ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

清水寺⑤-清盛の母、大宝塔建立

2011年05月31日 05時00分55秒 | Weblog
 清水寺は日本最初の観音霊場として開かれ、歴代天皇によって堂宇が建立されてたことを紹介してきました「清水寺誌」(昭和32年刊)。推古天皇、聖武天皇、そして行基など歴史の教科書に出てくる天皇や人物の名が連なっています。今日は、さらに平清盛や源頼朝らの名も出てくる大塔やお堂の建立について紹介します。

 平清盛の母、祇園女御は清盛を出産するとき、清盛の武運長久を祈って、御嶽山の山頂に日本唯一の大宝塔を建立した、とされています。今は大塔を見ることはできませんが、私は小学生の頃、塔にのぼって遙か瀬戸内海に浮かぶ小さな船影を見たことがあります。この大塔は根来寺大塔、高野山金剛峯寺大塔と並ぶ日本三大大塔だといわれています。
 その他に御白河法皇が常行堂を、池の二位殿は薬師堂を、源頼朝が阿弥陀堂を建立したと伝えられています。こうしてみると、いかに清水寺が観音信仰の霊場としてあがめられていたかがわかります。写真は昭和10年代の根本中堂と大塔の姿です。


 
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清水寺④-聖武天皇・行基菩薩創建の講堂

2011年05月30日 05時21分07秒 | Weblog
 今日は「清水寺誌」(昭和32年刊)から、大講堂の建立について紹介します。
 清水寺の大講堂は、これがまたすごいことに、聖武天皇の勅によって創建されたと伝えられています。その経緯は次のとおりです。
 清水寺に行脚した僧行基が、聖武天皇に日本最初の観音霊場であると奏聞したところ、天皇が行基に千手千眼観世音菩薩の座像を胎内仏としてさらに丈六のおサヤ仏と脇士地蔵菩薩、毘沙門天王を彫刻させ、大講堂を建立し、ご本尊として安置された、というものです。
 のちに、花山法皇が西国順礼をされたとき、この大講堂にお参りされ、御詠歌されてから、大講堂は西国第二十五番の札堂と称えるようになったとあります。御詠歌は

 あはれみやあまねきかどのしなじなに なにをかなみのここにきよみず

です。
 聖武天皇といえば奈良の大仏、というように深く仏教を信じて国中に広めようとした天皇として有名です。また、行基は奈良時代に活躍した僧侶で、多くの寺を建てたり、ため池などを造っています。聖武天皇が行基に命じられたのが神亀2年とありますから、西暦725年、今から1286年前のことになります。写真は現在の大講堂ですが、大正6年に再建されたものです。
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清水寺③-推古天皇創建の根本中堂

2011年05月26日 05時25分37秒 | Weblog
 加東市平木の御嶽山清水寺の山号寺号の由来を「清水寺誌」によって紹介しましたが、今日は、清水寺の根本中堂の造営についての話を紹介します。

 推古天皇は仏教を深く信仰し、御嶽山清水寺が日本最初の観音霊場であることを聞き、勅願をもって金堂を造営されました。それが根本中堂です。今の根本中堂は大正6年に再建されたものです。この場所は、すでに紹介した「南無観世音菩薩」と刻まれた大石が出現した跡です。本尊は法道仙人による一刀三礼の秘仏、十一面観世音菩薩で、開眼のときには、却って仙人を礼謝されたと伝えられる霊仏で、勅封され諸人の拝礼が禁じられたとあります。

 推古天皇の35年といえば、今から1380年余り前のことになります。聖徳太子が摂政として、仏教を広めたのも推古天皇の時代のことです。清水寺は歴史上何度も火災にあい、その度に再建されてきました。今の根本中堂も大正2年の全山大火で焼失し、同6年に再建されたものです。それにしても、仙人一刀三礼の秘仏、生身の十一面観世音菩薩が仙人を礼謝されたという話はすごいですね。写真は根本中堂の絵葉書です。
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清水寺②-山と寺の名の由来

2011年05月25日 05時15分54秒 | Weblog
 昨日に続いて、清水寺(加東市平木)の「清水寺誌」(昭和32年刊)から、寺の縁起を紹介します。

 今から約1900年前のころ、大陸から飛来した法道仙人がこの峰に降り住み、祈ったところ、「真無観世音菩薩」と刻まれた大石が出現し、この地が日本最初の観音霊場となった、というところまでを紹介しました。

