ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

何に見えますか?

2024年11月09日 04時57分17秒 | Weblog
 

 ようやく木枯らしが吹き、寒さを感じるようになりました。ふと庭をみると、地面に写真のものが落ちていました。なんだか、ハロウィーンのカボチャのような、ハートマークのような、それとも髑髏(どくろ)のようにも見えます。何だと思いますか?
 これは、胡桃の実が割れて、その半分なのです。おそらく今年落ちたものではなく、去年以前のものでしょう。植木屋さんが入った時に、埋もれていたものが地表に出てきたのではないかと思います。
 庭には、このような胡桃や蝉の抜け殻が残っています。例年に比べると、紅葉が遅くなっているように思いますが、寒さがやってきたので、一気に進むかもしれません。
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火を噴いて飛んでいる!? 4日の夕空に

2024年11月08日 05時29分41秒 | Weblog
 

 11月4日(月)の夕方、午後5時10分過ぎ、事務所から自宅に帰る時に、曇り空の間から、火炎を噴いて飛ぶ飛行機が目に飛び込んできました。
 直ぐに沈んだ夕日を受けて火炎のような色に染まった飛行機雲だとわかりましたが、しばらく見とれていました。そうだ、気がついてカメラを取り出し収めました。あの飛行機の窓からは、西の地平線に沈む夕日が見えているんだろうな、などと想像しながら、シャッターを押しました。
 わが家のある加東市社の上空は、東から西へと飛ぶ飛行機の航路にあたっているようで、天気のよい日には、日の光を受けて光る機体がくっきりと見えます。自衛隊のヘリコプターも飛びますし、ドクターヘリも独特の音をたてながら飛びます。空の雲、飛行機は何歳になっても惹きつけられます。
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ハクセキレイの散歩

2024年11月07日 04時23分09秒 | Weblog
 

 ハクセキレイは私たちの生活の近くでごく普通に見かける野鳥です。電線に止まって鳴いていたり、公園の芝生の上を歩き回っていたり、田圃の用水路のコンクリートの上を歩いていたりと、近づいても余り人を怖れているようすもありません。
 そんなハクセキレイが事務所の近くの路上を歩いていました。じっとしていないので、カメラを取りだしているほんの短い間にもちょこちょこと歩いて行ってしまいます。
 今年は庭の木の葉がまだ緑のままについているので、飛んでくる野鳥を見つけるのが大変です。しかし、ハクセキレイはすぐ近くに姿をみせてくれるので何か友達のような気がしてきます。
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日本一のお大師さん100周年、20年ぶりの土砂加持法会近づく持寶院

2024年11月06日 05時40分05秒 | Weblog
 

 この月10日(日)、加東市社の涌羅野山(ゆらの)慈眼寺持寶院では、20年ぶりとなる土砂加持法会の法要が行われます。また、今年は持寶院にある大師殿の弘法大師木像奉安100周年に当たり、盛大な稚児行列が行われます。
 この歴史ブログでは、度々大師殿の造営、大師像の由来について紹介してきましたが、今年の5月8日にも投稿しました。その記事を再掲したいと思います。写真は、11月4日に稚児行列に参加する孫の衣装を受け取りに持寶院を訪れた際、撮影したものです。

 この弘法大師像が安置されている大師殿は、大正14年(1925)に建てられました。設計は武田五一京都大学名誉教授によるものです。大師殿は現在文化庁の国登録有形文化財に指定されています。
 大師殿内に入ると、正面の大きな弘法大師像に圧倒されます。その高さは台座を含めて一丈六尺(約4・8メートル)とされ、木像の大師像では日本一といわれてきました。仏様の身長が一丈六尺と伝えられていることから、この大師像の高さもこれにちなんで、一丈六尺にしたものではないでしょうか。
 この木造大師像が日本一であるという証明はできませんが、愛知県武豊町の岡川寺の木造大師像も日本一といわれています。ちなみにその高さは3・6メートルとなっているので、持寶院の大師像はやはり日本一といえるかもしれません。
 ここで、大師像にまつわるエピソードを紹介します。
 この大師像は名古屋の仏師が作ったもので、仏師はこの大師像をどこかの寺に納めたいと願っていました。その話を大阪に出て商売をしていた社の人が知り、持寶院に持ち込んだのです。先々代の住職はこれに応じ、木像を持寶院に安置することになったということです。
 寺では木像を安置するための大師堂を建てる計画を進めました。木像は7つか8つの部分に分けられ、はるばると鉄道で運ばれてきました。そして、播鉄の社駅から持寶院までは、丸太を並べたコロの上を滑らせ、稚児行列を仕立てて引いてきたそうです。
 大師堂ができるまでは、庫裏の奥座敷に仮安置されました。しかし、何せ巨大な木像だったので、床をはずして地面に安置してようやく入るという状況だったようです。
 大師堂の建築は、実際に木像を見てから始められました。用材が集められ、境内に置かれていました。
 その頃、持寶院の前に、社自動車運輸株式会社の車庫があったのですが、これが火事になり、自動車の燃料なども置いてあったために人々はその火が用材に燃えうったらたいへんとたいそう心配しました。しかし、大火にもかかわらず、とうとう火は燃えうつりませんでした。
 用材置場の四隅の御幣が燃えなかったために、これはやはりお大師さんの力だと信じられました。

