る度びに大喝采を受けて笑みに迎へられる。
Y女學校の寄宿生と町のハイカラな青年二十人餘りと小學生が多く竝んだその後の小さな椅子に腰を下ろして餘程神經質な圓顏に、眉をひそめ乍ら皆が拍手しても笑つても感心しても少し笑はねば拍手もせねば隣に竝んだ青年に話さぬ二十才前後の青男がゐた・・・。
父の創作ブックの中より、今日も詩を紹介します。
二時十七分
エンジンの最大跳躍と
ヘッドライトの最大光力とが
凡てを威壓して、
鮮魚トラックが走つてゐる。
小さいボックスの中で
ナツパ服の男と
厚司の男が
囁いた。
カフェーのウェートレス。
酒。 飯。
街頭の火がチラツク。
夜の二時十七分。
一九二八・五・一三ー
二時十七分
エンジンの最大跳躍と
ヘッドライトの最大光力とが
凡てを威壓して、
鮮魚トラックが走つてゐる。
小さいボックスの中で
ナツパ服の男と
厚司の男が
囁いた。
カフェーのウェートレス。
酒。 飯。
街頭の火がチラツク。
夜の二時十七分。
一九二八・五・一三ー
文学青年だった父の創作ブックから、詩を紹介します。家が貧しく、市場に住み込み仕事をしながら創作活動をしていた父の青春時代。18歳の秋の作品です。
うどん屋
うす暗い電氣の下で
柱にもたれた小さい女の子が
うとうと眠つてゐた
黒い犬が入つて
うどん玉を喰はえて走つて出た
十二時を廻つたうどん屋の店
一〇・三〇ー
うどん屋
うす暗い電氣の下で
柱にもたれた小さい女の子が
うとうと眠つてゐた
黒い犬が入つて
うどん玉を喰はえて走つて出た
十二時を廻つたうどん屋の店
一〇・三〇ー
父の手帳大の創作ブックから、1928年9月21日の日付のある詩を紹介します。小さな文字でぎっしりと書き込まれたブックの一頁。父18歳の作です。
カフヱーの裏
カフヱーの裏で
洋食の腐りを
野良犬が食べてゐた
ただれた蒼白の顏の寢起の
ウヱターが犬を
追つた
犬はなぐられるのが恐くて
二、三歩後寄つたが
じつと逃げず眺めてゐたー。
!
野良犬と、夜の人間の野良犬
であるウヱターとは
しばし洋食の腐りを
中央に、眺め合つてゐた。
一九二八・九・二一・
カフヱーの裏
カフヱーの裏で
洋食の腐りを
野良犬が食べてゐた
ただれた蒼白の顏の寢起の
ウヱターが犬を
追つた
犬はなぐられるのが恐くて
二、三歩後寄つたが
じつと逃げず眺めてゐたー。
!
野良犬と、夜の人間の野良犬
であるウヱターとは
しばし洋食の腐りを
中央に、眺め合つてゐた。
一九二八・九・二一・
18日(火)、神戸市中央区、県庁向かいの県民会館2階の県民アートギャラリーで開催されている「細川勝展」に行ってきました。細川先生が描かれる世界は私たちの極く身近にある北播磨の野原や池、川、森などの心象風景です。あれっ、この風景はどこかで見たような・・・という絵に出会うと立ち止まってしまいます。静かな、そして、月の光に浮かびあがる野の草や川、池の水面。本当に静かな世界です。先生に失礼ながら、あの絵はあそこじゃないですか?とお尋ねすると、「そうそう分かりますか?」「いや、あれはよく似ていますが違う場所なんです」などと気さくに答えてくださいました。
「道はつづく野の彼方」細川勝展にぜひどうぞ。23日(日)まで。10時から午後5時までです。
「道はつづく野の彼方」細川勝展にぜひどうぞ。23日(日)まで。10時から午後5時までです。
加東市松沢は東条川の中流域にあり、かつての中東条村の西部に位置しています。県道小野藍本線沿いに神社がありますが、これが八幡神社です。昨日はこの八幡様のお祭りが行われました。神事が終わったあと、境内では子供相撲が行われていました。お年寄りの話では、子供も少なくなって今は女の子も相撲をとる、ということでしたがそれはどこも同じ。私も小さい頃、母の実家のある松尾(加東市松尾)の八幡さんの子供相撲に出たことを覚えています。
境内の相撲場の近くの古そうな石灯籠には嘉永の文字が刻まれていました。山王神社の氏子だったそうですが、今は独立してこの八幡神社の氏子として祭りを継承していると教えていただきました。神社の周りの田圃は豊かに実った稲穂が色づきはじめ重そうに頭を垂れていました。
境内の相撲場の近くの古そうな石灯籠には嘉永の文字が刻まれていました。山王神社の氏子だったそうですが、今は独立してこの八幡神社の氏子として祭りを継承していると教えていただきました。神社の周りの田圃は豊かに実った稲穂が色づきはじめ重そうに頭を垂れていました。
もう10日ほど前、JAみのりの本部6階から眼下を見ると新たな風景が目に入りました。社町時代から町民に親しまれてきた体育館が解体され、姿を消していました。このブログでも同じ窓からの風景をよく紹介してきました。そこには体育館と遠くに三草山が望めるといったものでしたが、新たにこの地に加東市新庁舎が建設されることになり、体育館は解体されたものです。やがてこの位置に新庁舎が姿を現し、新しい風景が現出します。その前の姿をこの写真で記録に止めておきます。
加東市上三草の旧道、下三草との境に孝女ふさの碑があります。戦前の修身教科書に孝行の部で取りあげられたことで知られており、この歴史ブログでも何度も紹介してきました。その碑の脇の道を入って田圃の方へ進むと、三草川の川辺にぽつねんと石碑が立っています。石正面には馬頭観世音と刻まれています。この碑のいわれははっきりしないようですが、暴れ馬が静まるように拝むと馬が落ち着いたと伝えられています。源平の三草合戦もあった土地ですし、江戸時代には三草藩もあったということで、馬を弔って建てられたものではとの説もあるようですが、確かなことはわからないとされています。
まさにぽつねんと立っているのです。
まさにぽつねんと立っているのです。