 まず、御嶽山(みたけさん)の名前の由来ですが、ある時、仙人が景行天皇にこの地に仏閣を造ることをお許し下さるようにお願いをしたところ、天皇はただちにこの峰四方四里を仙人に与えられ、それでこの峰を御嶽山(みたけさん)と呼ぶようになったということです。

 また、清水寺の寺号の由来については、次のような話が伝わっています。
 仙人がこの峰に住み始めたものの高い山の上ゆえ水を引くわけにもいかず、仙人は常に山霊水神に祈っていたところ、忽然と清水がわき出し、日照りでも水位は下がらず、大雨でも増えないという不思議な霊水を得ることができました。欽明天皇の時代に清水寺と名付けられ、その後も冷泉は湧き続けているというものです。
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清水寺のすごさ①

2011年05月23日 05時56分56秒 | Weblog
 5月9日のブログで紹介した「清水寺誌」(昭和32年発行)には、清水寺の縁起や大正の大火からの再建、赤松氏範討死の話などが掲載されています。
 清水寺は西国25番札所として知られ、多くの参拝客が訪れる天台宗の名刹ですが、その縁起について、あらためてこの「清水寺誌」に記されている内容を紹介します。
 今、パワースポットが人気をよんでいますが、清水寺は仙人開基の日本最初の観音霊場でありますから、まさに元祖パワースポットといえます。また、その霊験にあやかるべく、日本歴史上、天皇や武将などが堂宇の建立に名を連ねています。
 開基は播磨地方の多くの寺の開基で知られる法道仙人、推古天皇の勅願により根本中堂が創建され、聖武天皇の勅により大講堂が建立されたと伝えられています。また、大塔は平清盛の母、祇園女御が清盛出産のときに武運長久を祈願して建立され、常行堂は後白河法皇によって、また、阿弥陀堂は源頼朝によって建立されたと伝えられています。さらに蝦夷征伐で知られる坂上田村麿は毎月参籠し、刀を奉納しています。
 法道仙人がチベットから中国、朝鮮を経て日本に飛来し、播州丹波摂津三国の境の峰に住んだのが景行天皇の頃、すなわち1900年ほど前のことです。あるとき、仙人が祈っていると、自然と峰が裂け、土の中から大石が出現して、その石に「南無観世音菩薩」と刻まれていた。仙人は大喜びし、再びこの大石を元通りに埋めて、観音霊験の地とした、ということです。これが日本最初の観音霊場とされる話です。すごいですね。
 写真は根本中堂から大塔を望んだものです。昭和10年代のものです。  つづく。
 
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高岡の道標-異国船打払令のころから

2011年05月22日 17時03分47秒 | Weblog
 加東市高岡の旧道沿いに一本の古い道標が立っています。もう草が伸びて下部は見えなくなっています。表面もところどころ剥がれて刻まれた文字もはっきり読み取れません。
 それでも側面には、文政八年と刻まれています。西暦1825年にあたるので、今から185年前のこと。歴史の教科書では異国船打払令が出された頃です。
 今は狭い旧道を車が走っています。脇の田圃では農家の人が畦の草刈りの最中でした。よく通る道で、気になっている道標でした。
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嬉野台地の記憶を伝える赤松の庭

2011年05月19日 05時35分58秒 | Weblog
 加東市役所社庁舎がある嬉野台地の西端には、市役所を中心に、税務署、福祉センター、公民館、体育館、保健センター、ケーブルテレビ局、武道館、保育園、中央図書館、さらにみのりJA本店などの公的施設が集中していて、いわば加東市の中心となっています。
 また、ステラパークやメモリアルパークなどの公園もあって、市民の憩いのスペースが広がっています。国道372号線をはさんで東側には、赤穂浪士の一人、吉田忠左衛門が築造の指揮をしたとされる状が池と公園もあり、社中学校、社高等学校がその東に連なって学園ゾーンを形成しています。
 さて、前置きが長くなりましたが、社公民館と社福祉センターの間に、赤松林の庭園があります。公民館2階の南に面した研修室の大きな窓からその赤い太い幹がまるでふすま絵のように望めます。
 松林は日本庭園になっており、風のある日には松風の音を楽しむこともできます。この場所に立って静かに目を閉じると、かつての嬉野台地を覆っていた松林の中に身を置いているようで、懐かしさが湧いてきます。
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三草小学校の二宮金次郎像