 私は朝のウォーキングでこの大師殿にお参りし、お大師さんに手を合わせて祈ります。稚児行列に参加する孫の母親も稚児行列をしましたし、私自身も小さい頃に稚児行列に参加して、社の商店街を歩いた経験があります。
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「忠臣蔵サミットin加東」2日目 田辺眞人さんが講演

2024年11月05日 04時50分55秒 | Weblog

 4日(日)、昨日から加東市で開催されている「忠臣蔵サミットin加東」の2日目の取り組みで、田辺眞人氏(県立兵庫津ミュージアム名誉館長・園田学園女子大学名誉教授)による「忠臣蔵・赤穂義士と加東市」と題した講演が行われました。
 田辺氏は、赤穂事件が起きた元禄の時代の時代的特徴、事件に対する当時の識者の評価、そして、この事件のドラマ化が忠臣蔵となったことなどを解説され、最後に当時の兵庫県内の支配関係、旧加東郡(現加東市、小野市域)内の赤穂浅野家との関係、家原浅野家と義士の寺、観音寺について話された。
 若い世代にも「忠臣蔵」を知ってもらうために、義士検定・忠臣蔵検定などの工夫をしてはどうかという提案もあった。
 私の歴史ブログであるこの「ふるさと加東の歴史再発見」では、毎年12月14日の義士祭前後には、赤穂義士関連の記事を投稿してきました。特に、四十七義士の150年忌に観音寺に四十七義士の墓碑がつくられた経緯も紹介してきました。善龍院の僧明範が勧進して、北播磨の赤穂藩にゆかりの深い村や人々から浄財を集め、墓碑をつくりました。この四十七義士の墓碑は、まさに義士を追慕し、その忠義を讃える民衆の心がおこもった浄財でつくられていることが大きな特徴だと思っています。社町で義士祭が始まったのは、青年団だった父の当時の日記に記述されていることから昭和のはじめだったことが分かります。もうすぐ100年を迎えることになります。
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文化の日 庭のヒヨドリ 日没後の空

2024年11月04日 04時57分25秒 | Weblog
 

 3日(日)は「文化の日」でした。明治天皇の誕生日です。今年は、明治157年にあたります。
 昨日とはうって変わって素晴らしい秋晴れとなりました。加東市では、地区敬老会やスポーツ大会が開催されました。また、「忠臣蔵サミットin加東」が行われ、忠臣蔵ゆかりの全国の自治体のうち、12都市が出席しました。
 それらの行事に出席し、その合間に自宅に戻ると、甲高いヒヨドリの鳴き声が聞こえました。庭の柿の木から隣の駐車場の桜の木の枝に飛び移ったところをカメラに収めました。
 夕暮れ、忠臣蔵サミットの歓迎レセプションに行く前、2階のベランダから見た西の空には、社のエッフェル塔(と私は呼んでいる)が残光を背景にくっきりと浮かんでいました。いい天気の一日でした。
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馬瀬の古民家で「夢を育むコンサート」 手作りおはぎでティータイム

