昨日紹介した故赤松俊彦先生の奥様からいただいた『加東郡の文化財-石造遺品編』の他に、社高校地歴部の地域調査研究報告誌2号「青野原新田ーその成り立ちと生活」(昭和46年4月刊)もいただきました。
地歴部の顧問は故吉田省三先生で、部員の中には懐かしい同級生の名前が多くありました。
開いて読んでみると、青野原新田、すなわち現在の加東市高岡地区の歴史や生活などの地域調査の結果がまとめられており、興味深い報告につい引き込まれてしまいました。
青野原新田は、江戸時代の享保年間、すなわち18世紀の前半に開墾が始まりため池や水路がつくられ、人々が移り住んだのです。当時は幕府が新田開発に力を入れており、幕府領が多かった青野原の新田開発の許可が出て、河高村の庄屋だった大久保六郎兵衛が開発を進めたとあります。
伝承の項に「夢みせ」と題された伝承が紹介されていました。大久保喜市(六郎兵衛の長男の喜市(一)郎か)は、来る日も来る日も松の木の根っこや石を取り除く作業と格闘していましたが、ある日の午後、疲れて眠ってしまいました。すると、目の前に白髪、白装束の老人が現れ、自分はこの地に昔から住んでいて土地を開く者を待っていたといい、助けるという言葉を伝えると、姿を消したのです。夢に出てきたこの仙人のような老人はきっと神様だと思い、喜市は喜んで開発を進めた、という話でした。喜市は神様を白狐の化身と敬い、神社を建てました。それが高岡の稲荷神社です。境内には開発を指揮した大久保喜市郎の銅像が建てられています。
今の高岡地区は豊かな実りをもたらす水田が広がる大きな地区ですが、その成り立ちにこうした伝承があることを知ると、何かロマンを感じます。