2011年05月17日 05時23分46秒 | Weblog
 14日(土)、恒例の茶摘みが行われる市立三草小学校を訪問しました。茶摘みには残念ながら参加できないので、朝早く行ってみますと、茶畑では校長先生はじめ、先生や保護者、地域の方々が草刈り機のエンジン音をうならせて準備作業にあたっておられました。その中にこの春に別の学校へ異動された教頭先生の姿もあり、楽しそうに手伝っておられました。

 児童が登校してくる頃、駐車場に向かうと石碑や像が目にとまりました。頂上部が丸くなっている石柱は、講和条約記念のものでした。隣の像は、二宮金次郎の石像(セメント像か)でした。先日テレビを見ていると、最近はこうした二宮金次郎像がない学校が多くなったとか、座って本を読んでいる金次郎像もあるとか、それは歩きながら本を読むと危険だからという理由らしいとのことでしたが、あるいはロダンの考える人、鉄腕アトムなど現代風のものに代わっているということが紹介されていました。

 加東市内の小学校には二宮金次郎の銅(石)像があるのをよく見かけます。それに、藩財政改革を次々と成功させた二宮金次郎は今やブームでもあるのに、学校でそうしたことが評価されないで、表面的な姿、形だけで忘れられいくのは残念なことです。
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秋津の薬師堂-室町時代の姿を伝える

2011年05月16日 05時25分24秒 | Weblog
 加東市秋津(常田地区)の県道沿いに草葺きのいかにも古いお堂があります。この前に紹介した秋津百石踊りが行われた住吉神社のすぐ近くにあります。このお堂が秋津の薬師堂で、兵庫県の重要有形文化財にしていされています。
 説明板の解説によると、室町時代末期の辻堂建築として貴重な建物だとされています。また、お堂の本尊である木彫薬師如来坐像は市指定文化財になっており、胎内の墨書に造立の経緯などが書かれているということです。
 この道を走るとき、家並みの中に突然目に入ってくるこのお堂。400年余り前の姿そのままに今の時代に伝わっていることに感動します。
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郷土の伝統食これ一冊で

2011年05月11日 05時31分29秒 | Weblog
 先日、加東市高齢者大学の開講式の記念講演で、ドイツ人の僧侶、ネルケ無方師のお話を聴きました。演題は「心の主食」。ご自身の経歴や現在の生活のようすについて話されたあと、日本人は主食である米を食べる割合が低くなって、その分、おかずを多く食べるようになったために、精神的にも拠り所、芯となるものを喪っているのではないか、といったことを指摘されました。確かに、日本人の米の食べる量は激減しています。私も高校時代には、アルミの弁当箱にご飯を詰め込んで、蓋で押さえ込むほど入れていたことを思い出します。ご飯のおかわりも2杯、3杯は当たり前で、5杯ぐらい食べていました。とにかく、ご飯さえ食べていれば幸せ、という感じだったような気がします。我が家の子ども達がほんの少しのご飯とあとはおかずという構成で小さな弁当箱を持って行っていたのを危うい気持ちで見ていました。
 
 今、手元に『郷土の食文化-伝えたいハレとケの食-』と題したやしろ食文化研究会の冊子があります。数年前に地元の郷土史家の先生の奥さんからいただいた冊子ですが、郷土に伝わる伝統行事と行事を彩る食事が作り方とともにまとめられています。正月から大晦日まで月ごとの伝統行事と行事食が写真や作り方、エピソードなどとともに紹介されています。ページをめくるたびに小さい頃の記憶がよみがえってきます。また、行事食とともに日常食も紹介されており、やはり味覚とともに懐かしい記憶がよみがえってきます。ネルケ師のいわれる通り、これらの伝統食はまさに日本人の食文化であり精神文化の核になっているものだと思います。「いただきます」「ごちそうさまでした」と食前、食後の言葉がそろっているのは世界の中でも日本だけだと聞いたことがあります。もう一度、郷土食、食文化を地産地消の推進とともに見直していきたいと思います。
 