2024年11月03日 04時34分59秒 | Weblog
 


 2日(土)、午後1時30分から、加東市馬瀬の大前家宅で「夢を育むコンサートin馬瀬」が開かれ、参加しました。
 社小学校6年生の時に隣の組の担任だった故大前信義先生のお宅で、ご長男の大前哲彦氏が中心になり開かれたとのこと。古い家の襖はすべて外され、コンサート会場になっていました。そこに5,60人ほどの人が参加し、歌とピアノ演奏を楽しみました。
 歌は、まつぼっくり音楽の森の会代表の荒井敦子さん、音楽療法士として世界を舞台に活躍されており、インドやネパールの話、歌も披露されました。ヒンズー語の歌も初めて聴きました。ピアノ演奏の青木弘武さんの演奏、そして、音響チームも素晴らしく、古民家が素晴らしい音楽堂になっていました。
 大前哲彦さんは、ご先祖から継承したこの馬瀬の家、田畑、山を活用して、「夢」を育む取り組みをしていきたいと話され、その思いの第一弾としてこのコンサートを企画されたということでした。
 演奏が終わり、ティータイム。グループの皆さん手作りのおはぎがテーブルに並び、紫式部が添えられ、お茶をいただきながら、参加者が思いを語るという形でなごやかな一時になりました。
 大前先生のお宅は旧街道に面し、古来、この道は源平合戦の兵、西国巡礼の信仰者など、京、大坂、播磨への道として、長い歴史を伝えています。そんなふるさとを大切にする取り組みでした。
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画集・播磨の飛行場ー服部武司さんが描いた5つの飛行場 

2024年11月02日 05時53分11秒 | Weblog
 


 31日(木)、3日間の常任委員会調査を終えて帰宅すると、服部武司さん(加東市在住)から一冊の画集が送られてきていました。
  『画集・播磨の飛行場』と題された画集でした。服部さんがこれまで長年にわたって描かれてきた、大東亜戦争末期に播磨地方にあった海軍、陸軍の飛行場と戦闘機製造にあたっていた川西航空機工場、兵隊さんや地元の人々のようすなどが130枚余りの絵と解説文が収録されています。
 播磨地方には、鶉野(加西)、尾上(加古川)、相野(三木)、明石、嬉野(社)の5つの飛行場が建設されました。そのうち、鶉野飛行場は、現在、整備され、「Soraかさい」には、復元された実物大の紫電改が展示され、飛行場建設、海軍特別攻撃隊「白鷺隊」などの貴重な資料が展示されています。また、加東市の嬉野にあった社飛行場跡は、現在県立総合教育センターなっていますが、戦争末期にこの地にあった兵庫県学徒錬成場の記憶は、県立嬉野台生涯教育センター(上久米)に宿舎(復元)や写真資料などが保存、展示されています。
 この歴史ブログでは、鶉野飛行場建設に動員された社の住民の出役記録なども紹介してきました。また、服部武司さんの描かれた嬉野(社)飛行場の絵も紹介してきました。今、こうして画集にまとめられたことを心から嬉しく思うととともに、貴重な歴史の記憶として今を生きる私たちの共有財産として大切にしていきたいと思い、紹介しました。

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地域の歴史を地域活性化へつなげる-「炭鉄港」の取り組みに感銘

2024年11月01日 06時21分20秒 | Weblog
 


  10月29日から31日の3日間にわたり、県議会産業労働常任委員会の管外調査で、北海道の道央地方を訪れました。その最終日に、岩見沢市の空知総合振興局(旧空知支庁)、炭鉱の記憶マネジメントセンター石蔵(NPO法人の拠点)を訪れ、日本遺産「炭鉄港」の取り組みを調査しました。
 「炭鉄港」とは、石狩炭田、室蘭の製鉄、鉄道、小樽の港を一つのストーリーで結び、日本の経済発展を支えたこの地方の炭田と鉄道、港を表す言葉で、この地域の歴史を結びつけ、それらを大切な歴史遺産、産業遺産の記憶として日本遺産登録へと取り組んできたことを端的に表す言葉となっています。
 NPO法人「炭鉱の記憶推進事業団」の取り組みについて、代表から説明を聴きました。この取り組みを牽引してきた故吉岡宏高さんの遺志を引き継ぎ、観光資源として、さまざまな取り組みに挑戦、奮闘されていることに感銘を受けました。
 総合振興局で、兵庫県の日本遺産「銀の馬車道」と連携しながら、取り組みを進めてきたとの説明を受け、この夏に訪れた兵庫県朝来市の明延鉱山の神子畑選鉱場跡のことを思い出し共通うるところがあることに気づきました。
 佐渡金山の世界遺産登録が話題になったところですが、北海道石狩炭田も明治日本の近代産業革命、戦後の経済成長を支えた貴重な産業遺産であると思います。今、北播磨を中心として酒米山田錦の生産システムの日本農業遺産登録をめざした取り組みが進んでいます。こうした産業遺産はまさに地域、日本をつくりあげてきた歴史そのものであり、その中での先人の工夫や苦労、努力は今の時代を生きる私たちにとって、誇りや地域への愛着、自信の源となるものだと思っています。
 「炭鉄港」って素晴らしいネーミングだと思います。いただいた資料の中に「炭鉄港めし」ガイドブックがあります。焼きそば、ホルモン、とりめし、そして、がんがん鍋(ストーブの上に大鍋で具材をがんがん煮る)など、食べてみたい料理が満載でした。
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社の牛市場や母の実家の牛の思い出 共進会から 

2024年10月29日 04時24分11秒 | Weblog
 

 小さい頃、昭和30年代はじめ頃のことだと思います。今の加東市社の田町通りの北側の一角に牛市場がありました。現在は北播磨建設業組合、社三区集会所がある所です。
 毎月4のつく日、4日、14日、24日だったと思いますが、牛のせり市が行われていました。朝の4時頃には、牛の鳴き声がよく聞こえてきました。田圃一枚をはさんでわが家がありましたから、その鳴き声、牛のうんこの臭い、そして道にぼたぼた落ちたうんこがあちこちにありました、
 この牛市場には、南は紀州(和歌山県)、西播の山崎、但馬など近畿一円から牛が集まってきて、セリが賑やかに行われていると聞かされていました。その後、道池の埋め立て地、今の社郵便局に移転し、市が開かれました。
  田町通りは馬喰さんが泊まり、宴会などして賑やかだったと聞いています。地元の大先輩からもそうした昔話をよく聞かされました。
 家の近くの牛市場は、その後、映画館になりました。懐かしい昔の話でした。こんなことを思い出したのも、27日(日)に、県立播磨中央公園(加東市下滝野)で、第106回兵庫県畜産共進会が開かれ、世界に誇る兵庫の寶但馬牛のセリを観覧したためです。これまで、淡路や但馬で開催されていた共進会が県央の播中公園で開催されるとあって、本当に懐かしく、嬉しい気持ちで楽しませてもらいました。
 去年は県議会の農政環境常任委員として、但馬牛博物館(新温泉町)や畜産農家を訪れ、但馬牛について調査をしていたこともあり、共進会が楽しみでした。
 小さい頃、農家だった母の実家は、同じ屋根の下に牛が飼われており、農作業にとって牛はなくてはならない存在でした。お祖父さんが牛のえさを炊いていたことや、庭につないだ牛のお尻にこびりついたうんこをきれいにしたり、牛の散歩する光景も目に焼き付いています。牛はえらいもので、お祖父さんの声一つで動いていましたが,若いいとこが牛を使おうとすると、田圃の真ん中でどうばってびくとも動かなくなった姿も見ました。大きな目でぎょろっと見られると、子供の頃は怖かったものでした。
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明治27年発行の高等小學國民習字帖に見る当時の日用字

2024年10月27日 04時33分50秒 | Weblog
 

 今日も古い習字帖を紹介します。明治27年(1894)発行の『高等小學 國民習字帖 第三』です。今から130年前のもので、発行は神戸市元町の船井弘文堂となっています。
 前半は楷書日用文字、後半が行書日用文字の構成になっています。今日は行書の手本を紹介しますが、最初に実の生る木や花の木の名称が出てきます。まるで漢字検定のテキストを読んでいるようで、中には、読めないものもありました。
 当時の高等小学校の児童はこうした漢字を筆で書くのが普通だったんでしょうね。この教科書も社尋常高等小学校に通っていた地元の方が使っていたものです。昔の人はたいしたものです。ちなみに読み方は次のとおりです。
 林檎(りんご)、蜜柑(みかん)、胡桃(くるみ)、石榴(ざくろ)、銀杏(いちょう)、葡萄(ぶどう)、無花果(いちじく)、仏手柑(ぶしゅかん)、櫻(さくら)、椿(つばき)、葵(あおい)、菊(きく)、萩(はぎ)、薊(あざみ)です。
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明治21年小學習字帖ー実用句がずらり