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清水寺誌-開山千三百三十年特別号

2011年05月09日 05時12分01秒 | Weblog
 ここに昭和32年4月18日発行の清水寺誌があります。B6判、58頁の小冊子です。表紙下に「当山開創壱千三百三十年記念法要 開扉特別号」と印刷されています。
 清水寺は、約100年前の大正2年(1913)の山火事で全焼してしまいましたが、大正時代に堂塔が再建され、昭和2年に落慶法要が営まれています。そして、推古天皇35年の創建から1330年を記念してこの小冊子が発行されたということです。

 口絵写真には、炎上前の堂塔伽藍や今はない大塔や山門なども掲載されています。そして、目次は次の通りです。

目次
 再建記念碑文
 清水寺縁起
 当山の復興
 山の行事
 山の活動と施設
 清水寺史蹟と伝説
 清水寺鐘銘
 山の宝物
 恩師善照大僧正を讃へて
 史蹟清水 赤松氏範 

 全文にルビがふってあり、誰でも読めるようになっています。なかでも、赤松氏範の話は33頁から56頁にわたっており、おもしろい読み物になっています。赤松一族でただ一人南朝側に立って奮戦した氏範の最後の決戦を描いています。この歴史ブログでも氏範の墓を紹介してきましたが、小学生の頃、清水寺に泊まった翌朝、草をかきわけて山道を行き、氏範の墓に連れていってもらったときの記憶は今も鮮明によみがえってきます。
 その頃、小学校でお話を聞く会があり、山の下の村人の家に武士の幽霊がやってきて、供養してくれと頼んだので山に登ってみると、誰にも忘れられた墓があり、それから村人は毎年供養をするようになった、というお話を聞いたことを覚えています。その話とこの赤松氏範の話が妙に一致してしまって、今も私の中では一つの伝説と生きています。そんなことを思い出しながら、この小冊子を読んでいます。
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上滝野の道標-善導大師千二百五十年忌記念

2011年05月07日 05時30分50秒 | Weblog
 加東市上滝野の旧市街の路地を歩いていると、ブロック塀の前に一本の道標が建っていました。車が入れない道で、たまたま歩いていて出会った道標に思わず嬉しくなってシャッターを切りました。

 道標には「善導大師千二百五十年御遠忌記念」「右 野間谷 左 光明寺」と刻まれています。この細い道は光明寺へお参りする古い道だったのでしょう。善導大師千二百五十年といえば、調べてみると昭和5年(1930年)にあたります。今から約80年前の昭和初期に建てられた道標のようです。野間谷は現在の西脇市。この道標を西に向かって立つと、右は北の野間谷へ、そして左は正面の五峰山光明寺につながるというわけです。

 善導大師は唐の高僧で、三幅の自画像を描き、唐、天竺、日本に一幅ずつ留めた(『新修加東郡誌』)うちの一幅が光明寺の塔頭寺院の大慈院に納められているということです。
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朝光寺の鬼踊り-国宝本堂屋根修理

2011年05月06日 06時25分09秒 | Weblog
 5月5日(木)、こどもの日に加東市畑(はた)の国宝朝光寺では伝統の大般若経転読法要、鬼踊り法会が行われました。

 大型連休で一番天気がよかったこの日、朝光寺周辺の山々は新緑がまぶしく光っていました。昼頃には寺に続く道路に訪れた人の車が数珠つなぎとなっていました。整理に当たる地元消防団員の話では、もう10時過ぎに駐車場が一杯になったということでした。車を降りて少し歩くともう汗ばみ、上着を脱ぎました。

 朝光寺では国宝本堂の屋根の葺き替え工事が行われており、屋根を覆う工事用の足場が頭上にかぶさってきます。こうしてみると、本堂の大屋根が如何に巨大であったかをあらためて実感させられます。また、境内の多宝塔の隣に工事事務所のプレハブ建物が設置されており、いつもの格好のお茶席がないのは残念だったが、ここでも比較物があることで、多宝塔の大きさに驚くことになりました。