2024年10月26日 04時29分16秒 | Weblog
 

 今日も古い習字の手本を紹介します。明治21年(1888)発行の小學
習字帖です。開いてみると、実用的な字句が次々と出てきます。それらは、そのまま当時の社会のようすを表しており、小学生でこうした言葉を読んだり、書いたりしながら、社会生活への導入が行われていたんだなと思いました。
 さらに読めるかなと思いながら声にだしてみるのも楽しいものでした。今はメールですが、当時は紙に書いて届けるわけですから、慣用句を使って的確に伝えることが大切だったのでしょう。
  
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明治34年発行の高等小學校用『國語習字帖』巻一20世紀の始まり 

2024年10月25日 05時11分17秒 | Weblog
 

 昨日に続いて、明治時代の小学校で使用されていた習字の教科書を紹介します。
 明治34年(1901)発行の高等小學校用『國語習字帖』巻一です。この手本も地元の方からいただいたもので、実際に社尋常高等小学校の一学年で使われていたものです。20世紀が始まった年、今から123年前のことです。
 発行・印刷は、東京市日本橋区呉服町1番地の株式会社普及舎となっています。発売は、神田の帝国書籍株式会社で、値段は6錢となっていました。
 見開きで、一文が書いてあり、「一生の計は少年の時にあり」、「京阪地方には名所𦾔跡多し」、「ばらの花には刺がり。紅のたけには毒がある」といった教訓や手紙などが書いてありました。何度も書きながら、実用で使えたり、内容も身についたのではないでしょうか。
 20年発行の手本は候文でしたが、変化が見られます。

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明治20年発行の『小學習字帖』巻六より

2024年10月24日 04時10分37秒 | Weblog
 

 今日も地元の方からいただいた古い教科書を紹介します。明治20年(1887)出版の習字の手本です。
 『小學習字帖』巻六。発行所は金港堂書籍会社(東京市日本橋区本町)。この習字帖は、当時、社の尋常小学校に通っていた方が実際に使用されていたもので、名前や書き込みがあります。今から137年前のことで、当時の社尋常小学校は、現在の加東市社の明治館がある場所にありました。
 開いてみると、「首尾よく及第致候ニ付御安心くださるべく候」と書いてありました。候文は短く、的確な表現の文で引き締まった感じがします。明日は日曜で天気よければ鮒釣りにお供したい、などといった文もあります。現代のスマホのメールも短文の表現ですが、こうした筆書きの候文を書いたり、もらったりしていたんですね。何か、いいですね。
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昭和13年刊の『昭和中學修身書』から

2024年10月23日 05時19分54秒 | Weblog
 

 昭和50年代前半に大学を卒業して帰郷し、教員生活を始めた頃だったと思いますが、よく知った近所のおじさんから、旧制中学校時代に使った教科書をいただきました。
 そのうちの一冊が昭和13年2月文部省検定済の『新制準拠 昭和中學修身書 巻二』(永澤金港堂発行)です。
 巻頭には、聖徳記念絵画館の「憲法発布観兵式行幸啓」の絵画がカラーで飾られ、続いて、「天壌無窮の神勅」、「教育二関スル勅語」、「戊申詔書」、「国民精神作興ニ関スル詔書」の日本の国體(国柄)に関する重要な神勅、勅語、詔書が掲げられています。
 目次を見てみると、国體、皇祖皇宗、天皇、皇室、敬神崇祖と祭祀、国憲国法、臣民、忠君愛国、国民皆兵の精神、家、親子、祖先、夫婦、兄弟と親族、忠孝一致、戊申詔書(一)、戊申詔書(二)の17課からなっています。
 教科書にはおじさんが引いた傍線や学習した日付の数字が書き込んであります。また、カラーの挿絵や白黒の写真が掲げられています。
 内容は、私たちが受けた戦後の学校教育では教えられてこなかったことばかりです。敗戦後、GHQが地理歴史教育、修身教育の停止を命じたことがその原因ですが、日本という長い歴史を持った国の成り立ち、国柄、国家や家族観などを教育から排除するというGHQの目的がありました。
 来年は昭和100年にあたります。今から86年前、近所のおじさんが旧制中学校で学んでいた日本の国の姿をこの一冊から知ることができます。わずか、86年前なんですね。
 
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