 本堂の中では多くの僧侶によって大般若経転読法要が始まっていました。いつもの年なら、この法要の大音声を聞きながら、境内に設けられた鬼踊りの舞台のまわりで静かに鬼の登場を待つわけですが、今年は舞台が道路に面した駐車場に設置されていました。
 天気がよすぎて日焼けしそうな舞台周辺でしたが、いつものように写真愛好家が場所取りをしていました。やがて、鬼踊りが始まりました。大きな鬼のお面をつけ、緑や茶色の衣裳をつけた鬼が次々と登場し、大きな松明を振り回し、或いは斧、剣、錫杖を持って、太鼓の単調なリズムに合わせて跳んだり、回ったりして踊ります。舞台の背景はいつもなら本堂なのですが、今年は新緑の山。こうして今年も伝統の鬼踊りを堪能しました。

 連休の間、加東市では、光明寺の花まつり、秋津住吉神社の百石踊り、そして朝光寺の鬼踊りと、古い歴史をもつ伝統行事が3つも行われました。いにしえの手振りを受け継ぐ踊り、遠く数百年来の過去をしのぶこうした行事をもっていることに心から感謝し喜びたいと思います。
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秋津百石踊り-住吉神社で奉納

2011年05月05日 06時37分40秒 | Weblog
 5月3日(火)、加東市秋津の住吉神社境内で、この地に古くから伝わる雨乞い踊りの百石踊が奉納されました。
 境内には多くの人が見物に訪れ、宮司さんの説明を聞いたあと、百石踊りが始まりました。
 秋津百石踊は、「旱魃の時には住吉神社の神前で踊って雨乞いをせよ」という神功皇后の言葉があったと伝えられている住吉神社の神事です。パンフレットの説明によれば、実際は室町末期から桃山初期の頃に雨乞い踊りとして始まったものだろうとされ、この踊りを一度催すと、百石分の経費を必要とすることから百石踊りと云われているそうです。もとは住吉神社の氏子村が参加していたそうですが、今では西戸(さいど)地区保存会だけが伝えています。
 昭和47年に兵庫県の重要無形文化財に指定されています。最近では、平成6年の日照りの年に雨乞い祈願で奉納されています。私は、東条とどろき荘で披露された時に初めて見ましたが、太鼓の拍子と踊り手の問答など、その独特の踊りに感銘を受けたことを覚えています。その後も一度見て、今回で3度目ですが、神社境内という本来の舞台での踊りにさらに深い感銘を受けました。
 この地に伝わる古い踊りを代々伝えていく、継承していくことはたいへんなことです。伝統の祭りであっても、時代の変遷とともに消滅していくことも少なくありません。また、一端途切れてしまうと、その復活、復元は困難になってしまいます。この雨乞い踊りが西戸地区の皆さんによってこうして伝えられていることに心から感謝したいと思います。
 現在では、東条ダムが築かれ、用水路網を通して、加東市、小野市域のため池、田圃に水が送られています。台地にも水が送られ、土地が拓かれました。しかし、この地域は全国的にも降水量が少なく、昔から川に堰を築き、水路をつくって田に水を引く、あるいは池を築き、水を溜めて田に水を引く、そうした血のにじむような努力が積み重ねられてきた歴史があります。水争いの歴史も伝えられています。そうした地域の環境の中で生きてきた先人の生き方、すなわち文化を伝え、教えてくれているものの一つが百石踊りです。
 東条川がすぐ近くを流れています。ダムと用水路、ため池、田園、そうしたものを軸に営まれる地域の祭りや人々の生活をひっくるめて、疎水文化とよんでいますが、まさに伝統の百石踊りは東条川用水疎水文化を代表する歴史的な文化遺産だと思います。
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社の新風景-130年余の歴史・裁判所

2011年05月03日 05時47分38秒 | Weblog
 加東市社の街にまた新しい風景が加わりました。それは、社区裁判所。道路に面して新庁舎が建てられました。元は県立社高等女学校があった場所です。前の庁舎は道路からだいぶ奥にありましたが、その前庭に新庁舎が建てられています。
 社には国や県の機関が昔から多くありますが、裁判所は明治11年(1878)に姫路治安裁判所社出張所が設置されて以来の歴史があります。130年余りを経過して、ニュー裁判所が社の新しい風景に加わりました。朝日に光る新庁舎です。
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